爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

もしも葉緑体が無かったら、生命の星地球は無かったかも

今ちょうど「森を食べる植物」という本を読んでいまして、(読み終えたら書評を書きますが)そこでは、葉緑体を失った”腐生植物”というものを扱っていました。

森を食べる植物 - 岩波書店

これは、自ら葉緑体光合成を行うという働きを放棄して、森のなかでカビやキノコの菌糸を栄養源として生きていく道を選択した図々しい?植物です。

もはや葉も失っていますので、花が咲いていない時には茎が伸びているだけであり、ほとんど見ても分からないために未だに知られていない新種も数多く存在するかもと言われているそうです。

 

まあ、この腐生植物は周囲に十分な量の栄養源としての菌類などがあったためにそういった方向に進化していったのですが、ここで「もしも光合成を行う葉緑体というものが無かったら」と考えてしまいました。

 

地球の生命の歴史を考えると、最初の有機物は放電などのショックで出来上がってきたのでしょうが、そのうちにDNAなどの遺伝子となる物質ができ、そこから生命と言えるものが発達してきたと考えられます。

生命というものの条件は、自らの遺伝子を再生し生命をつないでいくこと、そして代謝を行ない周囲の物質を取り入れて自分の身体を維持することが挙げられます。

 

ここに、葉緑体による光合成と言うシステムが生まれたことにより、非常に効率的な有機物合成の過程が関与できることになりました。

また、光合成により二酸化炭素を使って有機物を作るのと同時に酸素を大量に生成することになり、地球環境中の酸素量を大幅に増加させ、その後の生命の環境を大きく改変してしまいました。

 

葉緑体は最初はシアノバクテリアの一種であったようですが、その後真核細胞に取り込まれて細胞内の組織となり藻類や植物として進化しました。

 

もしも、「葉緑体が無かったら」

あまり、このような「IF」を考えても意味が無いかもしれませんが、(有機物の生命体としては必然のことかもしれませんし)そうなればもしも生命というものが誕生していても、そのエネルギー取得のシステムは地熱からくる熱水や空気中の放電などだけだったかもしれません。

そうであれば、とても進化などというダイナミックなことはできなかったでしょう。

 

もちろん、酸素に満ちた大気環境というものもできなかったでしょう。

原始地球のままであったということです。

 

有機物から遺伝子物質への展開というものは確かに地球の生命にとって大きな出来事だったのですが、それと同じくらいに葉緑体の誕生というものも偉大な出来事だったのだなと、(理解できている人には常識かもしれませんが)改めて気付かされました。

だからどうなんだと言わないでください。

この年になっても気付くということは新鮮な驚きです。

 

北朝鮮ミサイル発射に対してのJアラートへの違和感

8月29日に北朝鮮が発射し北海道東方の太平洋上に落下したICBMと見られるミサイルに対し、Jアラートと言う警報システムが日本東北部の広い範囲に出されました。

あまりの大騒ぎに辟易するほどですが、その内容の疑問点を近藤邦明さんの「環境問題を考える」(ますます”環境問題”からは離れてしまいますが)で非常にクリアに取り上げられています。

http://www.env01.net/fromadmin/contents/2017/2017_04.html#n1193

 

Jアラートでもミサイルなどの有事関連については、当然ながらミサイル迎撃システムによるミサイル探知が元となり発せられているはずです。

ミサイルがもしも日本国内を狙って発射されたのであれば、発射直後のできるだけ早い時間でその方向と着弾地点を正確に計算しなければ、もちろん迎撃などもできるはずがありません。

 

近藤さんの記事にあるように、もしも「正確にミサイルの方向が瞬時に判定されている」のならば、もちろん日本には落ちないのですから国内に警報を出す必要はありません。

何らかの部品などの落下がある可能性があるとしても、少なくともその軌道の直下の地域だけで良いはずであり、今回のように関東以北のすべての地域に出す必要などは無かったはずです。

 

ならなぜ、広範囲にJアラートが出たのか。

近藤さんが書かれているのが実に的確と感じます。

つまり、「ミサイル防衛システムでは正確な判定ができなかった」(つまり迎撃もできない)からであるか、または「広範囲に出すことで北朝鮮脅威論への国民の意識を向けさせることを狙った」かであろうとしています。

そして、その2つのうちの前者の方、つまり「ミサイル防衛システムは張子の虎」の方が真実らしいとしています。

そうであれば、大変な事実です。

 

こういった雰囲気の中、来年度予算ではさらに数千億にもなろうという、「イージスアショア」なるシステム購入をしようとしています。

私はこちらを狙っているという方がありそうなことだと思いますが。

福島県産米の放射能検査について、FOOCOM.NET松永和紀さんが福島県課長にインタビュー

FOOCOM.NETに載っていた記事では、福島県が県産米の全量全袋放射能検査を見直すということについて、松永和紀さんが福島県の課長にインタビューしていました。

 

www.foocom.net

www.foocom.net

福島県産米の「全量全袋放射能検査」は2012年から始められ今もなお続けられていますが、2015年以降まったく基準値超過は見つかっていません。

そこで、2017年6月に県の担当課長が県議会で検査見直しに着手ということを公表したそうですが、福島県内のローカルニュース以外ではまったく報道されていないそうです。

 

そこで、FOOCOM.NETで松永和紀さんが、その担当課長、福島県水田畑作課長の大波恒昭さんにインタビューした記事が2回に分けて掲載されていました。

 

この検査では最初の頃の数点に基準値超えがあったものの、その後はまったく基準値オーバーどころか検査下限値にも届かないものがほとんどだそうです。

 

原発事故直後の放射線汚染については非常に不安が多かったということで、米についても袋に入れたままの状態で検査できる装置を県内すべてに設置し、その装置数は200台あまりに及ぶそうです。

この装置を使い、県産米はすべて、自家消費の分もふくめて検査するという体制を作り運用してきました。

 

この体制の構築については、関係者の多大な努力も大きかったようです。

まず、検査機器も現場に適用できるような形のものは無かったためにそれを急遽開発し、間に合うようにしたそうです。

ベルトコンベアーで米袋を流しながら検査し、さらに合格したものに合格シールを貼るというところまで自動化しようやく運用可能となりました。

 

さらに、放射性セシウムの米への移行を防ぐということで、カリウム肥料を適正に投与すると言う方策を、農業研究者が見つけたということも大きかったようです。これでこの施肥方法を守っている米には事実上ほとんどセシウム移行はないと言えるようになったそうです。

 

しかし、この検査をこのまま続けていくということは、農家や関係者の手間と努力が大きいだけでなく、費用も相当なものになります。

昨年は検査費用に59億円かかっており、そのうち52億は東電の賠償、7億は国費からの支出なのですが、東電賠償といってもその原資はすでに国費になっているために、実質的にはすべて国から出ていることになります。

 

さらに、この検査機器の耐用年数の限界も迫っており、今でもオーバーホールに年12億かかるものが、2年ほど先には機器の更新も必要となりそうです。

 

全国の消費者の関心も急速に薄れており、放射線検査を実施していることなどほとんど知らないと言う人が多くなってきました。

 

東日本大震災、そして福島原発事故と言うものについての被災者以外の国民の関心はすでに相当薄れています。その中で放射線対応は続けていると言う矛盾は福島県の関係者に大変な苦労を強いているものと思います。

 

検査縮小と言うことには、まだまだ相当な反対意見があるとか。

「エトロフ島 つくられた国境」菊池勇夫著

エトロフ島といえば、ロシアとの間で領土問題の焦点として意識される「北方領土」の国後・択捉・歯舞・色丹の四島の一つとして捉えられることが多いでしょうが、その実像はほとんど知られていないでしょう。

近藤重蔵の「北方探検」、ソ連の侵攻と住民引揚げ、領土返還運動程度のものしかないという状況でしょうか。

 

そこで、エトロフ島や周辺の千島列島の歴史を振り返ってみるというのが本書です。

北海道でも東北部や、さらに千島列島へは日本中央はほとんど関わっていなかったものが、ようやく江戸時代中期以降に交易などで接触するようになりました。

しかし、ちょうどその頃にロシアが進出してくるようになり、数々の事件も起こします。

日本中央の江戸幕府もそれに対抗する必要上、様々な対策を取ることとなります。

そのため、この地についての史料も多く残されるということになり、かえって北海道の他地域と比べても記録が残っていることになりました。

 

著者の意図は、「エトロフ島が固有の領土である」ことを証明することではありません。もともと国境などというものには関係のなかったエトロフを国境の中に取り込んでいく課程を見ることによって、国境とは何か、国家とは何か、国民とは何かということについて考えを深めてもらいたいということです。

 

エトロフ島には江戸時代にはアイヌ人が居たのは確かですが、それ以前には北方のオホーツク文化の人々が住んでいたようです。しかし、中世以降に北海道からアイヌ人が北進してきて、それに吸収・融合されてしまったようです。

18世紀の前半までは、エトロフ島を含む千島列島は「くるみせ」と呼ばれていたのですが、その地域への関心が持たれることはほとんどなかったようです。

ただし、ラッコの毛皮が穫れる場所ということだけは興味があったようで、「ラッコ島」という名称で呼ばれる島もありました。

しかし、これは千島列島全体なのか、その中のウルップ島なのか、説も定まっていないようです。

 

ラッコの毛皮はすでに室町時代には日本にもたらされ、珍重されていたようですが、直接取引をすることはなく、北海道東北部のアイヌたちが取引したものが松前を通して流入していました。

しかし、1669年にその地方でシャクシャインの戦いというアイヌとの争いが起き、ラッコ取引も中断したために直接買い付けようという動きが出てきました。

松前藩が直接交易船を出そうとしたのですが、最初はアッケシがその最東端だったようです。

一方、ロシアもすでに1649年にオホーツク沿岸に町を築きカムチャツカ半島にも徐々に進出してきます。

千島の住人とも交易を始めていたようです。

 

しかし、それもスムーズにいったわけではなく、1771年にはロシア人数十人が殺されるウルップ島事件も起きてしました。

 

18世紀には日本の千島認識も変わっていき、1780年代の林子平の「三国通覧図説」にも蝦夷地全図が納められていますが、その形状はまだまだ実際とはかけ離れていたものでした。

しかし、「蝦夷地は日本の内か外か」というのは幕府も重要視していたようです。

それに対し、松前藩は北海道ばかりか樺太や千島も自藩領だと主張したようですが、それは根拠あっての主張ではありませんでした。

幕府や松前藩も、その時期から蝦夷地東北部や千島樺太の調査ということを繰り返し実施するようになります。

最上徳内近藤重蔵といった人々が活躍するのもこの時期からということです。

 

そして徐々に日本の版図とされていくわけですが、エトロフ島まで治めたあとはその地のラッコ漁を禁止しています。

これは、ラッコの毛皮を欲して南下するロシア勢力を防ぐためだったそうです。

生業をなくした住民たちはその後サケ・マス漁に転換していくことになります。

 

その後も様々な混乱を経て日本の統治が進んでいくこととなります。

しかし、北海道東北部といえど驚くほど最近まで日本の統治が及んでいないということは知りませんでした。

それだけ過酷な環境だったのでしょうか。

 

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)

 

 

「文化の戦略 明日の文化交流に向けて」加藤淳平著

著者は外務省に入省し各国大使館勤務を経て、国際交流基金に勤務したという、この本の内容に沿って仕事をしてきたような方です。

 

世界各地にそれぞれ異なる文化が存在しますが、現代ではそれらが否応なしにふれあい、こすれ合い、場合によってはつぶしあいをする状況です。

文化交流という美名だけではすまないようなこともあるかもしれません。

それを実行していくのはやはり戦略というものが重要ということでしょう。

 

文化の違いというものを端的に示しているのが、「名前のラテン文字表記の場合の、姓と名の順序」というところに出ているのかもしれません。

日本人が名前をラテン文字(ローマ字と書かないところがいかにも)で書く場合に、ほとんどの場合「名・姓」の順序に書いてしまいます。

人の名前を「名・姓」の順に書くというのは欧米の習慣であり、東アジアでは「姓・名」の順番で書きます。中国人や韓国人は欧米に行ってもその順序は変えません。

また、「姓」なんていうものは無い国もあります。

 

日本人の名を「名・姓」の順番で書くということは、現代であればそれほど抵抗はないのかもしれませんが、歴史的には困難な場合が数多く出てきます。

紀貫之は「ツラユキ・キノ」とするのでしょうか。しかしこの「ノ」には何の意味もありません。

大伴坂上郎女などはどうするのでしょう。

紫式部などは、どちらも姓でも名でもないのですが、これを「シキブ・ムラサキ」と表現している人がいたために、「シキブ」が名であるかのように理解してしまった人もいます。

 

このような矛盾点が多いために、著者が国際交流基金に居た時には日本人の姓名は「姓・名」の順で書くこととしたのですが、なかなか理解されなかったそうです。

 

世界の歴史のあちこちで異文化の衝突が起きましたが、近代のアジア・アフリカなどの国々のヨーロッパ各国による植民地化はその中でも非常に大きなものと言えます。

植民地からの財産の収奪ということが起きたのですが、それと同時に欧米からの価値観の押しつけというものも強く表れました。

特に、植民地側の支配階級にその価値観が多く取り入れられたために、現在でも植民地から脱した国がほとんどとはいえ、その支配階級には欧米の価値観に浸かりきった人々が残っています。

こういった植民地主義の後遺症というべきものは今でも大きく影響を及ぼしています。

 

さらに、それがインターネットの普及と経済のグローバル化の進展で拡大していく状況にあります。

このまま行けば世界画一化文化に行き着いてしまうかもしれません。

しかし、文化の一元化というものは世界全体から見れば衰退といえるものです。

異文化と異文化の対話と交流があることが必要なのです。

 

日本の文化交流といえば、次のようなものが実施されています。

政府・文化交流機関の実施するもの、留学生交流、日本語教育と日本研究の振興、学術交流、芸術交流、スポーツ交流、文化協力

 

しかし、中には「悪い交流」と言わざるをえないものもあります。「差別型交流」と呼んでいます。

「良い交流」、「誠実型交流」とは大差がありそうです。

 

これは、日本人の欧米コンプレックスが大きく作用しているようです。

欧米の、特に白人に対しては必要以上に歓待してしまうのに対し、アジアなどからの留学生には非常に冷淡という例が頻発しています。

 

日本人に必要なのは「文化多元主義」であるはずです。

西洋文化至上主義などというものから脱却しなければならないということです。

 

文化の戦略―明日の文化交流に向けて (中公新書)

文化の戦略―明日の文化交流に向けて (中公新書)

 

 

「グレーな本」高城剛著

高城さんという方は全然存じ上げなかったのですが、世界で活躍されるクリエーターということです。

この本は、高城さんが毎週発行されているメールマガジンの中で、読者の質問に答えるというコーナーを再構成したものということです。

これを最初は「白本」と「黒本」という形で電子出版したのですが、それが電子書籍ランキングで上位となったために紙で出版したいということになって、合わせて「グレーな本」ということです。

 

内容は非常に刺激的なものであり、特に現在の日本社会、その中でテレビや出版などのマスコミ業界に対する非常に激しい攻撃を含んでいます。

そのために、最初は出版は無理と言われていたのだそうですが、いくつかをカットすることで出したのだとか。

 

著者はノマドという生き方をしているのだそうです。ノマドとは訳せば遊牧民ということのようですが、世界各国を転々としながら稼いでいくということなのでしょう。

著者に対して質問を出している人たちもそういう生き方に憧れを持っている人が多いようです。

 

「日本式システム」というものを著者は忌み嫌い激しく批判していますが、そのイデオロギーを支えているのが日本のテレビであるということです。

上下関係というものが強い日本社会のしきたりを絶対化し見ている人たちに植え付けようというのがテレビの役割であり、そのマインドコントロールが日本式システムに従う人を作り出しているのだそうです。

テレビは1%の人が99%の人を騙すためにある装置です。

 

ネットでチェックすべきサイトはアメリカCIAのザ・ワールド・ファクトブックというところだそうです。特にアフリカや中南米に行く際には役に立つそうです。

これはありそうな話です。

 

グレーな本

グレーな本

 

どうも毒気が非常に強い本で、私のような小心者には耐えられないように思えました。

 

 

「ナチスドイツの実像から中東問題を読み解く」中川雅普著

著者が言いたかったのは、どうやらナチス・ドイツユダヤ人虐殺などは必要以上に誇張されており、それはイスラエルの宣伝活動によるものだということのようです。

 

とは言っても、ネオナチなどのように「虐殺は無かった」とまでは言うつもりはないようです。ただし、犠牲者人数などは誇張されているということです。

 

しかし、そういった主張が出てくるのは巻末の最後の最後。ほんの数ページのことで、本書の大半はナチスの詳細な歴史と、日本側の駐独大使大島浩の物語です。

おそらく、著者の意図としてはナチスの正確な歴史を知ればイスラエルなどの宣伝の矛盾が明らかになるはずということなんでしょうが、どうでしょう。

 

ナチススターリン毛沢東国家に比べ、戦争犯罪の規模が下回るとされながらも、常に悪の筆頭に挙げられ、研究者によってその目的、犠牲者数にあまりにも差異が見られる。

としているところからも、それが察しられますが。

 

ドイツの情勢の詳細な記述については触れませんが、日本関係ではいくつか興味深い指摘がありました。

日独伊三国同盟を結んだドイツ側の希望は、あくまでもソ連に対し日本がすぐに参戦することであり、それによりソ連の反撃の余力を失わせ一気に勝利した上でアメリカを片付けるということだったようです。

しかし、日本はその期待を無視しかえってアメリカとの戦争を選んでしまいました。

これはヒトラーにとっても非常に失望したことであり、日本の戦争遂行姿勢を見誤ったところだったようです。

 

著者の意図の、イスラエルの世論操作という点では、1982年のレバノン侵攻と数多くの国家テロを取り上げています。

そして、それに対する国際社会からの反発を抑えるためにアメリカのアメリカ・イスラエル広報委員会と実施したのが、「シンドラーのリスト」といったユダヤ人のドイツによる虐殺を扱った数々の映画だということです。

 

ユダヤ人虐殺という歴史を隠すことはできませんが、それを利用している勢力もあるということでしょう。

 

ナチスドイツの実像から中東問題を読み解く

ナチスドイツの実像から中東問題を読み解く