爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

COP25が開幕、日本の石炭火力発電が非難を浴びるか

COP25、国連気候変動枠組み条約第25回締結国会議が、スペインで開幕しました。

産経の報道が独自なので引用しておきます。

www.sankei.com原発の再稼働が安倍政権の急務」とまで言い切るこの潔さというか、なんというか。

 

それはともかく、世界的に気候の変化が実感される状況であることを良いことに、危機感を煽り言いたい放題のようです。

今のままでは、早ければ2030年には1.5度上昇し、異常気象がさらに増加する

日本を含む世界各地で、洪水や高潮、猛暑など地球温暖化が影響しているとみられる災害が相次ぐなか、この予測は関係者の危機感を強め、温暖化をせめて1.5度に抑えることが、世界的に意識されるようになりました。

まず、「温暖化」と「異常気象」とを結びつける証拠も理論も確定していない状況で、上のようなことを断言するというだけでも「科学者の意見」ではないことが明白です。

このようなプロパガンダまがいの言い方をするのは政治家だけです。

 

さらに、1.5度とか3度とか、「昔の気温より今は何度上昇した」と言うことは可能ですが(それでも計算方法とか測定地点の補正など多くの留保が必要ですが)、「将来の気温」をこのように数値で表すのも不可能です。

あくまでも「何度くらい上昇する可能性がある」としか言えないはずです。

 

これも、政治家か得体のしれない女の子の語り口でしょう。

 

さらに、一番のウソは「温暖化ガスの排出を0にすれば気温の上昇は何度で抑えられる」というところでしょう。

二酸化炭素濃度の上昇が気温上昇につながるということも立証は難しいのですが、それをさらに「排出量を減らせば気温の上昇が減らせる」などということは仮定の計算すら困難なはずです。

 

というわけで、このような粗雑な論法の結果として日本の石炭火力発電推進を非難されてはたまったものではありません。

 

何度も書いているように、石炭火力発電こそが今後の石油・天然ガス供給難の時代を迎えた場合に最後のエネルギー供給の頼りとなるものであり、これが無ければ不安定な風力発電などに電力を頼るという危険な社会に陥っていくでしょう。

 

パリ協定を離脱するというアメリカには非難が集まりますが、他の面ではアメリカ様の言う通りについていくだけの日本がなぜこの場面だけは逆らうのでしょう。

下手な猿芝居に付き合う必要はないでしょう。

 

「ながら運転厳罰化」とは言うものの。どうやって取り締まるのか。

12月1日より「ながら運転」の罰則が強化されるということです。

www.nikkei.com

実際、外を歩いているとこれをやっているドライバーを頻繁に目にします。

スマホを操作しながら交差点を曲がっていく大型トラックのドライバーなどという大馬鹿者も見たことがあります。

 

しかし、「厳罰化」といって違反点数や反則金を何倍にもしたとしても、どうやって取り締まるつもりでしょうか。

 

この行為の証拠を残すということは、ちょっと考えただけでも非常に困難であることは誰でも分かります。

スマホをずっと見ていた」などという行為をどうやって立証するのでしょうか。

 

結局は、「単なる脅し」に過ぎず実効性はほとんど無いと言わざるを得ません。

 

本当にやる気なら、「運転中はスマホなどは鍵のかかるところに入れなければエンジンがかからない」といった装置を強制しなければなりません。

銃や麻薬の取締同様、「持っているだけで罪」としなければ駄目でしょう。

「人間の本能 心にひそむ進化の過去」ロバート・ウィンストン著

「本能」と呼ばれるものがあります。

頭で考えることとは違うことをやってしまう場合、それは本能だと言われることがあります。

人類は数百万年も前に他の猿たちから別れてサバンナの草原に降り立ち、二足歩行をしながら進化を続けてきました。

しかし、その生活というものは厳しくギリギリの状態で生存を図るというもので、そこには現在の人類の状況とはまったく異なるものがありました。

そういった時代の記憶が我々の中に残っていて、それが本能として働くのかどうか。

そこには明らかなようなものもあり、不可思議なものもあるようです。

 

我々の先祖はかなり弱い存在でした。

同じような類人猿と比べても、筋力もなく足が速くもなく、強い歯や牙もなく、猛獣に襲われれば簡単にその食糧となってしまう程度のものでした。

しかし、二足歩行を始めたために手の動きが良くなり道具を使えるようになり、さらに脳の働きも急速に活発になりました。

体力の弱い部分をカバーしてさらに他を圧倒する能力を身につけるようになりました。

 

しかし、その初期の頃の周囲への恐怖心というものはいまだに頭の中の一部に残っているようです。

恐怖心を感じるということは、それに対する心身の対応を始めることです。

ホルモンの働きを変化させ火事場の馬鹿力が出るようにコントロールすることもあります。

いつもぎりぎりしか得られなかった食物をどのように食べるかということについても、本能がその指令を出します。

いくら腹が減っていても食べてはいけないものは食べられないように、そういったものは苦く酸っぱく不味いというように感じるようになりました。

また、なるべく高カロリーで少量でも身体のためになるものを美味しいと感じるようにさせました。

そのおかげで、現在の多くの人々が肥満や糖尿病で苦しむことになりました。

ダイエットなどというものは、かつてのサバンナにはありえませんでした。

したがって、太りだしても簡単にダイエットで痩せられるはずもないのです。

 

自分の血を引く子孫を残すというのも生物としての大切な役割であり、そのために今でもセックスは常に人々の頭の多くの部分を占めています。

しかし雌の浮気というのは多くの動物で起きているのが明らかですが、それはその夫である雄に対して大変な損をさせていることになります。

自分の実子でもない子を育てるのに、大変な負担をするわけですから、これは絶対に阻止しなければなりません。

ライオンなどの猛獣では、ハレムを作っていた雄を追い払って乗っ取った新しいボスの雄は、前の雄の子供を殺すという習性があります。

その記憶があるのかどうか、現在の人間でも夫が妻の連れ子を殺してしまうという事件が跡を絶たないようです。

 

その一方で、自分の血縁ではない人間が苦境に立たされると思わずそれを助けようとするのも本能の一つです。

我が子や孫を助けるために命の危険を犯してでも助けに向かうというのは分かりやすいようですが、まったく血縁ではない見ず知らずの人の危機を救うために火の中、水の中に飛び込む人はいつでも現れます。

これは完全には解明されていないようですが、かつてのサバンナでの狩猟の記憶があるのかもしれません。

そこでは、血縁かどうかに関わらず協力しなければ強くすばしこい動物を獲物にすることは出来ませんでした。

ナチスドイツの追求が厳しかった各地で、見ず知らずのユダヤ人を自分の命の危険も省みずに匿った人が数多くいました。

彼らもその本能に従ったのでしょうか。

 

今の社会で考えれば理屈に合わないようにも見える行動が、草原での狩猟の記憶に本当に左右されているのでしょうか。

 

人間の本能

人間の本能

 

 

「利き酒」について

数年前に「お酒の話」と題してかつて勤務していた酒会社での経験について書いたことがありました。(2017年頃)

 

「利き酒」(ききさけ)(本当は”口偏に利”という字を使います)についてもそこで数回書いていますが、今日は実は夢の中でメインに出てきました。

ただし、「夢の話」として書くにはまったく筋が通らなくなってしまいましたので、それは止めておきます。

 

酒に限らず、食べ物や飲料、嗜好品などの製造に当たっては、それを食べたり飲んだりしてその品質を確認する、「官能検査」というものが必須です。

 

成分検査にはもうほとんど機器分析が進出していますが、この「味や香り」など(それ以外もあるのですが)の確認には人間の舌と鼻が関わらないと不可能です。

 

私が仕事で取り組んだものは、原料用アルコール(昔は日本酒に使われていたもの、今は缶入りカクテルなどの方に使われることが多い)と、焼酎などの酒類です。

他にも、噂だけは聞いているのがビール、ウイスキー、そして料理やケーキといったものです。

 

アルコールや焼酎の利き酒は、香りを嗅いだあと口に含み、鼻に抜ける香りを確かめた後吐き出します。

こんなものを飲み込んでいたら身体が持ちません。

しかし、噂に聞くビール業界では、喉越しの感覚が非常に大切ですので、飲み込むということを聞いたことがあります。

さらに、ウイスキーも非常に強いアルコール度数ながら、これも喉越しの時の香りというのが重要なので検査でも飲み込むとか。(本当かどうかは知りませんが)

 

また、食品の場合もどうしても食べなければ分からないのでしょうか。

子供の頃からの友人でケーキ屋をやっていたのが居ますが、職を親から継いだころからどんどん太りだしてしまい、どうなることかと思っていたのですが、店を止めてしまってからは逆にどんどんと痩せてしまったというのが居ます。

やはり、少しずつでも味見をしていくと仕方ないのでしょう。

 

前にも書いたかもしれませんが、国税局には鑑定官室という酒類醸造の品質向上を監督する(というか”見守る”)部署があり、そこでは管内の酒造会社の技術向上を図るために毎年新酒のコンクールが行われます。

各社が腕によりをかけた出品酒を製造し、その中でも特に良いものを年明けくらいに提出、その中から優良なものを表彰するというものです。

現役時代には焼酎の品質向上ということで、何度も参加しました。

 

その最後の日に優良酒製造会社の表彰と合わせて、出品酒の公開ということが行われます。

各社の技術者たちが総出で、熊本の国税局に詰めかけました。

熊本では、ほとんどが本格焼酎ですが、米・麦・芋・その他とそれぞれ100種に近いほどの出品酒が集まり、それを利き酒していくのですが、口に含んで吐き出すとはいっても最後にはかなり酒が回ってきました。

中には吐き出さずに飲み込む人も居りました。

 

会社を辞めてからは、そういったことからも離れ、酒は時々夕食時に飲む程度となってしまいました。

現役時代には味や香りにもかなり鋭敏に反応したのですが、もはや飲む酒は自分で買ったものしかなく、あまりうるさいことも言えません。

まあ楽しく飲めればそれで良いということでしょう。

「もっと言ってはいけない」橘玲著

人種による能力の差ということを言うだけでも問題となるようです。

「黒人は足が速い」ということすら、公言することははばかられるようです。

「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?」デイヴィッド・エプスタイン著 - 爽風上々のブログ

 

しかし、この本では著者の橘さんは、敢然とそのタブーに挑戦しています。

しかも、「人種と知能」という非常に過激な分野で。

 

欧米ほどではなくとも、日本でも「言ってはいけない」ことはたくさんあります。

知能は遺伝する。精神疾患は遺伝する。犯罪性向は遺伝するなど、本当だと思っていても言ってはいけないことでしょう。

 

最初のプロローグからガツンと衝撃の事実をぶつけてきます。

OECD主催の先進国を主な対象とした成人の能力を測るという調査が行われました。

その設問の一例では、「図書館のホームページにアクセスし、リストにある本の著者を回答する」というものがありました。

こんな子供だましのようなものでも、日本人の3割近くができなかったのです。

ただし、それでも各国の中では日本が一番優れており、他の国ではこのような課題にも半分近くができないということです。

 

実は、日本が一番優れているといっても、「3割の日本人は日本語の文章が読めない」と言うことです。

こういった事実が明らかになると「教育が悪い」となりそうですが、この調査の対象は広い年齢層の成人であり、実は「昔から駄目なものは駄目」だったことになります。

 

怖いのは、こういった理解力の乏しい大人たちでも民主社会では投票権を持っており、特にこの調査で低い能力の割合が高い国々では「ポピュリズム」政党が勢力を伸ばしていると言えることです。

単純な主張を繰り返し、考えずに同意できるような分かりやすい政策を売り物にするような、ポピュリズム政党は、どういった支持者を持っているか、そこが重なって見えるようです。

 

本題は「一般知能」つまりIQテストで測れるような知能指数の国や民族による差を論じています。

IQテストなどは人間の本当の知力を測るものではないとも言われますが、何らかの能力の指標であることは間違いないものです。

イギリスの認知心理学者、リチャード・リンは世界各国の知能テストのデータを収集し、時には自らそれを対象国で実施し、2006年にまとめました。

その数字自体は驚くほどのもので、ヨーロッパ系白人の平均がIQ100程度、北東アジアが一番高く105以上であるのに対し、サハラ以南のアフリカでは70程度、欧米諸国にアフリカ系は80と、国と地域、人種により大きな差が出ています。

案の定、リンは欧米のリベラルから大変な攻撃を受けています。

しかし、このリンの調査はデータ数が少ないとは言え、その手法に問題はなく、あえて反論するならばIQというもの自体を否定する他なくなっています。

 

ホモサピエンスはアフリカに誕生し数万年前にそこを出発して各地に広がりました。

その最初の出アフリカを果たした人数は1000人程度とも言われます。

そこにはそれほどの知能の差は無かったはずです。

しかし、そこからあちこちに流れて行く間に徐々に色々な差が生まれてきました。

知能の差もそこで広がっていったと考えられます。

 

ユダヤ人は知能が高いと言われています。

しかし、イスラエルに在住の人々のIQは先のデータで95程度とそれほど高くはありません。

ところがアメリカ在住のユダヤ人はそれが115とかなり高いものになっています。

これには、ヨーロッパで迫害を受けた中で、うまく立ち回ってアメリカに逃れることができた人々は知能も高かったからだとしています。

 

北東アジアの中国人、韓国人、日本人などもIQの高い一群を形成しています。

これには生産力の高い稲作が昔から採用され、そのために人口密度が高まり社会も複雑化したことが、ちょうどIQのような能力を育てることになったのではないかと分析しています。

 

読んで非常に面白い内容を含んでいますが、それでもこれを人に話すとまずいことになるかもしれません。

 

もっと言ってはいけない(新潮新書)

もっと言ってはいけない(新潮新書)

 

 

女子ハンドボール世界選手権開幕、熊本大洋デパート火災とも関係が

いよいよ女子ハンドボール世界選手権が始まります。

熊本では、新聞やテレビなど多くのローカルニュースでそれに関連した記事が出ていますが、全国版ではあまり出ないんだろうな。

 

さて、こちらの新聞で取り上げられていた話に、11月29日という日に関連したものがありました。

46年前の1973年11月29日は、熊本市にあった大洋デパートで大きな火事が発生し100人以上が死亡という大変な災害が発生した日でした。

ja.wikipedia.org

その後、大洋デパートは倒産したのですが、実はその大洋デパートはそれ以前から女子ハンドボール部を持っており、全日本チーム入りの選手も出していたそうです。

そのチームはその後立石電機(現オムロン)に移り、現在まで活動しているのですが、熊本の人間には忘れられない大洋デパートと、今回の世界選手権とが一つの糸でつながっているような感覚を感じます。

 

 

「世界の名前」岩波書店辞典編集部編

世界各地の「人間の名前の付け方」はどのようなものか。

意外に知られていないまま、日本や欧米(それも一部だけ)のように家名と個人名が付けられているかのように思い込んでいますが、実はかなり違うところもあるようです。

 

そういったものを、岩波書店が中心となって各地の状況に詳しい人々にその地の名前の付け方について書いてもらったものを集めたものです。

歴史的に古い時代のものを載せたものもあり、すでに滅んでしまった民族のものも紹介されています。

 

ただし、だいたい1項目2ページ程度でまとめざるを得なかったためか、あまり細かく説明するわけにも行かず、歴史的経緯だけで多くのスペースを使って名前には少しだけという例もあったようです。

また、各項目の著者に対する要請が厳しく決められなかったのか、個人名に重点を置く場合と氏姓に当たる部分を多く説明する人と、両方ありあまり統一感はありません。

そんなわけで、学術的な資料としては少々不足する感はありますが、なんとなく知識として知っておくというには十分なのかもしれません。

 

古代ギリシアマケドニアでは一代おきに同じ名前を付ける、つまり祖父と孫とが同じ名前になるのが慣例でした。

セレウコス朝シリアでは、王の名前はセレウコスとアンティオコスが交互に現れます。

ただし、同じくマケドニア人が王朝を作ったプトレマイオス朝エジプトでは、すべての王がプトレマイオスを名乗りました。

因習に縛られずに新たな王朝を作ったという思いがあったようです。

しかし、それでは各代の王の区別がつかないので、あだ名のような添え名を付けることで見分けました。

一世はソテル(救済者)、二世はフィラデルフォス(姉を愛する者)、三世はエウルゲテス(善行者)、といった具合です。

最後の代の娘はクレオパトラ7世で、添え名はフィロパトル(父を愛する者)でした。

 

現代のエジプトでは、公用語であるアラビア語により、イスラム教の伝統で名付けされることが多いのですが、古代エジプト語やそれにギリシア語の影響が加わったコプト語がいまだに地名などには受け継がれ、人名の一部にもその影響が残っています。

特に、キリスト教コプト派を信仰する人々にはその意識が強く、ラムセスという古代エジプトの王の名をいまだに使っている人も居ます。

また、女性名で「サウサン」という名もその時代まで遡ることができます。

これは古代から親しまれていたスイレン科のロータスのことで、これはその後各地に広まり「スーザン」などの名前に変化しました。

ムバーラク元大統領の妻の名は「スーザン」で、知らない人々は英語かぶれだと評しましたが、実は古代エジプトからの伝統的な名前だったのです。

 

南米ペルーを中心に栄えたアンデス文明の最後の帝国がインカだったのですが、その言葉のケチュア語は今でも使われています。

その中で「インティライミ」という言葉は、「太陽の祭典」を意味するものです。

インカ帝国第9代の王パチャクティがその祭典を始めました。

この項を書いたアンデス考古学研究者の関雄二さんも、まさかその名を日本人の歌手が付けるとは思わなかったそうです。

 

北欧やロシアなどの北方民族を中心に、父親の名前を付ける「父称」という習慣がありました。

デンマークでは、父親の名に「セン」を付けて父称とすることが多かったために、アデルセン、ニルセン、オルセンといった姓が残っています。

デンマークでは1828年に姓を付けることが法律で強制されたために、その時の父称をそのまま固定して姓とした例が多かったそうです。

 

アイヌ人はかつてはアイヌ語の名前を子供につけていたのですが、今ではほとんどが日本語で名付けをするようになりました。

もともとは名字(姓)というものを持たなかったのですが、しかしアイヌでは個人名だけでも他の人と重なることはほとんど無かったようです。

というのは、他の人の名前と近いものをつけること自体がタブーであり、もしもそういった人が近くにいたら改名してまで違うものにしていました。

人間の運命の幸不幸は名前によって決まるという観念があり、同じ名前だと運命も巻き添えを食うという信仰があったようです。

したがって、本名はほとんど使わず、他人に教えてはいけないというもので、通常はあだ名だけを使っていました。

こういった点は、現代日本の若者にもその伝統が受け継がれているようです。

 

父称というものは、アラブ世界にも近いものがあるようです。

また、かつては名字に当たるものが無かったという地域、国も多かったようですが、日本同様に近代国家になった時に国民統制の必要から付けるように強制したという例が多数ありました。

いまだに名字が無いという地域もいくつかあり、ビルマは有名ですが、アウン・サン・スー・チーさんもその全てが個人名であり、よく誤解されるように「アウンサン」家の「スーチー」さんということではありません。

かつて国連事務総長を務めた「ウ・タント」さんも本当は「ウータン」さんですが、その「ウー」は成人男性に付ける敬称であり、名前は「タン」だけだったそうです。

 

世界の名前 (岩波新書)

世界の名前 (岩波新書)

 

 最近の子供の名付けに、かなり変なものが増えていますが、その理由に「他の子供と重ならない」という親の気持ちがあるそうです。

それがアイヌの伝統と共通であるということは知りませんでした。

そのつながりがあるのでしょうか。

一方、世界には決められた名前以外は付けられないというところもあるようです。

どちらが良いのでしょう。