爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「煩悩 百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!」松原哲明著

大晦日の除夜の鐘は煩悩の数だけ、108回つかれるということはよく知られていることでしょうが、その「煩悩」というものはどういうものかということは、意外に知られていないのではないでしょうか。

 

そういった煩悩の数々、臨済宗の僧侶にして大学教授も務められている著者の松原さんが、ご自身の経験や見聞も交えながら一つ一つ解説していきます。

 

108の煩悩がどういうものであるかということも諸説あるようです。

どれが正しい説かということも無いということですが、6種の根本煩悩に付随する随煩悩を数えて108にするという説が基本ということです。

根本煩悩には、貪(とん)瞋(しん)癡(ち)慢(まん)疑(ぎ)見(けん)の6種があります。

貪は欲しいと思うものに対する強い欲求で、それにまつわる数々の煩悩もあります。

瞋は怒りの炎で、様々なものに対する怒りが溢れてきます。

癡は本当のことを知らずに道に迷うばかり。

慢は色々な面で驕り高ぶること。

疑はこころに浮かぶ様々な疑い。

見は真実と思って間違った見方をしてしまうこと。

 

著者も禅宗の僧として修行をし、それを広く講演活動として話して回っているのですが、まだまだ煩悩と別れられないと自覚しているそうです。

ご自身はすぐにカッとする性格であることを自覚していますが、講演などでは「ブッダの教えは心のかわかないこと」などといかにも布教師らしいことを言ってしまうそうです。

自分自身「二重人格」ではないかと思いつつも話を続けるそうです。

 

著者の人柄がよくわかるような挿話で、本書主題の煩悩というものも分かりやすく思えてきます。

 

煩悩―百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!

煩悩―百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!

 

 

安倍首相は秘書の意味を取り違えている?

先週末の夕方の(アベトモの)フジテレビの番組に、安倍首相出演ということで、普段はその番組を見ることが多いのですが、目や耳が汚れるからと思いチャンネルを変えました。

しかし、すこしずつでも耳に入ってしまった中に、「秘書は一々私に報告はしない」という一言がありました。

 

エッと驚くような発言です。

 

www.sankei.com

どうやら、国家の重大事以外は一々報告はしなくて良いという考えのようです。

 

このあたり、一般社会の常識とは完全に離れていることでしょう。(もちろん発言が真実ならということですが)

 

秘書が自分勝手に判断し行動すると言うことがあってよいはずがありません。

それが一般常識でしょう。

 

一昔前に、政治家のスキャンダルが頻発した時に「秘書が勝手にやった」と言い逃れ(にもなっていないが)しようとした政治家がいました。

 

秘書の監督責任も考えていないその非常識ぶりには世間から大きな批判を浴びたと記憶していましたが、その教訓をまったく考えていないのが安倍首相のようです。

 

加計問題などは些細なことと言いたいのでしょうが、だからといって秘書の独断専行が許される問題ではありません。

 

いよいよ安倍の世間常識からの乖離がはっきりしてきました。

何を言っても信じられないような首相がこの重大時に職についている。日本の不幸と言うべきですが、これを招いたのも皆が投票したためです。

 

「イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?」アイヌ民族に関する人権教育の会監修 秋辺日出男他著

本書副題は「先住権・文化継承・差別の問題」とあります。

アイヌ民族が特に北海道においての先住民族であるということは確認されていますが、政府はそれをどうこうするという実際的な政策を取ることはなく、放置されています。

 

アイヌ民族と名乗っているのは2万人程度ということですが、実際には20万人以上居るのではないかと考えられています。しかし、これまでの厳しい差別の状況からアイヌであることを隠して居る人がほとんどのようです。

 

本書はこういった問題について活動している方々が、所々で講演した内容をまとめたものです。

内容は様々ですが、アイヌ民族の先住権とはなにかということや、北海道におけるアイヌ民族や文化についての教育、アイヌ文化の伝承、いまだに残る差別といったことが語られています。

 

かつては、東日本各地にまでアイヌ民族が住んでいたと見られますが、近い過去には北海道、サハリン南部、千島列島に広く住んでいた先住民族です。

日本とロシアが進出してアイヌの土地を奪いました。

1980年代になり、国連では全世界で起きた先住民族に対する侵略について、反省するという動きが見られるようになりました。

日本は長らくアイヌ先住民族と認めることがありませんでしたが、ようやく1997年になりアイヌ文化を守ることのみが認められ、アイヌ文化振興法を作りました。

そして、2008年になってようやく国会で「アイヌ民族先住民族とすることを求める国会決議」が採択されました。

この決議の変な名前にも、日本政府のおかしな姿勢が現れています。(何で”求める”?)

しかし、その決議のあともこれと言った施策をするわけでもなく、放置されています。

 

明治以降、北海道開拓と称して多くの日本人が進出し、肥沃な大地を我がものとしてしまいました。

一方、アイヌにはその残った痩せ地を与え、それまで自由に狩猟してきた動物や鮭を捕ることを禁じました。主要な食糧だった鮭が食べられなくなり餓死したアイヌも多かったそうです。

そして日本の教育の中に取り込んだアイヌ達に対しても差別が激しかったため、アイヌであることをできるだけ隠すということも生じてしまいました。そのため、アイヌ文化というものに全く触れないままのアイヌ人も多いようです。

いまだにアイヌ差別を公言する日本人も多いようで、北海道でほそぼそと実施されている学校でのアイヌ文化紹介で、子どもたちはそれに触れても家に帰って親に話すと「そんなことは話すな」と言われることがあるとか。

さらに、アイヌ人の活動に若干の補助金が出ただけでコソコソと批判する人間も居るようです。

 

ヘイトスピーチというものに対する批判というものもありますが、それが在日韓国・朝鮮人に対するものばかりのような思い違いもあります。

アイヌに対するヘイトスピーチというものも大きな問題なのですが、それが無視されてヘイトスピーチ規制法(2016年)は正式名称を「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律」にされてしまいました。

「本邦外出身者」では「アイヌ民族」が入ってきません。

その認識が国会議員には無かったのでしょう。

 

なお、書名の「イランカラプテ」とはアイヌ語の挨拶の言葉で「あなたの心にそっとふれさせてください」という意味だそうです。

イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?――先住権・文化継承・差別の問題

イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?――先住権・文化継承・差別の問題

 

 人種差別の話は、アメリカの黒人だけではないということがよくわかる本です。

 

 

柳瀬元首相秘書官は「籠抜け詐欺」?

国会での参考人質問で、柳瀬元首相補佐官は「加計学園の職員に首相官邸で会った。愛媛県今治市の職員は一緒にいたかもしれないが覚えていない。この件について首相からの指示はなく、報告もしていない」という趣旨の答弁をしました。

 

この弁解を聞いて思い出したのが「籠抜け詐欺」という言葉です。

 

昔、とある小説で読んだのですが、銀行や大会社の建物の一室を言葉巧みに借りて、そこにカモとなる人を呼び、あたかもその会社の関係者のようなフリをして金品を騙し取り、自分はさっと裏口から逃げるという手口です。

 

kotobank.jp(なお、最近では「籠抜け万引き」という用語もあるようなのでご注意)

 

獣医学部設置の陳情のために首相官邸に赴いた加計学園職員、愛媛県職員、今治市職員の方々は、何を誰に話したつもりだったのか。

当然ながら、首相に取り次いでもらうことを期待して行ったわけです。

 

それを、秘書官は自分ひとりの胸に収めて首相には取り次いでいない。(と称している)

 

面会に行った人々から見ればまさに「籠抜け詐欺」同然のことをされたということです。

 

嘘が嘘を呼び、ますます恥ずかしい状況へと進んでいます。

 

このような子供の目にも明らかなことをしておいて、学校では「道徳」の授業の押し付けを始めるのでしょうか。

「こんなことをしてはダメだよ」というのが最良の道徳の回答のようです。

 

 

「細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯」安延苑著

明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻となり、キリスト教徒となって関ヶ原の戦いの前に石田三成に人質とされようとして壮絶な死を遂げた、細川ガラシャ

その名は日本ばかりでなくヨーロッパでも知られているのですが、実際の彼女の人生がどのようなものであったのか、意外に知られていないようです。

 

戦国時代の女性は結婚後でも生家の名字と名前で呼ばれるのが普通であったので、本来は「明智玉」と呼ばれていたはずですが、なぜか婚家の細川に洗礼名のガラシャを付けて呼ばれることが多いようです。

 

ガラシャが生まれたのは1563年、父の光秀はまだ信長に仕える前でした。

その後、光秀は信長に臣従しどんどんと頭角を表して行きます。

細川藤孝足利将軍家に仕えていたものの、光秀に少し遅れて信長に仕えるようになり、光秀と共に働くようになります。

そして、細川藤孝の嫡男忠興と、光秀の娘玉とが結婚するのも自然な成り行きでした。

 

忠興とガラシャは共に数え16歳で結婚します。

長女の長(ちょう)、長男の忠隆と続けて子供が生まれます。

 

しかし、ガラシャが20歳の1582年、父の光秀が本能寺の変で主君織田信長を討ち果たすと言うことになりました。

光秀は当然ながら細川藤孝、忠興父子の助勢を当てにしていたのですが、彼らはその求めに応じないまま、秀吉により破られクーデターは失敗に終わります。

 

反逆者の娘であるガラシャは、細川家からも離縁されてしまうのですが、実際は細川は彼女を領地の丹後の日本海沿いの味土野というところに幽閉します。

これは実はほとぼりが冷めるまでの間のことだけであり、その後は秀吉の許しを受けて大阪の細川屋敷に引き取るということになりました。

子供も続けて生まれ、正室として扱われていたようです。

 

その頃に周囲の侍女などが相次いでキリスト教に入信し、ガラシャ自身もその希望を持つようになります。

しかし、忠興はまったくそれを認めようとしなかったために、隠れて事を運ぼうとします。

ガラシャが教会を訪れたのは生涯でただ一度。1587年3月29日であったそうです。

その時、大阪のイエズス会教会に居たのはセスペデスと言うスペイン人の司祭でした。

位の高いオルガンティーノなどの司祭はたまたま外出しており、セスペデス一人が残っていました。

しかし、セスペデスは日本語がそれほど上手では無かったために直接は語らずに日本人修道士に対応させたそうです。

ガラシャは名前は明らかにしなかったものの、高貴の夫人であることは明白であり、帰りに付けていってようやく細川の夫人ということがわかったそうです。

 

この時はちょうど忠興が秀吉に従い九州征伐に参戦していた時期であったのですが、それ以降はガラシャの外出も不可能となりました。

洗礼を受けなければキリスト教徒となることはできないのですが、そのための教会訪問もできない状況でした。

そのため、宣教師たちは策をめぐらし、ガラシャの侍女のキリシタンを使って洗礼を伝えさせると言う手を使ってガラシャの入信を果たしました。

ガラシャと言う洗礼名はちょっとめずらしいものですが、これは彼女の周囲の侍女などが先に入信してしまい、通常の洗礼名はすべて使われてしまったために、考えて選んだもののようです。

ラテン語のグラティア、スペイン語のグラシアから来るもので、「恩寵、恩恵」という意味ですが、同時に「玉、珠」とも通じる意味があり、彼女の本名とも意味が通じるというものでした。

 

大阪の屋敷から一歩も出られないとはいえ、そこで十数年の穏やかな生活を送っていたのですが、徳川と豊臣の争いが激化し大坂に住む大名家族もそれに巻き込まれていきます。

忠興は徳川に味方し共に戦っていたのですが、家族は大坂に残されたままでした。

関ヶ原の戦いが近づき、石田三成は大名の家族を人質として捕らえようとします。

しかし、忠興が参戦する前に言い残したのは、人質となるようならば自害せよと言う命令でした。

石田三成がまず捕らえようとしたのが細川ガラシャでした。

軍勢を向かわせたところ、細川家は抵抗し、その間にガラシャは自害、屋敷には火をかけ遺体を焼くというのが通例でしたが、キリスト教徒は自殺を絶対にできないということになっています。

そのため、通説では警護係であった小笠原少斎がガラシャを切ったということになっていますが、キリスト教の思想ではこのように自ら手を下さなくても依頼した場合は自殺に含まれると言うことになっています。

ガラシャはこのような事態になる以前からこれを予測し、どうすればよいかということをイエズス会宣教師に手紙で尋ねていたそうです。

イエズス会側としても神学者の意見も聞き手を尽くしてこれが自殺には当たらないという解釈をできるということにしたのですが、その辺の議論はやはり取ってつけたような印象がします。

 

細川忠興は妻や家臣がこのようになることを半ば予測しながら脱出等の策は取らず、この事態を招いたということで、現代の感覚からすれば冷酷のようにも見えますが、当時家をまず守ると言う点から言えば仕方のないことであったのかもしれません。

長男の忠隆の妻はガラシャと共に居たのですが、三成の軍勢が寄せる前に脱出してしまいました。そのためばかりとは分からないのですが、忠隆はその後廃嫡され、三男の忠利が家督を継ぐことになってしまいます。

当時の武士社会の道徳観としてはこのようなものだったのでしょう。

しかし、忠興はガラシャ没後1年経った時に、一周忌として京都の教会でキリスト教式のミサを行いました。自身はキリスト教とは距離を置いていましたが、妻の信仰を大切にと思っていたようです。

 

 細川氏は私の住む熊本のかつての領主であり、細川忠興(三斎)は隠居後に八代城に暮らしたと言う人です。その妻ガラシャの生涯と言うことで、興味深く読むことができました。

 

 

九州国際スリーデーマーチ参加

5月11日から3日間、八代市球磨川河川敷をスタート会場として、九州国際スリーデーマーチと言う、ただ歩け歩けと言う大会が開かれています。

11日はその初日、10kmコースに参加してきました。

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去年はひどい雨で、一部中止となったのですが、今年は快晴、しかもかなりの暑さ。

主催者側も熱中症が心配らしくくどいほどに水分補給の注意。

 

普段から5km以上の散歩はしょっちゅうしているのですが、10kmとなると足にこたえます。

12日も出かけるつもりですが、足が持つかどうか。

 

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八代駅を通った時、ちょうどSL人吉号が駅に到着するところでした。

青葉の中のSLも良いものです。

 

「そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私たちの50万年史」クライブ・フィンレイソン著

ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)と現生人類(ホモ・サピエンス)は50万年前に分離し、その後は地理的に隔絶して暮らしたために徐々に様々な部位に差ができたと言われています。

そして、ネアンデルタール人の絶滅は意外に最近のことであり、最後の遺跡は2万4000年ほど前のスペインジブラルタル海峡付近のものと考えられています。

 

そのため、ネアンデルタール人を絶滅に追いやったのも現生人類が生存競争を仕掛けたからではないかと考える人もいます。

 

本書著者のフィンレイソン博士は、ネアンデルタール人研究が専門ですが、その目から見ると現生人類の発展だけを見ているよりは色々なものが見えてきそうです。

 

現生人類が約20万年前に他から分離し、その後アフリカを出て世界各地に広がっていったと言う物語はほぼ間違いのないことのようですが、しかしその広がっていった先は誰も住んでいなかったわけではありません。

中東から南アジアには、ホモ・エレクトスの子孫や、デニソワ人が、ヨーロッパや中央アジアにはネアンデルタール人が住んでいた時期と、現生人類が進出した時期とは重なる場合もあるようです。

しかし、そこで直接の交渉や衝突があったという証拠は見つかっていないようです。

 

出アフリカを果たした現生人類は、しかしその後のトパ火山の大爆発による気温低下や、その後の低温により中東や中央アジアの付近で長らく足止めをされました。

そこからさらに広がりだしたのは4万年前になってからのようです。

その証拠に、中央アジア付近の現生人類の遺伝的多様性の豊かさということが挙げられます。かなり長い期間ここで留まっていたということが分かります。

 

したがって、それを遡る時代の世界各地の遺跡は、もしかしたら現生人類によるものではない可能性もあるようです。

ホモ・サピエンスの遺跡と考えられていたのが実はネアンデルタール人のものだったのかもしれません。

ネアンデルタール人は知能が低く、そのような文化は持っていなかったと言うのが通念ですが、どうも現生人類とさほど差はなかったようです。

 

3万年ほど前になり、中央アジアから北方アジアに広がっていった現生人類は、ツンドラステップと言う冷たい気候を逆に利用する形で食糧獲得を容易にしていきます。

狩りというものの技能を、集団的な狩猟や槍などの改良で向上させた人々は、寒冷な気候の中で獲物の保存ということを覚え、これまでよりはるかに安定した食糧供給を成し遂げます。

アフリカの熱帯では獲物は多いとしても取った獲物はすぐに食べなければ腐ってしまいます。食べれる分以上は捨ててしまわなければならないものでした。

しかし、ツンドラでは残った肉を置いておいてもいつまでも食べられます。

そうして、一気に彼らは人口を増やしていきました。

その後、さらに農耕を覚えた彼らは圧倒的な優位のもとに世界中に広がっていきます。

 

しかし、ネアンデルタールなどの他の人類は本当に能力が劣っていたからこのような進歩を遂げられなかったのか。

そうではなく、単に現生人類が運が良かっただけだというのが結論です。

ネアンデルタールはヨーロッパが主要な住処でしたので、トパ火山噴火やヤンガードリアスによる気温低下に耐えられずに死滅してしまいました。

もしも、その後の気温上昇まで生き残っていることができたら、ネアンデルタール人も農耕などを発明したかもしれません。

 

この後はどうなるかということには、著者は答えることができないとしています。

進化というものは、独立した集団が隔絶されることがなければ起きないため、世界各地が結ばれた現代では起きようがありません。

このまま持続か、滅亡しか無いということです。

 

なお、巻末に東大准教授の近藤修さんの解説があり、本書出版後の発見としてネアンデルタール人に由来するDNAがヨーロッパ人には数%含まれているというものがあると書かれています。

これがまだ不明だったため、本書中ではネアンデルタール人と現生人類の交雑は無かったとされていますが、実際はあったということです。

同様に、アジア人種はデニソワ人由来のDNAを持っているそうですが、それも本書では触れられていません。

 

人類の進化というものは、やはり様々な視点から広く見渡さなければ勘違いしそうです。

 

そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史

そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史