爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「NHK問題」武田徹著

ジャーナリストで評論家の武田さんが2006年に当時の不祥事相次ぎ受信料不払いも頻発した当時のNHKについて書かれたものです。したがって、現在のお友達会長の常軌を逸した発言でがたがたになっているNHKのことではなく、まだ少しはましだった頃の話なのかも知れません。

NHKは「公共放送」であり、「ジャーナリズム」であるということが言われていますが、これも欺瞞であると言うのが著者の意見です。
公共放送であるからこそ、税金で運営される国営放送ではなく視聴者(現在ではほぼ国民全員)の受信料で運営されるというのがその論理なのですが、そこでは「公共」というのが何かということが問われます。
著者は渡辺浩という人の議論を引用し、日本人は「公」というものを「お上」と間違えているために「公共」もお上のものと勘違いしていると説いています。その時々の政府の意見などが公共であるはずがなく、その他の在野の人々まで含めたすべての人々のものが公共であると言うことです。
これはちょっと私も見落としていた点でした。確かに公共というと政府寄りというような感覚で考えており、「公共工事」などというのも政府の工事と考えて何の疑問も持っていませんでした。

しかし、実は公共はそういうことではないとしたら、NHKの受信料というものも義務ではなく権利であるということです。例えば受信料を払う人の5%の声がまとまれば、NHKの放送の5%はその人々の主張を放送するべきだと言うことです。まさにその通りだと思います。50%を少し越えただけでも成立する現政権の主張だけを放送するのであれば、「公共放送」としての何の存在価値もありません。この辺のところは現NHK会長はなにも分かっていないんでしょう。

このような惨状になってしまっているNHKというものを著者はその成立当時の事情から解き明かしていきます。
そもそも双方向の通信手段であった無線通信から発展してラジオとなってきたわけですが、最初は新聞社の商売敵になるという懸念もあり新聞社が経営に乗り出す動きもあったものの政府主導で公益法人に放送させるということになったようです。その後も日本放送協会となったものの自主的な取材能力を持つジャーナリズムとしての発展には向かわなかった時代があったとか。
そのような時に「ラジオ体操」が出現しました。これはジャーナリズムとはまったく異なる方向でありながら、国民の健康(兵士の健康でもありました)を向上させると言うことに役立つと言う効果をうたわれましたが実際はほとんど健康には効果はなく、ただ同じ時間に皆集まって動くと言う全体主義的な効果はあり、それが終戦時の玉音放送のラジオにもつながるということです。

終戦後は様々な体制作りの動きがある中で、三木鶏朗の「日曜娯楽版」という番組が大きな人気を集めることも起こりました。しかし、そこでの政府批判が激化したため番組は打ち切りとなったということですが、実はそれは聴取者からの投稿作品があまりにも激烈であったということもあったようです。そこまでの番組は存続は不可能だったのでしょう。

その後、テレビ化やハイビジョン化などいろいろの局面でNHKは公共放送としての立場を大きく逸脱する方向で存在し続けてきました。何を目指すのか良く分からない組織になっているようです。

現在の混乱状況も政治や経済の混乱を映し出しているだけなのかもしれませんが、あまりNHKとして存在理由があるともいえないように思います。政府報道機関ならそれをはっきり言えばいいだけの話のように思います。