爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「岩石から読み取る 地球の自叙伝」マーシャ・ビョーネルード著

著者は地質学者であり、岩石の研究をされてきた方ということです。

地球科学という分野では地球誕生から現在までの地球の経歴というものをダイナミックに推論されていますが、それらの根拠となるものは一つ一つの岩石の詳細な検討から生まれてきたものということです。

 

地球誕生直後のドロドロに溶けた状態からどうやって冷えて固まり、さらに残った地球内部の高温のマグマの作用と、宇宙から飛来した多くの水分との関係が相まってこのような流動的な地盤というものができ、さらに数度にわたる地球の全凍結とそこからの融解など、ワクワクするような地球の履歴というものはすべて地質学から分かってきたのだということです。

 

ただし、欧米の学者の書いた一般向けの本に多い例にもれず、詳細過ぎる実例の描写と過度な比喩と(もしかしたら和訳のせいもあるかも)いったもののため、この本もどうも主題というものがどこにあるのかよく分からなくなってしまい、茫洋としたイメージが残ってしまいます。

「もっと簡潔に」と思うのですがそれじゃ気が済まないのでしょうね。

 

最初の方では地質学で使われる岩石解析の方法についても解説されています。

この辺は事実を述べるだけのはずで簡略なはずですが、そうも行きません。

「火成岩の世界は今なお古代の神々が支配している」といった調子で続いていきます。

 

スノーボールアースとその融解の問題は興味深いものですが、それ以外にも二畳紀の変形という事件があったそうです。

2億5千万年前の二畳紀後期に地球の生態系が崩壊といえる状態に陥り、すべての種のほぼ90%が絶滅しました。

恐竜を絶滅させた白亜紀末の絶滅は全生物の65%であったことと比べても二畳紀末の事件の大きさが分かります。

白亜紀末の大絶滅はユカタン半島に落下した巨大隕石によるというのが定説ですが、二畳紀末のものはその原因が未だに不明です。

どうもこの時期には大きな宇宙からの隕石飛来もなかったようです。

火山の爆発が非常に多く、二酸化炭素、二酸化硫黄、塩素、フッ素などの火山ガスが大量に空気中に増加したということはあるようですが、それが原因かどうか。

 

原始地球には乏しかった酸素というものを光合成細菌が少なくとも10億年にわたって生命活動として作り続け、このような大量の酸素を含む大気にしてしまったという酸素革命ともいうべきものは、地球を大きく変えてしまいました。

生物が大量に繁栄するきっかけともなったのですが、これも地質学的に証拠が多く岩石に残っていることから分かってきたことのようです。

 

石を眺めるといっても、素人がぼんやりと見ているだけでは何も分かりませんが、こういった地質学者の研究のおかげで今の地球科学があるということを改めて気付かされました。

 

岩石から読み取る地球の自叙伝

岩石から読み取る地球の自叙伝

 

 

「核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ」山本明宏著

核というものに日本人が触れたのはようやく原爆により広島と長崎を破壊されてからのことでした。

その後、様々な動きがあり現在に至っているわけですが、「核」というものに対する日本人の認識というものは一定であったわけではありません。

本書まえがきにあるように、

本書が試みるのは、マスメディアの報道や知識人の言説、世論調査、そしてポピュラー文化を通して、戦後日本における核の認識の変容を辿る作業である。

ということを目標にこの本は書かれています。

 特に、マンガの解析というものが多く表れています。マンガの読者は最近でこそ大人(いい大人)が多いもののかつては青少年がほとんどでした。そこでの核というものの描写というものは、かえって深く日本人の認識というものを示しているのかもしれません。

 

1945年8月の6日、9日、広島と長崎に原爆が投下され瞬時に数万人から数十万人の命が奪われました。この数も正確には確定できないというのが原爆被害があまりにも大きすぎることを示しています。

その後すぐに戦争は降伏することで終了し、米軍をはじめとする進駐軍による占領が始まります。

実は占領下では原爆の被害についての報道は占領軍による検閲で削除されたために、一般の日本人はほとんどそれを知ることはありませんでした。

一方、核エネルギーの平和利用という夢は、ちょうど1949年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞したというニュースもあって広まることになります。

 

子供向けのマンガにも、核エネルギーの詳細を描くわけではないがイメージだけで「アトム」といった題名をつけたものも見られました。(のちの”鉄腕アトム”とは別)

 

ただし、その頃には米ソの核開発競争も熾烈なものとなり、1950年には朝鮮戦争勃発、核爆弾の使用も現実のものとなる可能性が強まりました。

そのような状況下で、もしも核戦争が起きればという危機感を持って小説やマンガを発表する人も出てきます。

 

1951年に講和条約締結し進駐軍の占領が終了します。

これで核に関する2つのことが解禁されます。

それは、「核エネルギー研究開発の解禁」と「原爆報道の解禁」でした。

核の平和利用を目指した研究開発の進め方が議論され、1954年には「原子力三原則」を日本学術会議で議決します。

また、原爆被害者の苦悩を描いた映画や小説なども数多く出るようになります。

被爆者という人たちがその後もほとんど支援もされないままという実態であることも知られてきます。

 

1954年にはさらにビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で第5福竜丸が死の灰を浴びて被爆するという事件が起きます。

被爆者に死者が出るとともに、放射能を帯びたマグロが流通していたという事実も知られ、日本国内でも大きな危機意識が高まります。

これに対応し、原水爆禁止署名運動が大きな広がりを見せます。

 

放射能への恐怖が産み出したものが、その年に公開された「ゴジラ」でした。

ゴジラは水爆により放射能を身体に帯びています。その映画には核兵器廃絶の祈念が込められていました。

 

原水禁運動は広がりを見せたのですが、同じ時期に原子力平和利用という動きも大きく広がっていきます。

「おそろしいもの」を「すばらしいもの」に変えていくべきだという論調は、読売新聞に限らず他のメディアにも見られました。

鉄腕アトム」の出現も、このような核平和利用の一環でした。

このようなマンガはアトム以外にも数多く表れていました。

 

1957年には日本原子力研究所で実験用原子炉での臨界実験成功、原発建設への道を開きます。

1960年代以降には原発立地地域選定に入りますが、そこでは僻地の振興策と補助金を絡めた政策が繰り広げられます。

一方、平和利用といえど核の不安は大きいとする科学者たちも存在し、活動を広げます。ただし、そのような安全性論争は多くの人々の関心は引かず専門家の中の対立と捉えられました。

 

世界では核軍拡競争が激しさを増し相次ぐ核実験と実戦配備が続きます。

もしも核戦争が勃発すれば世界破滅ということがはっきりとしてきました。

一方、放射能被爆による影響では突然変異による超能力獲得といった夢物語も登場してきます。子供用マンガなどにはいくつも表れます。

1960年代にはステレオタイプ化までしてしまいます。

 

1960年代の経済成長によるエネルギー資源調達の必要性に認識は国民に広くひろがり、原発による電力確保ということが肯定的に捉えられます。

1969年に行われた世論調査では「原子力の平和利用をもっと積極的にするべき」が48%を占めると言う状態でした。

それは米軍の原子力空母の寄港ということが問題化してもなお変わらない世論動向にあらわれていました。

 

1970年代には原発建設が多数に、広範囲に進むようになりますが、それとともに原発に対する疑問も広がり始め、反対運動も生まれてきます。

原発で事故が起きているということが明らかにされ、その隠蔽体質も問題とされてきます。

そういったなかで1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生します。

事故から3ヶ月後の世論調査では、原発推進に賛成する人を反対する人が上回りました。

ただし、それでも日本では現存の原発をどうするかという質問には、「やめるべきだ」はわずかに9%、「減らすべきだ」も13%で、ほとんどは「現状維持」という意見でした。

日本ではそのような原発事故は起こらないという安全神話が支配していたことが分かります。

 

その後も、マンガをはじめとするポピュラー文化というところでは、反原発をうたった作品が発表されていたのですが、それもいつの間にか消えてしまうようなブームで終わってしまいました。真剣なものでは無かったようです。

 

そのような雰囲気の中で福島原発事故が起きてしまいました。

その後一時的には反原発運動が盛り上がったものの、経済への悪影響という脅しにはすぐに反応して盛り上がりは消えてしまいます。

 

原発事故(だけではなく大震災のためでもありますが)のあとには「絆」という言葉が非常に多く使われてきました。

しかし、「連帯」と言うことを過剰なまでに唱えなければならないのには、そこまで日本社会の分断が進んでしまっているという状況を示しているからでもあります。

被災地の瓦礫受け入れに住民が反対したり、京都の五山送り火で被災地の松を燃やすと言うことにも文句がついたりと、その事例は数多いものでした。

 

原発の今後も、それに頼る原発立地地域と、それに気が付かないふりをする他地域の間で動き続けるだろうとしています。

 

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)

 

 

 

衆院選挙構図も結果もミエミエ。興味を失ったのでコメントもこれ以上はありません。

希望の党が公約発表、その基本姿勢と中身の無さには今更ながら落胆します。

民間野放しの小さな政府、原発ゼロと言っても積極的に閉じるのではなく成り行き任せ。なんでこんなことまで言うのというユリノミクス。

 

アベノミクス以上の内容の乏しさで、選挙への期待も一気に消え失せました。

 

三極体制などと言ってもほとんど無かったに等しい野党がさらに分裂。埋没しかねない状況です。

かといって自公に投票する気もなくなった無党派層や消極的自民党支持者はいったいどこに投票するのでしょうか。

記録的な投票率の低下も考えられるところです。

 

このような雰囲気ではカリスマ的独裁者の出現が怖いところですが、小池さんがそうなる怖れもまったく失われました。

どうやら、自公政権を皆が軽蔑しながら、その政治に従っていくというこれまでの流れが継続しそうです。

 

北朝鮮の脅威を煽り政権支持率確保という手法もそのままでしょう。

金正恩がアメリカと対抗する核保有国になったという夜郎自大の勘違いで、かえって日本などは北の眼中にない状態になりつつあります。

こうなれば日本などはアメリカの同盟国(配下、あるいはただの使いっ走り)であることの方が危険なわけで、北の脅威だけを考えればアメリカの基地を追い出すことが最良の危険回避になるでしょう。

 

今のままもしも軍事衝突ということになれば、ありうるシナリオは衝突初期であれば米軍戦闘力を叩くということで在日米軍基地の佐世保・横須賀、岩国・三沢・普天間等へのミサイル攻撃でしょうし、北朝鮮本国に相当な攻撃が為され壊滅状態になった場合はせめてアメリカに一矢報いようとしてアメリカ同盟(いや配下・ただの使いっ走り)の日本や韓国に残りのミサイルを発射、ソウルや東京を狙うという程度でしょう。

 

そういった構図であってもみすみす自公政権の延命を許すようなのが日本国民であるというのは、これまでも分かっていたことですが、何とか変わるのではないかと儚い望みを抱いては裏切られということを続けてきました。

しかしもう私も年も年、なかばどうでも良くなったという心理状態です。

またしばらくは休眠。

「なぜ少数派に政治が動かされるのか? 多数決民主主義の幻想」平智之著

著者は様々な職業を経験した後、民主党政権奪取の時に衆議院議員となり政治の運営というものを目にしました。

原発という考え方を発表したものの成らず、その後は政治から離れてしまったそうです。

 

政権内に居た頃に感じたことが、ごく一部の人々の声が政治を動かしている姿でした。

原発という声は非常に多くの人々が上げていても、実際に政治に反映されているのは人口比から言えばごくわずか(0.6%:著者の推定数)の推進派の人たちの意志です。

ただし、これらの推進派の人々は非常に強い政治力を持ち政権を動かす方法を熟知しています。

原発とはいっても組織もなく、方向性もバラバラの人たちはいくら数は多くてもその意見を通すことはできません。

 

こういった構造は原発に限らずすべての政治分野に及んでいます。

保育園を増やせというのが多くの母親の声ですが、ごく少数の保育園経営者などの声が届きやすいのが実情です。

年金受給者はかなり増加しているとは言え、まだ払込をしている若い人たちの方が人口でははるかに多いはずです。しかも、年金受給者といっても十分に貰えているのはその中でも厚生年金を多く貰っている人や公務員出身の共済年金受給者だけです。しかし、これらの受給者には多くの国会議員や地元名士が付いています。若い人たちの声をまとめる実力者はいません。

公共事業も受注できるのは大企業ばかり、しかもその仕事を何層にも絡み合う下請け構造により実際に施工する業者にはわずかな金額しか入りません。

これもそのような下請け業者が多数であっても声を政治に届かせることはできず、大企業の思惑通りに公共事業は進んでいきます。

 

こういった構造は、監督官庁である政府の各省庁がこのような圧力団体の事務局と化しているからということです。

何も分からない議員たちにはこのような事務局がしてくれる説明だけが情報源です。

その説明にしたがって動いていれば「間違いない」というのが政治家の行動です。

これが「官僚支配」というものの実状です。

それに引き換え、多数派すなわちほとんどの庶民たちはこのような事務局というものを私的に作っていたとしてもほとんど力を持ちません。

 

政権内部というものを覗いた著者ならではの意見かと思います。

ただし、ならばどうしようかという点は難しすぎるためか答えは出ていません。

まあ、各自が考えなければいけないのでしょうが。

 

 

ピアノを聞いているうちに突然頭に蘇った風景

先日、いつものコーラスの練習に出かけた時のことですが、練習開始までの間指導者の先生が指慣らしでピアノをポロンポロンと弾いていました。

 

その演奏を目を閉じて聞いている内になぜか東京のある風景が蘇ってしまいました。

そのピアノ曲がその場所に関係あるわけでもないはずですが、その理由は分かりません。

 

そこはよく行った場所ではないようですが、異常に鮮明に周囲の状況まで見えるかのように感じられました。

 

どうも、モノレールのような電車から降りた駅のようです。

改札口周辺には店舗や住宅もまったく無く、すぐ前には広くて交通量の多い車道があります。

そこを渡ると半分地下に入るような公園があり、その先も駅のような感じです。

 

これがどこの風景か、コーラスの練習をしている間も気になっていました。

 

家のコンピュータでグーグルマップ、ストリートビューを見てみたらすぐに分かりました。(すごい)

やはり東京モノレール天王洲アイル駅を降りたところのようです。

 

しかし、そこで疑問です。

ここにはおそらくもう10年以上前に仕事で1回行っただけのはずです。

なぜ、そのような場所の光景を突然思い出してしまったのか。

 

変な夢をよく見て、あとから首をひねることはよくありますが、目覚めている時の心理でこのような不思議な思いというのは珍しいことです。

やはり疲れているのかな。

 

追記:天王洲アイルへ行った経緯、どうもはっきりしないのはモヤモヤするので、散歩しながらよく考えたら思い出しました。

10年以上前と書きましたが正しくは7年前、金沢で仕事をしていた頃に東京に来る用事があり、小松から飛行機で羽田へ、そして取っていたホテルが大井町だったのでモノレールで天王洲アイルまで来て乗り換えて”りんかい線”で大井町へ向かったのでした。

「なぜ天王洲アイルに行ったのか」は解決しましたが、「なぜあのピアノ曲を聞いて天王洲アイルの風景を思い出したか」はまったく分かりません。

名前の流行について、テレビ番組から

ちょうど読書記録でも人名用漢字についての本を読んだところですが、先週見たテレビ番組「日本人のおなまえ」でも関連した問題を扱っていました。

www4.nhk.or.jpこの番組ではこれまでは「名字」に関する話題が多かったのですが、この回では「個人名」について触れていました。

 

引用サイトが消えてしまうかもしれませんので内容も少し書いておきますが、子供の名付けで最近非常に多いのが「大翔」という男の子の名前です。

ただし、この読み方は千差万別、「はると」「たいが」「だいき」など10種以上の読み方があるとか。

 

ここで番組ではその裏にも触れています。

「日本の戸籍には漢字の読み方は書いていない」ということです。

住民票には便宜上書かれていることもあるようですが、基本となる戸籍については読み方はまったく触れられていません。

 

その穴を突いて、「唯一無二の名前」を求めたがる昨今の風潮の中、変な読み方(誰も真似しないから唯一無二)にしてしまうのでしょう。

 

実はこれは国語上の大問題であると私は感じています。

漢字の読みというものには、音読みと訓読みの2種があるということは一般知識でしょうが、音読み・訓読みそれぞれに数種の違った読みがあることも判ると思います。

音読みについては、中国でのその漢字の読み方ですが、中国でも時代により字の読みが相当変わってきていますので、それが反映しています。

たとえば、「行」と言う文字に「コウ」「ギョウ」「アン」といった読みがあるのはその現れです。

 

また、訓読みというものは「読み」とは言うものの実際は「漢字の意味」ということです。

「心」という漢字が日本に入ってきたときには「シン」と読んでいたのでしょうが、それがヤマトコトバの「こころ」と同じ意味であるということが分かると、「心」という文字を「ココロ」と読むようになりました。

一つの漢字に幾つもの意味があれば訓読みも複数あることになります。

 

こういったことを無視し自分勝手におかしな読み方を強制するような人名というものは日本語の体系を破壊しようとしているとも言えるのではないかと思っています。

 

まあ、その対策としては戸籍に戻るんですけど。

変な読み方の名前については「そんな読み方は戸籍にも書いていないだろう」と言って音読みで済ませること。つまり「大翔」クンは「ダイショウ」とだけ読む。

 

ああ、こんなことばかり書いてるから嫌われるんだろうな。

「人名用漢字の戦後史」円満字二郎著

戦後の国語改革の中で、漢字の使用制限と言う面では漢字撤廃を目指す人たちが主導して実施したために当用漢字制定は拙速で不合理なものであったということを説いた本を読んだことがありました。

sohujojo.hatenablog.com

漢字の問題としては、当用漢字以外にも「人名漢字」というものがあり、そこにも強い制限があるということが数々の問題を引き起こしているということはこれまでにも様々なニュースなどで知ってはいましたが、この点について詳細な戦後史を書かれたのが、本書著者の円満字さんです。

なお、円満字さんは出版社で漢和辞典の編集をされているということですが、お名前が正に最適という印象を受けます。

 

1947年、新憲法下でさまざまな問題を変えていこうという中で、戸籍法も改正ということになりました。

それまでは、戸籍に用いる漢字に制限はなくどのような字でも受け付けていたのですが、それを「常用平易な文字を使用しなければならない」という規定を設けようというものです。

しかし、その戸籍法改正案には人名に使える漢字を定めようという条文は含まれず、「文字の範囲は命令でこれを定める」という責任逃れの一文が入っていました。

これが混乱の始まりです。

 

具体的にはこの「命令」として戸籍法施行規則が定められ、そこでは漢字の範囲について「当用漢字表に掲げる漢字」としてしまいました。

しかし、前年に定められた「当用漢字表」を定める際の検討は拙速で不十分なものであり、特に人名・地名等の固有名詞については

固有名詞については、法規上その他に関係するところが大きいので別に考えることとした。

とあり、実は考慮を放棄していたのです。

国語審議会幹事長の書いた文章にも

固有名詞は別に考えることになっているので、見なれた岡、阪、函、伊、藤、彦などははいっていません。

と明記してあります。

 

このように、人名を考慮していないとしている当用漢字表に載っていない漢字は使えないこととしてしまったのです。

 

したがって、戸籍法改正直後から子供の名付けに希望する漢字が使えないという人々の不満は大きく、しばしば裁判沙汰にもなり報道され、さらに国会でも取り上げられることとなります。

不満の特に強い親は戸籍の提出を拒み、子供が無戸籍児となるという事態も発生しました。

 

その結果、1951年には国語審議会で、当用漢字表の外側に人名漢字を追加するという案を決めることとなります。

世論では漢字制限など撤廃しろという意見が多かったのですが、当用漢字は守りたいという強い意思がありこのような折衷案となったのでした。

この態度には、ちょうどこの頃に冷戦激化に伴って「逆コース」と呼ばれる雰囲気が増し、戦後の民主化をないがしろにしようという勢力の台頭が起こり、それに漢字制限も巻き込まれるのではないかという審議会メンバーの危機感もあったようです。

これで人名漢字という人名だけに使うことができるという92字が復活しました。

この中には「弘、彦、昌、智、熊、稔」など驚くほど普通の漢字が含まれており、今の感覚からすれば「この字も使えなかった」ということの方がびっくりです。

 

そしてさらに20年が経過します。

人々の漢字使用の希望はさらに増加し、「梓、杏、沙」などの文字を使用したいという声が強くなります。

国語審議会と法務省の小競り合いがあったものの、1977年に人名用漢字追加表が誕生します。

 

なお、このような論争の問題はあくまでも「どの漢字が使えるか」だけであり、「漢字の読み方」には何の言及もされていません。

この点については行政審議会の席上話題に上ることはあったようで、「出生届に名前の読み方を記載するべきかどうか」という討議がされたようです。

しかし、漢字使用は制限されていてもこれまで「名前の読み方」という点はまったくの野放しのままでした。

これは戸籍事務担当者にとって、「名前の読み方」まで審査の義務が負わされてもそれは不可能だからです。

出生届に名前の読み方の欄が設けられ、それにどんな読み方を書かれても戸籍担当者は受けざるを得ないのは明らかであり、かえって混乱が深まるという怖れがあったようです。

これは、現在の「キラキラネーム」「DQNネーム」にもつながる問題点でしょう。

 

さらに、近年になりコンピュータ化が広がるとそれまでの和文タイプで制限されているという言い訳が効かなくなり、さらに漢字使用を広げるという希望が強まってきます。

しかし、問題は「姓」の方にあり、こちらは戦前から残っている字全てを残さざるを得ず、そこには漢字表にあるかどうかといった問題だけでなく、旧字体、俗字体、また書き損ないのような字体等、非常に多くの問題点がありそうですが、コンピュータ化によって強制的に新字体に統一という方向になってしまったようです。

この辺の問題点については戸籍事務担当者の意見や希望というものも強く影響しているようです。

 

一方、子供の名付けと言うものに対し国民の間には「唯一無二性」という思いが強くあります。

漢字というものは意味が同じようであっても違う文字というものが数多くあり、それを名付けに使うという親の意志は非常に強いものがあります。

これがどうしても漢字制限に向かえない理由なんでしょう。

 

ただし、唯一無二性というものにも落とし穴があり、たとえば最近非常に人名に多く使われる「琉」という漢字は「琉球」以外に使われるところを見た人がどれほどいるでしょうか。

この「琉」という字は意味を失いただ単に「リュウ」という読みの珍しい漢字としてのみ意識されています。

このような文字を他にも名付けに使うという傾向はこれからますます増えていくことでしょう。

それに対し、著者は重い印象を受けているようです。

 

人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

 

 人名用漢字の追加といったことはまだ記憶に新しいことでした。

実家の隣に住んでいた夫婦に女の子が生まれ「沙織」という名を付けたいと行っていたのが「沙」の字がダメで「香織」にしたという話題もありました。

その後、追加ができてから生まれた兄の子供には無事に「梓」と言う字を入れた名前が付けられました。

私の娘婿も「佑」の字が追加されなければ別の名前になっているところでした。

非常に身近な問題であったのだということが分かります。