爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「島津家の戦争」米窪明美著

薩摩を支配してきた島津家は、鎌倉時代初期に入って以来一度も離れること無く続きました。

その薩摩の島津宗家の四代当主、島津忠宗の六男、資忠が足利将軍家から日向国に所領を与えられたことにより、都城島津家という島津の分家が成立しました。

こちらも、明治に至るまで都城一帯を支配し続けました。

 

島津本家は数度の戦乱で資料も焼失したものの、都城島津家は西南戦争でも戦火を受けることはなく、文書記録も残りました。

都城島津家の前当主島津久厚氏は学習院大学で務めておられ、ちょうどその頃に秘書として著者の米窪さんと出会い、その縁で「都城島津家日誌」を読む機会を得て、その後これを基に本を書く許可を島津氏より貰い、執筆をしたそうです。

 

2004年、都城島津家から都城市に約1万点もの歴史資料が寄贈されました。

その中に「琉球国王宛朝鮮国王国書」なるものが含まれており、大きな論争を引き起こしました。

差出人は朝鮮国王の燕山君、受取人は琉球尚真王、内容は漂着した琉球の船員を送り返すというものでした。

朝鮮と琉球の間の国書がなぜ都城にあるのか、もしかしたら偽物か、模造品かといろいろな説が飛び交いましたが、結局その形式、内容から本物と確認されました。

そして、それが都城にあることが都城島津家が琉球貿易にも深く関わっていたことの現れということでした。

都城島津家は、現在の宮崎県都城市が本拠ですが、戦国時代後期には武功を立てて内之浦から志布志までの一帯を島津宗家より与えられました。

そのために、琉球貿易にも関わるようになり、その関係で朝鮮王国書を手に入れることにもなったようです。

 

秀吉の九州征伐をも辛くも逃れた島津は本領をほとんど安堵され、さらに関が原の戦いで西軍につくも徳川も存続を認めほぼ旧領を領有し続けました。都城も同様でした。

そのためか、領国内の体制も他の藩とは異なり、中世の雰囲気を残すものだったようです。

明治時代になったすぐの調査では、士族は全国平均で人口の約5%というものだったのですが、これが薩摩では25%に達しました。

実に、全国の士族の10人に1人は薩摩に居たのです。

しかも、その中で都城は特に士族が多く、42%という数字でした。半分は士族という状態だったのです。

もちろん、他の藩では士族と農民は完全に区切られ、士族は俸禄を受けるサラリーマンと化していたのですが、島津では戦国時代以前の状態、つまり武士も農地を所有し、平時は自らそれを耕し、戦時には闘うという体制をそのまま引き継いでいたのです。

 

幕末から維新に至る時期にも、都城島津家の人々は鹿児島同様精力的に動きました。

精忠組という、血気にはやる若者たちも都城精忠組として出撃し、倒幕の戦場で戦ったそうです。

 

生麦事件を原因としてイギリスと薩摩の間に薩英戦争が勃発し、鹿児島はあっという間に焼け野原となったものの、イギリス艦隊にもかなりの損害を与えたので、和平となりました。

すると、薩摩は和平の条件として賠償金等は払うものの、イギリスの軍艦を売ってくれということを言い出したそうです。

あまりのことに、イギリスの交渉担当者も唖然としたとか。

 

薩摩を始め倒幕派の諸藩の活躍で、明治維新は成し遂げられました。

しかし、薩摩でも西郷や大久保などごく一部のものが政府に加わったのみで、多くの士族は打ち捨てられたようになってしまいます。

廃藩置県で、従来の領主は一応知藩事として就任をしますが、それもすぐに中央からの官僚に交代させられ、島津の数百年に渡る支配も終わらされます。

しかも、長州や土佐はそれぞれ山口県高知県と一つの大きな県にまとめられましたが、島津支配地は鹿児島、美々津、都城と三分割されてしまいました。これには島津側や家来たちは非常に不満を持ったようです。

 

さらに、秩禄処分で、士族の俸禄はわずかな債券で精算されますが、鹿児島ではそこには他とは大差がある状況がありました。

 

島津家では中世以来の武士と農民の一体化が続いており、江戸時代では他に例を見ない土地の私有制とも言える状況でした。

しかし、秩禄処分により、武士の土地所有は否定されると、薩摩では大きな反発が起きます。

全国各地で起きた士族の反乱が、薩摩では西南戦争にまで拡大するのも士族たちのこの点に関しての不満が非常に強かったからのようです。

 

西南戦争の際、都城薩軍の敗走路に近く政府側が刺激すれば町も無事では済まなかったのですが、なんとか迂回して敗走させました。

 

明治に入っても、都城島津家の当主島津久家は軍人となり、日露戦争にも陸軍で戦場に立ち戦ったようです。

さらに、その子の久厚の代には第2次世界大戦が終わり、都城島津家は土地も失いわずかな山林を残すのみとなりました。

 

江戸時代の殿様の子孫が居るというところはあちこちにありますが、鎌倉時代にさかのぼり領主の家系が続いているというのはすごいところです。

島津という家の持つ意味を再認識できました。

 

島津家の戦争

島津家の戦争

 

 

米朝会談の本当のところは、トランプの心の底にあるものは、副島隆彦さんの学問道場より

著書も一冊読ませていただいたことのある、評論家の副島隆彦さんのブログ「学問道場」にはなかなか興味深い記述がありますが、今回の指摘は非常に考えさせられるものでした。

 

副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 - 重たい掲示板

学問道場の中の「重たい掲示板」というところにある、6月13日付けの記事です。

 

[2327]6.12米朝会談 の真実。 日本だけが敗北した。

このように題された、副島さん御本人の投稿分ですが、6月12日に全世界の注目を集めて行われた米朝首脳会談で、実際に決まったのは次のことであるという観測です。

 

トランプは北朝鮮の非核化を決めたと称していますが、実際に決まったのは「ICBMは持たない」ということだけであり、核武装を解除するということはウヤムヤにされているのではないかということです。

 

すなわち、「アメリカに届かなければどうでも良い」ということであり、短中距離のミサイルは従来どおりとすれば、日本をはじめとする近隣国は相変わらず核ミサイルの脅威にさらされるということです。

 

その他の部分でも、トランプは金正恩に良いように踊らされたとしています。完全な外交敗北なのですが、虚勢を張っています。

そして、そのトランプのアメリカよりさらに最悪なのが、トランプに擦り寄りついていくだけの日本であるとしています。

金をむしり取られるのが、アメリカばかりでなく今後は北朝鮮にもということでしょう。

「滅びゆく 日本の方言」佐藤亮一著

本の題名から受けた印象では、地域間の交流の発達やテレビなどの影響で方言が無くなっていくことについて、論じらている本かと思ったのですが、それは巻末のごく一部のみで、ほとんどの部分はこれまでの研究の成果として、方言の全国分布図を説明するといったものでした。

 

まあ、かつての方言研究の結果を今一度残しておきたいということなのかもしれませんが、刻一刻変わっていってしまっている現在の状況はあまり反映はされていません。

 

そんなわけで、巻末の「方言の現在」というところを紹介しておきます。

 

日本人の大部分が、「方言はなくなりつつある」という意識を持つのではないでしょうか。

かつて、著者の学生時代の昭和30年代に、地方に方言研究の調査に出かけると、「なぜこんな言葉を調査するのか」と疑問を持たれたのですが、最近では調査に行くとお年寄りが進んで応じてくれるようになり「自分たちの言葉をぜひ後世に残してほしい」と言うそうです。

もはや、若い世代には通じなくなっているという自覚があるのでしょう。

 

現在では、どの地方に出かけても若干なまりの入った「地方共通語」とでも言うべき言葉が聞こえてきます。

かつては、老人の話す言葉は別の地方から来た人にはまったく通じないということがあったのですが、そういうことはなくなりました。

しかし、地方の人々が皆共通語を話しているかというとそうではなく、共通語も話せるが仲間内では方言を話すということは残っています。

ただし、その方言も、従来の伝統的なものとは異なり段々と形を変えています。

他の地域の情報も入りやすくなり、その影響で伝統的方言はどんどんと変えられていきます。

方言がこのまま無くなっていくという見方はやはり一方的なものであり、そうでもないと考えられます。

ただし、方言の機能というものは従来のものとはかなり違ってきました。

「アクセサリー化した方言」といったものになっています。

方言で「遊ぶ」ということもあります。

こういった実態は、方言研究者ほど見えていないのかもしれません。

 

本書の大部分を占める「方言の全国分布」から少しだけ。

言葉の指す対象が、全国どこに行っても同一とは限りません。

「もみ殻」と「糠」は、昔はどこへ行っても「ぬか」と呼んでいたそうです。

それが、いつの頃からかもみ殻の方だけ形が変わり分化しました。

 

「カマキリ」と「トカゲ」も、まったく違う生物ですが、かつては関東地方の一部では意味が逆転していたそうです。

方言型の「カマギッチョ」が進化した時に逆の意味に進んだとか。

 

方言ばかりの九州に住んでいると、「方言の衰退」などということが本当に起きるのかと思いますが、確かに初めてこちらに来た40年前と比べると現在は皆の話す言葉が違ってきたことを実感します。

まあ、徐々に変わっているのでしょう。

 

滅びゆく日本の方言

滅びゆく日本の方言

 

 

”賀茂川耕助のブログ”を読んで No.1223 変わる米国の覇権体制

アメリカが握っていた世界の覇権というものを、自ら手放そうとしているとする意見を述べている人も目立ちますが、今回の賀茂川耕助さんのブログでもそう主張しています。

kamogawakosuke.info

意外に思う方も居るかもしれませんが、トランプ大統領が「アメリカ第一主義」を声高に唱えること自体、これまでのアメリカの覇権体制が変化していることを示しています。

 

強力な軍事力が他国をはるかに凌駕していることには代わりはありませんが、かつては世界の基軸通貨として揺るぎない地位を占めていたドルも昔の面影はありません。

 

軍事力を持っていてもそれを動かすだけの軍事費が乏しいことも明らかになりました。

両面作戦は不可能と言わんばかりに、イランに火種を持ち込む一方では北朝鮮は手打ち式です。

その割に、中国ロシアを標的とするミサイルシステムを日本に買わせることには変わりはないようです。

 

世界の体制が変わろうとしているにも関わらず、トランプについていくことだけを求めている日本の首相の姿勢が危ういのも賀茂川さんの指摘どおりです。

覇権国にすり寄っているだけで安泰だったのは昔の話。たくさんのプチ覇権国の一つだけに入れ込んでいたら、他のプチ覇権国に何をされるか分かったものじゃありません。

 

イラン、イスラエル北朝鮮、まだまだ目を離すことができないようです。

 

「異次元緩和の終焉 金融緩和政策からの出口はあるのか」野口悠紀雄著

アベノミクスの欺瞞性と犯罪性については、このブログの中であれこれと書いてきましたが、あくまでも経済は素人の私が色々な情報を総合して判断したものが中心です。

 

しかし、この野口さんの本を読むと、そういった私の推論と同じような議論が、しかも当然ながら非常に精密な論拠の元、十分な証拠を持って論じられていることに驚きました。

(少し、自慢になります。)

 

そして、その議論の先にあるものは、怖ろしい予測となります。

つまり、この馬鹿げた金融緩和政策はいつかは止めなければならないのですが、その時には大変な混乱が生じ、下手をすると日本の財政、経済が崩壊するかもしれないということです。

 

本書刊行は2017年10月、そこから少し時が過ぎていますが、まあほぼ同一の状況とみなせるでしょう。

 

17年5月には、長期国債発行残高の4割を日銀が保有するということになってしまいました。かつては1割以下であったものが。

日本の株式市場も、日銀のETF(上場投資信託)購入により株価の高値が支えられている状況です。

国債保有の大部分を占めていた民間銀行は日銀に国債を売り渡しましたが、その代金は当座預金として日銀に積まれています。しかしマイナス金利政策によりその預金にマイナスの利子をつけることが可能となりました。それで銀行の収益は悪化しています。

 

こういった状況は、いずれはやってくる「金融緩和政策」からの撤退の時には、金利上昇が起こり、日銀に巨大な損失が発生する理由となります。

その額は、長期金利が3%となった場合には69兆円と言う膨大なものになります。

一刻も速く「緩和政策からの出口」を議論し実施していかなければ、その災禍は日本全体を破壊しかねないものとなります。

 

 

自民党が政権に返り咲いた時、「異次元の緩和政策」というものを取りました。

これは失敗が明らかとなりました。

第1に日銀が国債を購入してもマネタリーベースが増えるだけでマネーストックに影響は出ませんでした。

第2に、消費者物価指数の前年比2%増と言う目標は達成できませんでした。

第3に、為替レートや株価に影響を与えたものの、設備投資支出を増やすことはできず、実質消費は物価上昇と実質賃金低下を通じてマイナスになりました。

 

結局は、異次元緩和政策というものは、「期待」を動かすだけのものでした。

それで、為替レート、株価といった「資産価格」は動きました。これらは期待で動く性質があります。

しかし、消費や投資、生産や賃金といったファンダメンタルズ、実体経済は期待というものにはあまり左右されないものでした。

資産価格は上昇し、多くの人は日本経済が回復していると誤解しました。しかし実体経済は不調のままでした。

 

ただし、円安が進んだのは日本の金融緩和のためではなく、ヨーロッパ経済危機の沈静化のためだったようです。

 

マネタリーベースの増加がマネーストック増加につながらなかったのが、物価上昇が起こらなかった原因と言われます。

日銀が民間銀行から国債を購入すると、その代金が民間銀行が日銀に持つ当座預金口座に振り込まれるので、それでマネタリーベースは増加します。

しかし、民間銀行が当座預金に持っているだけではマネーストック増加にはつながりません。

民間銀行がその資金を他の企業などに貸し付けることで、マネーストック増加が引き起こされるはずでした。

企業の設備投資の増加も起きず、わずかに個人向けの住宅ローン貸付が増えただけでした。

つまり、借り入れ需要が無ければいくらマネタリーベースを増加させても貸付にはいたらないと言うだけのことです。

 

しかも、消費者物価の動向と言うものは、現代では主に輸入物価の動向で説明できるようになってしまいました。

特に、原油価格の上下によっての影響が大きいものであり、日本の金融政策などでは決まらないと言うことです。

にもかかわらず、物価上昇を理由に金融緩和を実施したこと自体、始めから間違いだったということになります。

 

 

棚ぼた式の円安効果で、輸出産業が潤ったと言われています。

通常は、円安になれば輸出品が値下がりして売れ行きが上がり、そのために国内の各段階の産業が活発になるというのがシナリオです。

しかし、この時期の円安では、輸出数量の増加は起きていません。

これは、最近の輸出品の価格決定では為替変動を理由とした細かな値付け変更をしていないと言う状況があります。

そのため、輸出数量が増えなければ国内生産も増えず、下請け売上も増えず、設備投資も増えず、さらに零細企業では利益はむしろ減り続けました。

そして、中小企業を中心にさらなる人件費削減となり、賃金下落を招きました。

ただし、円安では輸出産業の利益は増えます。そのために、輸出大企業の業績アップ、株価が上がるので投資家の収益アップは成し遂げられましたが、中小企業の業績ダウン、労働者の賃金下落が起き、格差拡大となったわけです。

 

企業は空前の利益を上げましたが、それは内部留保の増額にのみ向かいました。

設備投資もせず、人件費増もせず、ましてや下請けへの支払い増もしません。

 

今やるべきなのは法人税増税、消費税の減税です。

 

世界はすでに金融緩和の脱却に向かっています。

アメリカはすでに2014年に量的緩和政策の終了を決定し、金利の引き上げに向かっています。

欧州中央銀行(ECB)も金融緩和からの出口を探っています。

日本もいずれは出口に向かわなければなりません。

 

しかし、日本が金融緩和政策を止めると大きな影響が出ます。

金融緩和政策終了では、金利が上昇する可能性が強くなります。

金利上昇は国債市場価格の下落を意味します。

それは日銀が保有する国債の評価額下落となります。それが69兆円と言う額です。

日銀が債務超過となれば、日銀納付金と言う政府の収入が減ってしまいます。

さらに、一番の問題は日銀券の信用が無くなることです。

こういった不換紙幣の乱発でハイパーインフレを起こした例はいくらでもあります。

国債も現在保有されている国債が期限が来てまた新たな国債発行ということを繰り返していますが、その新規発行の国債は高い利率を付けなければなりません。

そのため、国の財政はさらに厳しくなることになります。

このままいけば国債費が予算の半分以上を占めるまでになってしまい、財政は破綻します。

 

必要なのは、金融政策頼りの成長は不可能と言うことを悟り、すぐにでも金融緩和政策の停止を目指すこと、そして、産業構造の改革に着手することだそうです。

 

 

多くの点で、国家財政の基本から見て金融緩和政策がいかに効果が無く、危険が多いかと言うことを示していた、優れた解説でした。

ただし、最終章の「産業構造を改革して成長」というのは、私は無理だと理解していますので、その部分のみは評価保留です。

しかし、文句なしに本書の内容は誰もが知っているべきだと感じました。

「西洋音楽から見たニッポン」石井宏著

こういった題名の本ですが、著者の石井さんは音楽家ではなく文学研究者のようです。

ただし、書かれた著書を見るとモーツァルト、ベートーベン、マーラーなどにちなんだ本を多数書かれており、研究対象としているということでしょうか。

 

この本はVoiceという雑誌に書かれた連載を元に、書き下ろしを加えて一冊としたそうです。

おそらく最終章などは書き加えたものと思いますが、音楽というものからは離れた外交論や交渉論となっており、ヨーロッパ崇拝の強すぎる日本というものに対しての苦言とされています。

 

西洋音楽の楽譜には、曲の最後の方に「フェルマータ」という記号(半円形の弧の中に黒丸のは行ったもの)が書かれていることがあります。

日本ではフェルマータのことを「延長記号」とか「延音記号」と呼び、その意味を「この記号の付いた音は通常の2-3倍延ばす」とされています。

 

しかし、イタリア語のフェルマータとは「止まる」という意味であり、英語では「ストップ」ということです。

つまり、フェルマータが付いているから「ソー」と長く伸ばして歌うと日本人は理解しそのように演奏しますが、西洋人からみると音楽がそこで「停止している」ということだそうです。

日本人は都々逸などを歌っていて興がのり音を伸ばして歌うということがあり、フェルマータもそのようなものと思っていますが、西洋人の感覚ではそこまで刻んできたリズムが止まり、再開を待っているというものです。

 

日本で、スポーツなどの応援をする応援団が、「3・3・7」拍子などの拍手をすることがあります。

これは西洋音楽で言う「三拍子」と同じかと思うと間違いで、3・3の間には必ず一拍の休符が入ります。

つまり、チャ・チャ・チャ・ホイ・チャ・チャ・チャ・ホイ・チャ・・・・・

となり、この拍子は「四拍子」ということです。

 

実は、俳句や和歌の5・7・5と言うリズムも、必ずその間に休符が入るので、基本は四拍子だとか。

 

五七調、七五調と言うリズムは、古代から日本の歌や文の基本となっていました。

これは実に第二次大戦の戦後しばらくまでは、歌の基本となり続いていました。

しかし、ロックやフォークなどの新しい歌ではそのリズムが崩壊してしまいました。

かつての七五調の歌が「アリア」だとすれば、旋律性を失った「叙唱」になりました。

「ラップ」というものはその動きが究極まで進んだものだそうです。

 

かつての歌謡曲、流行歌というものがすたれていった時代と言うのはちょうど私が大人になりかけていった時代を重なります。

そのような、古代から続く伝統を消し去った大変革が起きていたとは。驚きです。

 

西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四

西洋音楽から見たニッポン―俳句は四・四・四

 

 

「戦後和解 日本は〈過去〉から解き放たれるのか」小菅信子著

日本は周辺国との間に軋轢を抱えていますが、これらは第二次世界大戦とそこまでの日中戦争、さらに植民地支配と言うところから生まれた問題と言うことができます。

 

しかし、そのような問題は日本とアジア各国との間だけにあるものではなく、世界中の様々な国の間に横たわっています。

現代は、「かつてなかったほど過去に縛られた時代」であるということです。

「平和のために過去を忘却してはならない」ということも言われます。

 

戦後和解というものを成し遂げるためには、歴史を見つめ直さなければなりません。

さらに、戦後和解というものが比較的上手く行ったと言える事例もあります。

しかし、困難なケースもそれをそのままにしておくわけには行きません。

この本では、そのような観点から、まず戦争犯罪裁判というものを取り上げます。

そして、戦後日本とはかなり違った道を歩んできたドイツの事例。

さらに、捕虜の虐待と言う事件を経て、明治以降最悪の関係となった日英が様々な努力により修復されていった経緯。

そして最後に、最も重い課題と言える、日中和解の可能性について語られています。

 

古代の戦争では、勝者は敗者を徹底的に滅ぼすということが普遍的に行われ、虐殺、奴隷化ということが付き物でした。

そこには、「戦後和解」などというものの入る余地はありませんでした。

しかし、中世から近代に進み、「人道」というものを尊重するということが広がってきます。

戦争中とは言え、残虐行為が行われることは許されないということになります。

20世紀初頭に行われた南アフリカ戦争では、イギリス軍の残虐行為が世界的に糾弾され、勝利したイギリス側も講和条件をかなりボーア人側に譲歩せざるを得なくなりました。

そして、第1次世界大戦では、勝者が敗者を裁くという戦争犯罪裁判というものが開かれるようになります。

しかし、本格的な戦争裁判は第2次世界大戦後の、ニュルンベルク裁判と東京裁判でした。

 

戦争裁判では、勝者の犯罪は裁かれず、敗者のみが被告となると言うものですが、それでもその裁判はある有効性をもたらします。

敗者側、つまり第2次大戦ではドイツと日本ですが、裁判をすることにより敗戦国の中でも戦争犯罪に加担した者たちと、それ以外の扇動され協力させられた者たちの「線引き」を行う事になったということです。

敗戦国側でも、無理やり戦争に協力させられ、被害を受けた者たちは被害者であると言う論理が勝者にも敗者にも共有されることになりました。

 

ドイツは、その線引きが上手く行き、ナチスとその協力者だけを犯罪者とすることで、他の大多数の国民は免罪されました。

しかし、日本ではちょうどその裁判の最中にソ連の圧力が強まり、共産国との緊張が高まる中で、アメリカの戦略として日本の旧権力者たちの協力を求めることとなり、戦争責任の追求が中途半端となりました。

わずかな数の戦犯だけが罰せられ、ほとんどのものが解放され復権しました。

その後、首相にもなった岸信介もその中に含まれます。

 

また、東京裁判ではアジアへの侵略、植民地支配については触れられないままとなります。

これは、裁判官側となるアメリカ、イギリス等の連合国は皆アジア植民地支配の宗主国であり、そこを問題とするわけには行かなかったという理由があります。

そのため、ほとんどの戦争裁判では、捕虜虐待などの対連合国兵士に対する犯罪のみを裁くものとなってしまいました。

さらに、冷戦が進行するに従い、米英を主とする勝者側の東京裁判に対する熱意は急激に冷めることとなります。

 

 

戦争捕虜の取扱については、日本は明治以降は欧米諸国から認められようとするあまり、非常に模範的な処遇をしてきました。

日露戦争や第1次大戦時の、ロシアやドイツの兵士の優遇はよく知られています。

しかし、その後はそういった戦争時国際法というものが欧米のご都合主義のルールと見なし反発するようになり、さらに自国民も含めて捕虜になるということ自体も敵視するということになり、その結果第2次大戦初期にアジア地域で捕虜となったイギリスやオランダ、オーストラリアの兵士などに対する扱いはひどいものとなりました。

英軍捕虜の死亡率は、戦闘よりも高かったということになります。

これには、映画「戦場にかける橋」でも知られる泰緬鉄道建設に使役された捕虜の多くの死亡が影響しています。

このため、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の対日感情はかなり後になるまで悪いものでした。

1970年代にイギリスを訪れた昭和天皇に対する反対行動は激しいものであり、最近の良好な日英関係しかしらない人には想像できないものかもしれません。

しかし、当時の生き残った軍人や、民間の日本人などの活動により、徐々に和解の雰囲気が広がってきます。

1998年の当時の橋本首相がイギリスの大衆紙「サン」に掲載した謝罪の投書は最終的にイギリスの世論を緩やかにすることに役立ったそうです。

 

いまだに大きなトゲが刺さったままのような、日中関係には打開の道があるのでしょうか。

終戦時に、当時の蒋介石国民党最高責任者の「怨みに報いるに徳を持ってせよ」という言葉は非常に有名ですが、実はこれは中国の国民に対して発せられたものではなく、降伏した日本軍に対してのものでした。

その時、すでに中国国内での共産軍と国民党軍との主導権争いは始まっており、降伏した日本軍の協力を得るためのものだったということです。

共産党側も、日本を意識していたために、東京裁判の評価も高く、「戦犯以外は被害者」と言う立場を明確にしていたそうです。

中華人民共和国成立後も、共産党政府は日本全体を戦犯とするような見方は抑えていましたが、それは中国国民の意識とは違っており、強権を持って押し付けたものでした。

1972年に日中国交回復を果たしたのも、アメリカの中国接近に焦らされたものであり、慎重な手順を無視していました。

中国側も急いだ対応となり、不備な点は多かったのですが、それで一応すべて収まったと安堵した日本側の油断がその後のトラブルのもととなります。

 

中国側は戦後和解の出発点としての東京裁判というものを、日本の理解以上に重視しているようです。

そのため、A級戦犯靖国神社合祀ということに対しては、日本側の想像以上に敏感になっています。

小泉首相以降の靖国参拝に、日本の感覚からすれば異常なほどの反応を見せるのはそのためです。

 

ただし、中国の姿勢も中国が途上国である間は世界的に同情をもって見られていたとしても、最近のように大国に発展してみると世界からも素直には見られなくなっています。

この辺には日本も考えるべきところがありそうです。

 

日中問題、日韓問題と言う個別の問題のように見ると、難しいことのようですが、戦後の和解と言う普遍的な問題として捉えると言うのは優れた視点だったと思います。