爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ガリレオ裁判 400年後の真実」田中一郎著

ガリレオが地動説を唱えたことで宗教裁判にかけられ、学説を放棄させられたけれど「それでも地球は動いている」と言ったとか。

もちろん、そんな独り言を誰が記録していたのか怪しい話だとは感じますが、その背景などは知りませんでした。

 

この逸話は、ガリレオ自身の文書にも、かれの弟子たちの書いた伝記にも出ていません。

これが突然出てきたのは、100年以上経ってから、イタリア生まれでイギリスに滞在していた、ジュゼッペ・パレッティという人物が出版した「イタリアン・ライブラリー」という書物の中でした。

これが当時の人々の心を捉えたのか、他の人の書物にもこの挿話が取り上げられ、そのうちに事実であったかのように広まっていったそうです。

 

ガリレオ裁判について、ローマには多くの資料があったのですが、ガリレオの大ファンであったナポレオンがイタリアを占領した際に、ガリレオ関係とそうでないものも含めて多くの資料をフランスに持ち去ってしまいました。

数千の箱に収められた10万以上の文書だったのですが、それを系統立てて調査するつもりだったのでしょうか。

しかし、それに着手する以前にナポレオンは失脚し、それらの資料のほとんども散逸してしまいます。

かくして、ガリレオの宗教裁判の重要資料は消え去ってしまいました。

 

しかし、副次的な資料で残っているものから少しずつガリレオ裁判の様子がつかめてきました。

 

ガリレオ・ガリレイは1564年に生まれました。

ピサ大学の医学部に入学したものの、中退し興味のあった力学と天文学の研究に移ります。

1592年には振り子の等時性の発見という力学上の大きな理論を見出します。

さらに、当時最新の望遠鏡を使った、天文学研究に力を入れます。

金星の満ち欠けや太陽黒点の観察、そして潮の潮汐などの観察から、地動説が正しいことを確信していきます。

コペルニクスの地動説が先行して発せられるものの、聖書の記述と矛盾しているということが宗教界から激しく攻撃されます。

 

ガリレオも1615年の時点でニッコロ・ロリーニというものに異端思想があるとして告発されました。

この時は権力を持っていた枢機卿ロベルト・ベラルミーノがガリレオに同情的であり、天文学の発言を慎むように助言したことでそれ以上の処罰は無いままに終わります。

 

その後、ガリレオに好意的であったマッフェオ・バルベリーニ枢機卿教皇ウルバヌス8世となり、さらにガリレオの理解者が数多く教皇の側近として権勢を持つこととなりました。

その機会を利用し、ガリレオは「天文対話」を出版することとします。

ところが、その直後にガリレオの理解者たちは失脚、教皇ガリレオに対する見方を硬化させるようになってしまいます。

 

その結果、1633年になって異端審問にかけられることとなります。

すでにガリレオは高齢になっていましたが、厳しい審問がなされます。

その後の科学の発展により、地動説が真理とされている現代から見ればおかしなものですが、当時は聖書の記述が絶対であり、ガリレオでもそれに抗することはできませんでした。

その後のイメージではガリレオは科学の真理のために闘ったかのようですが、それほどではなかったようです。

 

これまでの通説によれば、ガリレオは聖書の記述に反する地動説を唱えたために宗教裁判にかけられ有罪判決を受けたというものですが、やや異なるところがあります。

実際は「これまでにガリレオに出された禁止命令に違反している」というのが有罪理由でした。

ガリレオの告発者である教皇ウルバヌス8世も、「天文対話」が聖書の記述に反しているとは言っていません。

異端審問官も、地動説というキリスト教を揺るがす問題に立ち入ることはなく、ガリレオが命令に違反したということだけを挙げて有罪としました。

 

いずれにせよ、そのすぐ後から科学の進撃が始まるわけです。

少々早すぎたガリレオの出現だったのでしょう。

 

ガリレオ裁判――400年後の真実 (岩波新書)

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