爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「事典にない大阪弁 絶滅危惧種の大阪ことば」四代目旭堂南陵著

講談師の旭堂南陵さんは、1949年大阪府堺市の生まれ。

船場から嫁いだ母上の言葉はおっとりとして上品なものだったそうです。

堺市でも生まれ育った辺りはやはりおっとりとした語り口だったそうですが、高校生になり周囲に泉州地区や河内地区から来た生徒が増えると、彼らの言葉の全く違うことに驚いたそうです。

 

そして大学に進学しさらに先代の南陵に講談の弟子入りをしてからは、古い大阪弁というものがどんどん無くなって行くのに危機感を覚え、「大阪ことば」というものを書き留めておくようにしたそうです。

現在の大阪の芸人の言葉というものは、あちこちの方言を混じえてしまい、古い大阪の言葉を話せる人はほとんど居ないそうです。

 

本書には、そういった大阪ことばを事典風に列挙したものと、中で選んで1ページずつ説明を施したもの、さらに大阪特有の食べ物、古い建物の写真も掲載されています。

 

「麻の実」これを「あさのみ」と読んでしまった料理人がいたそうです。

七味に入っている丸い実で、植物の「麻」の実なのですが、大阪の古くからのことばでは「おのみ」と読むそうです。

 

「九文」(ここのもん)

足袋などのサイズを言う場合は、「ここのもん」と読みます。

時代劇でも「きゅーもん」と言っていた俳優がいたそうです。

銭勘定の時は「きゅーもん」と呼んでも良いのですが、大きさの時には「ここのもん」です。

小さい方から「ここのもん」「ここのもんさんぶ」「ここのもんはん」「ここのもんひちぶ」「ともん」「ともんさんぶ」と続きます。

 

人の名前を呼ぶとき、「何々さん」と「何々はん」と両方が使われます。

この使い分けが難しいそうですが、ある人が「名前の語尾がい、う、んの時は「さん」、それ以外は「はん」だ」と主張し、それを信じている人も多いようです。

しかし、著者の母上を始め、船場の人々は「はん」を使う場合が多かったそうで、「中井はん」「松井はん」と使っていました。

どうも「はん」と「さん」との使い分けは親しさの度合も含んでいたようです。

 

大阪人の挨拶ことばは「もうかりまっか」と「ぼちぼちでんな」であるということはよく言われていますが、実際にはこのようなことばを使うことはないそうです。

隣近所の挨拶では「もうけてはりますか」や「もうかってはりまっか」でなければ意味が不明です。

そして、「もうかりまっか」では何より丁寧さに欠け、船場の商人などが使うことはないということです。

結局、古い漫才師が作り出した話ではないかと。

 

食べ物の話では、うどんが取り上げられていますが、大阪でも古くは腰があり過ぎるものよりは長く茹でてモチモチ感が出たものが好まれたようです。

それでなければ「うどんすき」のように出汁がたっぷりと効いた中で味が絡まないとか。

揚げが甘く炊かれたものを入れるきつねうどんも、そういったうどんの方が美味しいようです。

 

大阪も本当のところはもはや分からなくなってしまっているのでしょう。

 

事典にない大阪弁―絶滅危惧種の大阪ことば

事典にない大阪弁―絶滅危惧種の大阪ことば

 

 

熊本市中心部の新商業施設「サクラマチクマモト」開業間近

熊本城からも近い熊本市の中心部に、新たに「サクラマチクマモト」という商業施設が建設されていましたが、今週末に開業するそうです。

熊本市までは1時間以上かかるわが町でも新聞に大きなチラシが入っていました。

 

www.kyusanko.co.jp

ここは元々は「熊本交通センター」というバスターミナルがあった場所で、それに隣接した「県民百貨店(かつては”岩田屋伊勢丹”)」も取り壊しての、大規模な再開発となりました。

 

熊本交通センターは私が40年以上前に始めて熊本にやってきた頃にはすでに存在し、中心部のバスセンターで利用する機会も多かったところです。

熊本交通センター - Wikipedia

また、地下の商店街「センタープラザ」も馴染みのあるところでした。

 

2015年より交通センタービルや県民百貨店の解体が始まり、徐々に建物が建っていくのが見えていましたが、ようやく完成。

9月14日に商業施設部分の「サクラマチクマモト」が開業する運びとなりました。

 

言うまでもなく、熊本市も郊外に大規模商業施設ができて中心部は徐々に人通りが少なくなっているところです。

さらに、九州新幹線の効果を狙い熊本駅周辺にも駅ビルなどが建設予定となっています。

九州で、福岡以外ではやや元気のある熊本ですが、これらの新商業施設すべてが繁盛するほどの人出は期待できないでしょう。

それほど時間もかからない内に勝ち負けがはっきりしてくるかもしれません。

 

さらに、大規模なホールの「熊本城ホール」が隣接して準備されており、今年の12月にはグランドオープンと言われています。

客席数2800という大きなホールや会議設備も備えたものですが、こちらは福岡の施設と競争になります。

どこまで勝負できるのでしょうか。

 

会社を辞めて以来、あまり熊本市には出ることが無くなったのですが、その先行きには無関心ではいられません。

 

「この数学、いったいいつ使うことになるの?」ハル・サンダース著

学校で習う算数や数学なんて、社会に出て役に立つのかという疑問は誰しも(数学嫌いの人は)持つものらしく、それに対して数学好きの人が反論しようという本も出ています。

この前は日本人の人が書いた本を読みました。

sohujojo.hatenablog.com

今度はアメリカ人の数学教師という、サンダースさんの書いたもので、アメリカ社会に即した内容になっていますので、上記の日本向けのものとは少し趣の違ったものになっています。

 

アメリカ文化を感じさせるものとしては、出てくる職業で株式仲買人、ローン業務、警察官(違反切符を切る平均回数が必要)など、日本とは少し違います。

 

また、ヤード・ポンド法を始めとして色々な単位が並立しているため、その換算というのが問題のようで一つの項目が立てられています。

 

数学の問題といっても、文章を読み解いて数式にするという過程が大切なのですが、アメリカでもそれは十分に意識されているようで、活用できるように作られています。

 

 

それでは、いかにもアメリカらしい問題を数例。

 

不動産所有権保険業

固定資産税が年額1548ドルの家屋が売却された。売り主が、売却以前にその年の4ヶ月間その家に住んでいた場合、比例配分して支払わなければならない税額は?

 

選挙運動責任者

ある地区の有権者登録数は46500人で、このうち民主党員の登録数は28200人である。この比率を反映すると、電話による世論調査500人のうちに民主党員は何人いるだろうか?

 

航空整備士

巡航速度が240ノットの航空機が12%加速した。新しい巡航速度は?

(航空関係の記述がやけに多い)

 

まあ、数学は大切です。

 

この数学,いったい いつ使うことになるの?

この数学,いったい いつ使うことになるの?

 

 

首都圏の方々は台風などの災害というものへの怖れが足りないのでは。

ほぼ予想通り、強力な勢力を維持したまま台風15号は東京湾から千葉を抜け、暴風の被害を各地に残していきました。

 

通過した時間は、9日の未明ですが、千葉市では午前4時半に最大瞬間風速57mという暴風を記録しています。

九州では台風はしょっちゅう経験しているなどと言いましたが、風速40mを越えることは少なく、50m以上という経験はおそらく1回だけでしょう。

(鹿児島・宮崎は別格です)

40mでも怖ろしかったという記憶があります。

ただただ、家の中の窓からできるだけ離れた場所でじっとしているしかない状況です。

 

しかし、首都圏ではさすがに忙しい人が多いようです。

前日の交通機関からの発表で、「始発から午前8時頃までは運休予定」とされていたのですが、それが終わればすぐに動き出すと思ったのか大勢の人が駅に集まりました。

www.nikkei.com

関東ではめったに無いような暴風が、ほんの数時間前に吹き荒れていたのに、行き過ぎたらもう通常運転?

そうは行かないでしょう。

皆さんのあまりの気の早さに驚きました。

「ガリレオ裁判 400年後の真実」田中一郎著

ガリレオが地動説を唱えたことで宗教裁判にかけられ、学説を放棄させられたけれど「それでも地球は動いている」と言ったとか。

もちろん、そんな独り言を誰が記録していたのか怪しい話だとは感じますが、その背景などは知りませんでした。

 

この逸話は、ガリレオ自身の文書にも、かれの弟子たちの書いた伝記にも出ていません。

これが突然出てきたのは、100年以上経ってから、イタリア生まれでイギリスに滞在していた、ジュゼッペ・パレッティという人物が出版した「イタリアン・ライブラリー」という書物の中でした。

これが当時の人々の心を捉えたのか、他の人の書物にもこの挿話が取り上げられ、そのうちに事実であったかのように広まっていったそうです。

 

ガリレオ裁判について、ローマには多くの資料があったのですが、ガリレオの大ファンであったナポレオンがイタリアを占領した際に、ガリレオ関係とそうでないものも含めて多くの資料をフランスに持ち去ってしまいました。

数千の箱に収められた10万以上の文書だったのですが、それを系統立てて調査するつもりだったのでしょうか。

しかし、それに着手する以前にナポレオンは失脚し、それらの資料のほとんども散逸してしまいます。

かくして、ガリレオの宗教裁判の重要資料は消え去ってしまいました。

 

しかし、副次的な資料で残っているものから少しずつガリレオ裁判の様子がつかめてきました。

 

ガリレオ・ガリレイは1564年に生まれました。

ピサ大学の医学部に入学したものの、中退し興味のあった力学と天文学の研究に移ります。

1592年には振り子の等時性の発見という力学上の大きな理論を見出します。

さらに、当時最新の望遠鏡を使った、天文学研究に力を入れます。

金星の満ち欠けや太陽黒点の観察、そして潮の潮汐などの観察から、地動説が正しいことを確信していきます。

コペルニクスの地動説が先行して発せられるものの、聖書の記述と矛盾しているということが宗教界から激しく攻撃されます。

 

ガリレオも1615年の時点でニッコロ・ロリーニというものに異端思想があるとして告発されました。

この時は権力を持っていた枢機卿ロベルト・ベラルミーノがガリレオに同情的であり、天文学の発言を慎むように助言したことでそれ以上の処罰は無いままに終わります。

 

その後、ガリレオに好意的であったマッフェオ・バルベリーニ枢機卿教皇ウルバヌス8世となり、さらにガリレオの理解者が数多く教皇の側近として権勢を持つこととなりました。

その機会を利用し、ガリレオは「天文対話」を出版することとします。

ところが、その直後にガリレオの理解者たちは失脚、教皇ガリレオに対する見方を硬化させるようになってしまいます。

 

その結果、1633年になって異端審問にかけられることとなります。

すでにガリレオは高齢になっていましたが、厳しい審問がなされます。

その後の科学の発展により、地動説が真理とされている現代から見ればおかしなものですが、当時は聖書の記述が絶対であり、ガリレオでもそれに抗することはできませんでした。

その後のイメージではガリレオは科学の真理のために闘ったかのようですが、それほどではなかったようです。

 

これまでの通説によれば、ガリレオは聖書の記述に反する地動説を唱えたために宗教裁判にかけられ有罪判決を受けたというものですが、やや異なるところがあります。

実際は「これまでにガリレオに出された禁止命令に違反している」というのが有罪理由でした。

ガリレオの告発者である教皇ウルバヌス8世も、「天文対話」が聖書の記述に反しているとは言っていません。

異端審問官も、地動説というキリスト教を揺るがす問題に立ち入ることはなく、ガリレオが命令に違反したということだけを挙げて有罪としました。

 

いずれにせよ、そのすぐ後から科学の進撃が始まるわけです。

少々早すぎたガリレオの出現だったのでしょう。

 

ガリレオ裁判――400年後の真実 (岩波新書)

ガリレオ裁判――400年後の真実 (岩波新書)

 

 

現代ビジネスに、佐藤優さんが日韓問題に北朝鮮を絡めて書いています

あの有名な佐藤優さんが、日韓問題は北朝鮮問題でもあるとして今後の大問題を書いています。

gendai.ismedia.jp

日韓だけに限れば現在の状況は、総理が長い間練ったらしい戦略が実を結び?優勢に進めているようですが、この先はどうなるか。

 

トランプはどうしても北朝鮮は国交正常化に持っていく。

そうなると日本も北朝鮮と国交回復をしなければならない。

そこで大変なことになるのが北朝鮮に対する賠償です。

 

韓国相手には1965年に話を付けており、それが現在の徴用工や慰安婦問題にも大きな影を落としているのですが、北朝鮮とはまったく片付いていません。

植民地化や戦争の賠償は、他の国とは戦後すぐのまだ日本がボロボロの時代に話を付けているので、その金額も微々たるものでした。

韓国とは1965年ということで日本もだいぶ回復していた時点ではありますが、それでも現在の基準から見れば相当安い金額だったと言えるでしょう。

しかし、上記記事で佐藤さんも言っているように、これから北朝鮮との賠償交渉をしたら兆の桁まで行ってしまうかもしれない。

それでもアメリカが国交回復をするなら日本もどうしてもしなければならないでしょう。

 

 

ただし、これも佐藤さんの指摘にあるように、その賠償の多くはタイド(紐付き)にできるでしょうから、北朝鮮国内に日本の会社が建設を進めるという形で落ち着けば、日本の公共事業を北朝鮮に所を変えてやるだけなのかもしれません。

 

その場合、日韓の方もそのままというわけには行かないでしょう。

やはり、相当な変革が押し寄せてきそうです。

 

「アーサー王伝説」リチャード・キャヴェンディッシュ著

アーサー王とは、紀元6世紀頃のブリテン島の王としてアングロサクソンの侵略と闘い、伝説の中では全イングランドウェールズを治めさらにヨーロッパ全土にまで支配を広げたことになっています。

 

この物語は、紀元12世紀ころにイギリスだけでなくフランスやスペインなどの宮廷にあっという間に広がり愛好されました。

このような騎士物語が求められていたという雰囲気もあったのでしょう。

 

アーサー王伝説はもちろんフィクションですが、そのモデルとなった人物は居るようです。

ブリトン人と呼ばれる人々を含むケルト人が住んでいた島(ブリテン島)を古代ローマ帝国が支配し、350年の間ローマの文化に浴しました。

ケルト人も多くはローマ化していったようです。

アーサーのモデルもおそらくローマ人とケルト人の混血のケルト貴族だったと考えられます。

しかし、紀元500年頃には西ローマ帝国は衰退し、ブリテン島の支配も緩みます。

そこへ侵略してきたのがゲルマン系のサクソン人でした。

圧倒されていたローマ・ケルト勢力ですが、500年頃の会戦で決定的勝利を得ることができ、その後半世紀ほどはサクソンの侵略を防ぐことができました。

その時の闘いの指導者がアーサーであったとすれば、それが長く伝説として残った可能性もあり得るところです。

 

その後、サクソン人の進出によりブリトン人はノルマンディーやブルターニュ、ウェイルズなどに逃れます。

そこでかつてサクソン人を打ち破った指導者としてアーサー王の名が伝説として残ったのかもしれません。

そこでは、実際のアーサーの戦歴だけでなく、伝統的なケルトの英雄の事績がアーサーの生涯に付け足されていったのかもしれません。

 

そこで、アーサー王と妻のギネヴィア、円卓の騎士たち、マーリンやモーガン・ル・フェイといった登場人物が揃っていったのでしょうか。

 

それらを今の形にまで整理したのが、12世紀のウェイルズのヂェオフリー・オブ・モンマスやフランスのクレチアン・ド・トロワたちであったそうです。

それに多くの人々の想像が加わり、最終的には15世紀のサー・トーマス・マロリーによって「アーサーの死」が描かれました。

 

登場人物はキリスト教徒であり、その道徳の中で騎士道というものを追求していきますが、その周囲にはケルトの神話が充満しているような雰囲気です。

異教ではあるのですが、それでも構わないというのが当時の情勢だったのでしょうか。

 

騎士たちが旅を続けて求める「聖杯」も、もちろんイエス・キリストの最後の晩餐で使われたものなのですが、それはケルトの呪文の中に眠っているかのようです。

 

アーサー王の妻ギネヴィアは、騎士の一人ランスロットと不倫の恋に落ち、それがアーサーの死にもつながっていくのですが、これもキリスト教道徳にはふさわしくないようです。

 

しかし、今でも英米の文化の根底には流れていそうなものが頻出します。

こういったことも知識として持っていないと教養あるとは言えないのでしょう。

 

アーサー王伝説

アーサー王伝説