爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より、「Give democracy a chance」

内田樹さんが、毎日新聞から「安倍政権の本質について」というテーマでインタビューを受けたそうです。

掲載されるのは一部でしょうから、ロングバージョンはブログ(研究室)の方に載せておくということです。

blog.tatsuru.com

表題は「Give democracy a chance」、民主制度にもう一度チャンスをということでしょう。

毎日新聞から提示されたお題は「安倍政権の本質」だったのでしょうが、これはもう日本の民主政というものの本質に関わってくるという認識なのです。

 

内容は、戦後の政治の歴史から現在の実情まで、様々な視点から分析されています。

 

これまでの自民党政治は「調整型政治」と言われるように、「国民同士が敵対する事態は避ける」というのが基本でした。

例外的に国論が別れたのが安倍の祖父岸信介が首相の時の日米安保条約の1960年改訂の際の混乱ですが、その後継となった池田勇人は「所得倍増」を打ち出し、国民全体の意志を経済成長に向けることに成功しました。

 

しかし、現政権はもはや国民全体が潤うことなど放棄しました。

「トリクルダウン」などは、(存在するかどうかは怪しいですが)

平たく言えば「勝てるやつに資源を全部集めろ(勝てないやつは「おこぼれ」を待ってじっとしてろ)」ということです。

という内田さんの説明がぴったりです。

 

さらに、このような貧富格差の拡大、国民の分断ということを、安倍政権は意識的に行っているということを指摘しています。

安倍政権が先行者たちと決定的に違うのは、意図的に国民を分断することから政権の浮揚力を得ているという点です。今の選挙制度なら、有権者の30%のコアな支持層を固めていれば、残り70%の有権者が反対する政策を断行しても、政権は維持できることがわかったのです。

ここがまさに、このテーマであった「安倍政権の本質」を表しているところでしょう。

自らの政策ではごく一部の者たちに富を集めておけば彼らは何があっても裏切らない、(もちろんその層は30%も居るはずはないのですが、自分たちがその層であると誤解している連中を合わせれば30%を越えます)

後の連中は踏みつけにしておいても大丈夫というわけです。

 

さらに、「桜を見る会」に象徴的に現れた「身内擁護」もその政権の本質だと論じています。

安倍政権は意図的に縁故政治を行っていますが、これは倫理の問題ではありません。これを単なる「長期政権のおごり」や「綱紀の緩み」だとみなすメディアの評価は本質的な見落としをしていると思います。安倍政権の縁故政治は日本国民を敵と味方に二分するために意図的に仕組まれているものだからです。味方になれば「いい思い」ができ、敵に回れば「冷や飯を食わされる」。そういう分かりやすい仕組みを官邸は作り上げました。

もう自政権の敵は意図的に冷遇されているということです。

 

もはやこれはデモクラシーとは隔絶した政治です。

しかし、トランプのアメリカを初め、諸外国もこのような手法を取る政治家ばかりとなってしまいました。

 

デモクラシーはもはや終わりなのか。

内田さんの文章の最後も、デモクラシーの未来を明るくは見ていません。

反対者を受け入れ、敵対者と共に統治するのがデモクラシーです。国民的な和解なくして、デモクラシーは成り立たないんです。反対者との「気まずい共生」こそがデモクラシーの本質なんです。
 立憲デモクラシーは、王政や貴族制より政体としてできがいいと僕は思っています、ですから、なんとかしてこれを守りたい。でも、分は悪い。刃物を振り回している人を手ぶらでハグするようなものなんですから。「敵対も分断も辞さず、敵は倒す」と言っている人たちに、そういうふうに国民を分断すると先行き国力が衰微しますから、ここは一つなんとか仲良くやりましょうよとお誘いするわけですから、まことに迫力がない。でも、デモクラシーが生き延びるためには、「デモクラシーなんか要らない」という人たちとも手を携えてゆくしかないんです。

厳しい道が続くのでしょう。

しかし、すっきりと社会の動きが分かる説明でした。

 

 

 

正月駅伝では新記録続出、これが靴のおかげだったのか。

正月はいつものように酒を飲みながらテレビで駅伝を見ておりました。

しかし、今年は次から次に区間新記録続出。

なんと箱根駅伝往復の10区のうち、7区で区間新記録が出たそうです。

放送を見ていてもあまりにも大記録大記録といううるさいアナウンス(まあ特にあの局の中継はうるさいですが)にそのうち見るのが嫌になって止めましたが。

 

ところが、その後の報道によればなんと「厚底シューズ」というランニングシューズがその記録続出の原因の一つだったようです。

https://real-sports.jp/page/articles/342321269078754326

 

引用した上記記事は、ランニング専門の情報のようで、厚底シューズにまず最初に取り組んだのが東洋大であるとか、その靴の特性を活かすにはどう走ればよいかといったことも書いてあります。

 

しかし、ちょっと引っかかるものを感じるのは私だけではないでしょう。

 

かつて、表面に特殊な加工をした水着で記録が大幅にアップしたということもありました。

パラのことを取り上げるのは少し気が引けますが、障害者用の義足が大幅に進歩すれば生身の選手より速く走れるという話もありました。

 

より良い記録が出したいという選手や周辺の欲望に、技術で応えてやりたいというメーカーの思惑がからみ、まだまだ続いていきそうです。

 

なお、問題の厚底シューズ、最も高いバージョンでは一足3万円とか。

それが素人ランナーにまで売れるようになればメーカーも十分に元は取れるというところでしょう。

 

完全に公正公平なレースを求めるならば、全選手に裸足で走らせるしかないでしょう。

もしもランニングウェアも問題となるなら、素っ裸で裸足でしょうか。

 

何か、モヤモヤがどんどんと肥大してくるようなニュースでした。

 

追記:

ジャーナリスティックに詳しく解説してある記事もありました。

diamond.jpあの水着のように、厚底シューズ禁止と言う声もあるそうです。

ただし、「一般にも入手できるかどうか」が判断基準となるようですが、いちおうあの靴は普通のランニングシューズよりかなり割高とはいえ市販はされているということが評価はされるだろうということです。

しかし、「耐久距離が400km」だとか。

練習用にも使えば1月も持たないでしょうが、それで1足3万円は素人ランナーや学生では手が出ないでしょう。

「読んじゃいなよ! 高橋源一郎ゼミ岩波新書を読む」高橋源一郎著

作家の高橋源一郎さんは、明治学院大学で教授をされていたのですが、その時期にゼミで「岩波新書を読む」という内容の講義をされたそうです。

始めはゼミ生に読書をさせてその感想文を書くという内容だったのですが、それだけじゃつまらないということで、その著者を呼んで話を聞こうという、特別講義もやってしまいました。

この本では、その3人の特別講義を中心にして、学生たちとの質疑応答などもまとめてしまいました。

ただし、その顔ぶれというのが、哲学者で大阪大学名誉教授の鷲田清一さん、憲法学者早稲田大学教授の長谷部恭男さん、詩人の伊藤比呂美さんという、錚々たる面々です。

 

高橋さんのゼミは明治学院大学国際学部ということで、哲学、憲法、詩といった分野が専門といった学生ではないので、あくまでもその分野では素人たちが読んで、その感想を著者に対して述べるという、面白い企画となっています。

なお、ゼミとは言っても正規の学生だけでなく、元学生や自由参加者たちも含むということで、自由な雰囲気で行われていたということです。

 

鷲田さんの本は、2014年発行の「哲学の使い方」

ほとんどの学生にとっては哲学なんていうものは考えたこともないのでしょうが、そこからよく食いついてくるという、皆にとって得難い体験であったと言えるようなものになっています。

哲学を考えていくと、どうしても日本の大学制度の中での自分の生き方ということも学生にとっては問題となるようで、それを質問した学生に対し鷲田さんは自分の体験としてドイツでの生活を話します。

ドイツでの大学というものは日本とは大きな違いがあり、大学というものがあまりメリットがないのでかえって研究に向いているというのも面白い?点でした。

日本では先輩・後輩という観念が非常に強いというのも面倒なところで、友人は同年齢しかできないというのも問題点ということです。

 

長谷部さんは2006年の「憲法とは何か」

憲法学者としては少々変わり種の長谷部さんで、他の学者は個々の法律が憲法に沿っているか否かといった問題のみを考えるのに対し、憲法というものの根源に戻って戦争や歴史といったところから考えているそうです。

 

太平洋戦争で大日本帝国が敗けたのを「国が敗けた」と言いますが、実はそうではなく大日本帝国という「社会契約」が敗けた、そしてその社会契約は廃止するので後はどうでも好きにしてくれ、というのが戦争で敗けたということです。

したがって、その結果として連合国がこの憲法でやれといって示されたのが現日本国憲法であるというのは当然といえば当然です。

かつては、相手国の領土が欲しいとか、賠償金を取りたいとか言って戦争をするということもありましたが、今ではそういった戦争はほぼ不可能になっています。

国民国家では、その一部を割譲などということは不可能です。

帝国同士の戦争であればそれも可能だったのですが、もはや意味がないとか。

 

憲法9条をめぐる問題も、その基本に帰って考えればまた違ったところが見えてくるようです。

この辺のところはやはり原典を読まなければよく分かりませんので、ここでは止めておきます。

 

なお、特定秘密保護法などの安倍政権の憲法と抵触しそうな法律について、長谷部さんは法律運用も日本の役人というのは馬鹿真面目にあたるから実際には大丈夫だろうという感触を持っていたそうです。

現在でもその感想に変わりがないのかどうか、聞いてみたいものです。

 

 

伊藤比呂美さんは、2014年出版の「女の一生」です。

若い頃に新進気鋭の詩人として登場し華々しく活躍されたそうですが、その後は何度かの結婚とか海外生活とか、いろいろとあって今では人生相談もやっているとか。

最初に文学を目指した時に、たまたま詩を教えてくれるクラスに入ったのが機縁で、そこの先生に褒められたので調子にのって色々と書いていったそうです。

あとで聞いたらその先生は「褒め殺し」で有名な人だったとか。

内容も難しいのは苦手なので、セックスやら女性の身体やら、自分の興味の赴くままに書いていったらそれが当たって評判になってしまったそうです。

その後は結婚したり、離婚したり、アメリカに渡ってユダヤ人と結婚したり、などなど。

アメリカの知識人の、「強引な考え方や、テニスの試合みたいな対話のしかたには日々むかついていた」そうです。

しかし日本に帰ってきたら、

「日本人のあのなんとなく輪になって、ぽーんとボールをよそに放って、”あー”とみんなで見て、少したったら一人の人がそれを拾ってきてまたぽーんと投げてみんなで”あー”と見ているような会話のしかたにもイライラする」という、文化の比較はさすがに面白い表現でした。

 

学生さんの質問も、中には少々稚拙かと思えるものもありますが、鋭いものもあり、若い人も結構やるもんだと思わせられます。

 

読んじゃいなよ!――明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ

読んじゃいなよ!――明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/11/30
  • メディア: 新書
 

 

ダムで本当に洪水予防ができるのか、事前放流が可能なのはわずか4割だけ

このところの豪雨の増加で、ダムの治水効果というものが注目される一方、昨年の台風の時にはダム上流での集中豪雨でダムの緊急放流が迫られ、その大量の水で下流に洪水の危険も迫るという事態も発生しました。

 

ダムで一番怖いのは、上流に大量の雨が一気に降り通常の放水口からの放水だけでは間に合わずに、上部から水が溢れ出しその結果ダムの決壊にもつながるということです。

そのためにダムへの雨水流入が増加すれば下流の状況がどうであれ緊急に放水することが必要になります。

また、それを避けるために大雨が予測されるようになれば事前に水位を下げておく「事前放流」も検討されるべきです。

 

しかし、今日の報道によれば、その事前放流が可能なのは現存のダムのわずか4割に過ぎないということです。

www.tokyo-np.co.jp

元々、ダムの建設目的としては農業用や工業用の水利を確保するためというのが一番の重要項目でした。

しかし、農業の衰退で農業用水の必要量も減り、工業でも水の利用合理化が進められて必要量が減少していきました。

それでもダムが作りたい勢力が作り出した建設目的が「治水」とも言えます。

確かに、ダム上流に降った雨を一時的にでも溜めておき、下流への放流が最悪の時に重ならないようにできればその効果もあるのでしょう。

しかし、そんなにうまくいく時ばかりではありません。

下流で堤防決壊の恐れの強い時に、ダムも満水を超えそうになり緊急放水をしてしまい、結果的に決壊を招いたということも無いとは言えません。(あまり問題化されてはいませんが、西日本豪雨の時に愛媛で死者が出ているそうです)

 

その危険性を少しでも減らそうと、「事前放流」を強化しようとしたのでしょうが、上記記事によれば、そもそも設備的にそれが可能なのがわずか4割ということです。

 

呆れ返ってものも言えないといったところでしょう。

そもそも、事前放流に必要なダム下部の放水口が設置されていないとか。

 

さらに、事前放流で水位を下げたとしても、予報どおりに大雨にならずに雨量が少なかったら「利水」用の水量が確保できず、農業用水や工業用水の不足という事態もありえるということで、なかなか踏み切れないという事情もあるようです。

 

ダムに治水は期待できないということは、緊急放水で死者という事実だけでも明らかだと思うのですが、そうは考えられない人が多いのでしょうか。

「モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか」佐藤幸三著

題名はこうなっていますが、モナ・リザに焦点を当てて調べたという内容ではなく、ダ・ヴィンチの生涯の足跡をイタリア各地に訪ねてみようという趣旨で書かれており、ダ・ヴィンチファンの人に取っては絶好のガイドブックとなるでしょう。

著者の佐藤さんは本業は写真家ということですので、掲載されている写真も非常に優れたもので風景も作品もきれいなものでした。

 

本書の最初にはダ・ヴィンチの生涯についてざっと流れをつかめるように解説がされています。

1452年、フィレンツェの西約27kmにある、ヴィンチ村で生まれたレオナルドは、14歳でフィレンツェのヴェロッキオの工房に出て修行を始めます。

これが「第1フィレンツェ時代」

その後ミラノに移り「岩窟の聖母」と「最後の晩餐」で名声を確立した「第1ミラノ時代」

フランス軍の侵攻でミラノを逃れ、マントヴァ、そしてヴェネツィアに移ります。

そこでは軍事顧問として働くことになります。

1500年、48歳のレオナルドは再びフィレンツェへ。そこでチェザーレ・ボルジアに仕えます。(第2フィレンツェ時代)

1506年、フランス王ルイ12世に招かれミラノへ。(第2ミラノ時代)

しかしフランス軍撤退とともにフィレンツェに戻り、その後教皇にヴァチカンに呼ばれるもののほとんど仕事は与えられず、失意の日々を送ります。

1516年、フランスのフランソワ1世に招かれアンボワーズに移りそこで没します。

 

「イタリアにダ・ヴィンチを訪ねる旅」と題された後半では、実際にイタリアに旅行したかのような気分を味わえます。

各地の現在の地図も掲載され、その中でダ・ヴィンチの足跡や作品が見られる場所も示されています。

なお、ダ・ヴィンチの能力は絵画だけではないのは当然ですが、音楽の実力も優れており、ミラノのイルモーロ、ルドヴィーゴの最盛期に開いた音楽会でのダ・ヴィンチの歌と楽器リラの演奏は他の音楽家よりはるかに優れていたそうです。

 

なお、フィレンツェ時代、ミラノ時代といったそれぞれの時代に描かれた絵画がそのままフィレンツェやミラノにあるとは限らず、例えばミラノ時代に描かれた「岩窟の聖母」はパリルーブル美術館に、「チッチリア・ガッレラーニの肖像」はクラクフ・チャルトリスキ美術館に現存ですが、ミラノの項の載せられているのは仕方ないでしょう。

 

モナ・リザ」はパリ・ルーブル美術館にあるのは誰でも知っていますが、これも「フィレンツェ」の項に記されています。

このモデルが誰なのかといったことから、細部に至るまであれこれと書かれています。

モナ・リザ製作中のダ・ヴィンチを、ラファエッロが訪ねたそうですが、そのときにその絵をラファエッロがスケッチしたものが残っているそうです。

これもルーブル所蔵。

ただし、背景は現在のモナ・リザとは異なり別の風景が描かれているそうです。

 

ダ・ヴィンチが好きな人にはたまらないものでしょう。

 

 

夢の話「かくれんぼゲーム」

初夢はちゃんと1月2日深夜に見ているのですが、なにやらぐちゃぐちゃな内容で自分でもなんだか分からないようなものだったので、本日未明の夢を紹介します。

 

街なかで鬼ごっこゲームをするというテレビ番組があったような気もしますが、今日見た夢は「かくれんぼゲーム」です。

登場人物は大人ばかり。

そして舞台はどうやらかつて通った学校か、研究所のような場所です。

 

制限時間の中で定められた範囲内で隠れて、鬼に見つからなければOKというゲームのようです。

 

見つかりにくい場所というのも分かっています。

庭にある巨木に開いたいくつかの穴。

建物の中にある冷蔵室か倉庫のようなところの、さらに奥まったところにある隠し金庫。

しかし、その安全地帯に逃げ込むことができずに、かなり無防備な所に隠れるだけとなってしまいました。

 

他の人々の様子も分かりますが、まず見つけやすい庭の方に向かった鬼たちは、頭隠して尻隠さずの状態の人々を次々と見つけていきます。

 

そこから次に建物の中に入ってくるのでしょうが、その前に目が覚めました。

何か、ホラーになりそうでなりきれない夢でした。

 

夢の中では波乱万丈なんですが、起きてみたらいつもの隠居生活で食べて寝てちょっと本を読むだけです。

アメリカとイランの戦争が東京オリンピックに影響するか

「年頭の大予言」では、大地震や富士山噴火が起きなければ今年の東京オリンピックも開催はできるだろうとしましたが、いきなりの世界情勢変化で分からなくなってしまいました。

メディア論調ではそこまで関連付けているものはありませんが、個人レベルでは出てきているようです。

matome.naver.jp古代オリンピックでは開催のために戦争を止めるということもあったそうですが、現代のオリンピックでは戦争のために開催できなかった例もいくつかあり、また開いてはいても参加国が少なくなったモスクワ・ロサンゼルスなどの例もあります。

 

さあ、どうなるか。

もし中止となればこれまでに投入した巨額の費用が無駄になります。