爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

読書記録での「あらすじ」記載について

このような書評を載せるブログにおいては「あらすじ」を詳述すると言うのはやはり避けるべきということになっているのでしょう。触れる際は「ネタばれ注意」などという注釈を加えることも良くあるようです。

私の読書記録ではだいたい一日一冊弱のペースで読んで書いていますが、ほとんどが小説以外ですのであまり意識したことがありませんでした。
それでも時々は小説を読むこともあり、重要なとことはぼかしたりと言うことも少しはあったような気がします。

私が読む小説といってもそのほとんどが歴史小説なのですが、この場合は「あらすじ」は周知である場合も相当あります。たとえば一番よく読む宮城谷昌光氏のものだと、氏の初期からのテーマであった中国古代の春秋戦国時代のものはほとんどが司馬遷史記や春秋左氏伝の中のエピソードを元にしたものであり良く知られた物語に作者独特の色付けをされて優れた作品となっています。
このような場合はあらすじ自体が既知とも言えるように感じますので、書評中にあらすじを書くこと自体があまり意味もないように思います。「この次はどうなるのだろう」というワクワク感は持ちようもないので、細かな描写を楽しむということになります。
とはいえ、これらの本を読む人々全てがそういったエピソードに通じているとも限りませんので、たとえば子産、夏姫、重耳、楽毅と聞いても何の連想もしない人も多いと思いますが、そういった人が次はどうなるのという期待を持つのはありえることかとも思います。

こういったことは、例えば日本の信長、秀吉、新撰組といったものを扱う歴史小説の事情とは大きく異なるでしょう。こういった小説では大まかなあらすじはほとんどすべての人が知っていると思われますので、その中で読者の興味をひきつけるのは筋以外のところになるわけです。
日本の歴史小説でも宮城谷氏の三河関係のもの、戦国時代末期の菅沼氏や大久保氏を扱ったものではそのあらすじ自体もほとんど知る読者は居ないかも知れないと思うと、そのあらすじを書いてしまうのはちょっと考え物です。

SF小説も読むことはありますが、これはアイディア自体が存在要件ですので、それは触れてはいけないのだろうなとは思います。当地の市立図書館には梶尾真治氏の著作が十数冊ありましたが一応全部目を通しました。その読後感想文はあらすじは避けたつもりです。

このような基本姿勢ではありますが、筆が滑る(現在ではキーボードが滑る?)ことは大いにありますので、触れてはいけない部分に触れることも無いとは限りません。今からあやまっておきます。