明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻となり、キリスト教徒となって関ヶ原の戦いの前に石田三成に人質とされようとして壮絶な死を遂げた、細川ガラシャ。
その名は日本ばかりでなくヨーロッパでも知られているのですが、実際の彼女の人生がどのようなものであったのか、意外に知られていないようです。
戦国時代の女性は結婚後でも生家の名字と名前で呼ばれるのが普通であったので、本来は「明智玉」と呼ばれていたはずですが、なぜか婚家の細川に洗礼名のガラシャを付けて呼ばれることが多いようです。
ガラシャが生まれたのは1563年、父の光秀はまだ信長に仕える前でした。
その後、光秀は信長に臣従しどんどんと頭角を表して行きます。
細川藤孝も足利将軍家に仕えていたものの、光秀に少し遅れて信長に仕えるようになり、光秀と共に働くようになります。
そして、細川藤孝の嫡男忠興と、光秀の娘玉とが結婚するのも自然な成り行きでした。
忠興とガラシャは共に数え16歳で結婚します。
長女の長(ちょう)、長男の忠隆と続けて子供が生まれます。
しかし、ガラシャが20歳の1582年、父の光秀が本能寺の変で主君織田信長を討ち果たすと言うことになりました。
光秀は当然ながら細川藤孝、忠興父子の助勢を当てにしていたのですが、彼らはその求めに応じないまま、秀吉により破られクーデターは失敗に終わります。
反逆者の娘であるガラシャは、細川家からも離縁されてしまうのですが、実際は細川は彼女を領地の丹後の日本海沿いの味土野というところに幽閉します。
これは実はほとぼりが冷めるまでの間のことだけであり、その後は秀吉の許しを受けて大阪の細川屋敷に引き取るということになりました。
子供も続けて生まれ、正室として扱われていたようです。
その頃に周囲の侍女などが相次いでキリスト教に入信し、ガラシャ自身もその希望を持つようになります。
しかし、忠興はまったくそれを認めようとしなかったために、隠れて事を運ぼうとします。
ガラシャが教会を訪れたのは生涯でただ一度。1587年3月29日であったそうです。
その時、大阪のイエズス会教会に居たのはセスペデスと言うスペイン人の司祭でした。
位の高いオルガンティーノなどの司祭はたまたま外出しており、セスペデス一人が残っていました。
しかし、セスペデスは日本語がそれほど上手では無かったために直接は語らずに日本人修道士に対応させたそうです。
ガラシャは名前は明らかにしなかったものの、高貴の夫人であることは明白であり、帰りに付けていってようやく細川の夫人ということがわかったそうです。
この時はちょうど忠興が秀吉に従い九州征伐に参戦していた時期であったのですが、それ以降はガラシャの外出も不可能となりました。
洗礼を受けなければキリスト教徒となることはできないのですが、そのための教会訪問もできない状況でした。
そのため、宣教師たちは策をめぐらし、ガラシャの侍女のキリシタンを使って洗礼を伝えさせると言う手を使ってガラシャの入信を果たしました。
ガラシャと言う洗礼名はちょっとめずらしいものですが、これは彼女の周囲の侍女などが先に入信してしまい、通常の洗礼名はすべて使われてしまったために、考えて選んだもののようです。
ラテン語のグラティア、スペイン語のグラシアから来るもので、「恩寵、恩恵」という意味ですが、同時に「玉、珠」とも通じる意味があり、彼女の本名とも意味が通じるというものでした。
大阪の屋敷から一歩も出られないとはいえ、そこで十数年の穏やかな生活を送っていたのですが、徳川と豊臣の争いが激化し大坂に住む大名家族もそれに巻き込まれていきます。
忠興は徳川に味方し共に戦っていたのですが、家族は大坂に残されたままでした。
関ヶ原の戦いが近づき、石田三成は大名の家族を人質として捕らえようとします。
しかし、忠興が参戦する前に言い残したのは、人質となるようならば自害せよと言う命令でした。
石田三成がまず捕らえようとしたのが細川ガラシャでした。
軍勢を向かわせたところ、細川家は抵抗し、その間にガラシャは自害、屋敷には火をかけ遺体を焼くというのが通例でしたが、キリスト教徒は自殺を絶対にできないということになっています。
そのため、通説では警護係であった小笠原少斎がガラシャを切ったということになっていますが、キリスト教の思想ではこのように自ら手を下さなくても依頼した場合は自殺に含まれると言うことになっています。
ガラシャはこのような事態になる以前からこれを予測し、どうすればよいかということをイエズス会宣教師に手紙で尋ねていたそうです。
イエズス会側としても神学者の意見も聞き手を尽くしてこれが自殺には当たらないという解釈をできるということにしたのですが、その辺の議論はやはり取ってつけたような印象がします。
細川忠興は妻や家臣がこのようになることを半ば予測しながら脱出等の策は取らず、この事態を招いたということで、現代の感覚からすれば冷酷のようにも見えますが、当時家をまず守ると言う点から言えば仕方のないことであったのかもしれません。
長男の忠隆の妻はガラシャと共に居たのですが、三成の軍勢が寄せる前に脱出してしまいました。そのためばかりとは分からないのですが、忠隆はその後廃嫡され、三男の忠利が家督を継ぐことになってしまいます。
当時の武士社会の道徳観としてはこのようなものだったのでしょう。
しかし、忠興はガラシャ没後1年経った時に、一周忌として京都の教会でキリスト教式のミサを行いました。自身はキリスト教とは距離を置いていましたが、妻の信仰を大切にと思っていたようです。
細川氏は私の住む熊本のかつての領主であり、細川忠興(三斎)は隠居後に八代城に暮らしたと言う人です。その妻ガラシャの生涯と言うことで、興味深く読むことができました。