爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「白川静の世界 Ⅲ思想・文化」立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所編

白川静博士の業績をまとめたシリーズも第3巻最終で思想・歴史に関するものです。
順番から言うと万葉集詩経の研究から入り漢字の成り立ちを研究したというところから、甲骨文字・金文の解読に進んだと言うことになりますので、中国古代の思想歴史に関する考察が始まったのはその後ということなのでしょうか。
それにしても実際に甲骨や青銅器に刻まれた文字を読み解いていくということはこれまでの通説とは異なる解釈をして、さらにかなりの確信を持って発表できると言うことですので、ご本人としてはやりがいのあることだったのではないでしょうか。
そこには甲骨文字の発見と言う大きな事実がなければできなかったかもしれませんが、それを正確に読み解くということは常人にはなかなか難しかったのも間違いないでしょう。

儒教の儒という文字についても後漢の許慎による説文解字には儒は柔、術士の称、とあり、また儒のもととなる需についても需はまつなりとあり、すでに儒教が大きな力を持っていた時代であるためにそれに影響された解釈となっています。しかし白川博士は需は巫祝と関係があるということを解き明かし、そこから儒の本来の意味、そして孔子の出身出自についても明らかにしていきました。
また、儒学の教団としては孟子の出現で大きく変革しまた進捗したのですが、実は孟子よりは荘子の方が孔子の思想に近かったのではないかと提唱しています。荘子は現在まで老荘思想と呼ばれて儒学とは反する勢力のように見られてきましたが、実はそうではないと言うことです。

史記を書いた司馬遷もこれまでは武帝の怒りに触れ死罪になるところを歴史著述のために恥を忍んで宮刑を受けて命を永らえ、史記を書き上げたと言われてきましたが、どうもそれでは時間経過にあわないということを発見しました。
実は司馬遷の父親の司馬談はこれまでは武帝の封禅の儀に参加できなかったことを恨んで死んだとだけ捉えられてきましたが、史記の相当な部分を書き始めたのは談ではなかったかと言うことです。それを完成させるために司馬遷は生き延びたとか。

殷周革命では殷が最後の帝王紂の暴政によって滅亡したと言われていますが、甲骨文にはそのような事例はまったく記されておらず、東方の人方の反乱を制圧するために全力をあげてそちらに向かっている隙に周に攻め滅ぼされたようです。それも東方が殷の出身母体であるために放ってはおけなかったためとか。
またそのために殷の勢力は周の時代になっても強力に残っており、それを統治するために大変な努力がされたそうです。
そもそも周は西方の遊牧民族であるために王家の統制を取るための宗法と呼ばれる基準などはまったく持ち合わせておらず、これはそっくりそのまま殷の制度を取り入れざるを得なかったと言うことです。
また殷の残存勢力で作られた宋の国は色濃くその伝統を残しており、孔子ももとは宋の出身でありまたその他の思想かも宋に縁のあるものが多かったようです。

中国では最近の経済発展で大きな土木工事が多く新たに貴重な考古資料が発掘されることが増えており、文字の書かれた青銅器などが大量に出土しているようです。白川博士が存命ならそこから多くの真実を探し当てるでしょう。しかし、そのあとを継ぐ研究者が多数居るでしょうからいずれは様々なことが明らかになっていくとは思いますが。