爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「エトロフ島 つくられた国境」菊池勇夫著

エトロフ島といえば、ロシアとの間で領土問題の焦点として意識される「北方領土」の国後・択捉・歯舞・色丹の四島の一つとして捉えられることが多いでしょうが、その実像はほとんど知られていないでしょう。

近藤重蔵の「北方探検」、ソ連の侵攻と住民引揚げ、領土返還運動程度のものしかないという状況でしょうか。

 

そこで、エトロフ島や周辺の千島列島の歴史を振り返ってみるというのが本書です。

北海道でも東北部や、さらに千島列島へは日本中央はほとんど関わっていなかったものが、ようやく江戸時代中期以降に交易などで接触するようになりました。

しかし、ちょうどその頃にロシアが進出してくるようになり、数々の事件も起こします。

日本中央の江戸幕府もそれに対抗する必要上、様々な対策を取ることとなります。

そのため、この地についての史料も多く残されるということになり、かえって北海道の他地域と比べても記録が残っていることになりました。

 

著者の意図は、「エトロフ島が固有の領土である」ことを証明することではありません。もともと国境などというものには関係のなかったエトロフを国境の中に取り込んでいく課程を見ることによって、国境とは何か、国家とは何か、国民とは何かということについて考えを深めてもらいたいということです。

 

エトロフ島には江戸時代にはアイヌ人が居たのは確かですが、それ以前には北方のオホーツク文化の人々が住んでいたようです。しかし、中世以降に北海道からアイヌ人が北進してきて、それに吸収・融合されてしまったようです。

18世紀の前半までは、エトロフ島を含む千島列島は「くるみせ」と呼ばれていたのですが、その地域への関心が持たれることはほとんどなかったようです。

ただし、ラッコの毛皮が穫れる場所ということだけは興味があったようで、「ラッコ島」という名称で呼ばれる島もありました。

しかし、これは千島列島全体なのか、その中のウルップ島なのか、説も定まっていないようです。

 

ラッコの毛皮はすでに室町時代には日本にもたらされ、珍重されていたようですが、直接取引をすることはなく、北海道東北部のアイヌたちが取引したものが松前を通して流入していました。

しかし、1669年にその地方でシャクシャインの戦いというアイヌとの争いが起き、ラッコ取引も中断したために直接買い付けようという動きが出てきました。

松前藩が直接交易船を出そうとしたのですが、最初はアッケシがその最東端だったようです。

一方、ロシアもすでに1649年にオホーツク沿岸に町を築きカムチャツカ半島にも徐々に進出してきます。

千島の住人とも交易を始めていたようです。

 

しかし、それもスムーズにいったわけではなく、1771年にはロシア人数十人が殺されるウルップ島事件も起きてしました。

 

18世紀には日本の千島認識も変わっていき、1780年代の林子平の「三国通覧図説」にも蝦夷地全図が納められていますが、その形状はまだまだ実際とはかけ離れていたものでした。

しかし、「蝦夷地は日本の内か外か」というのは幕府も重要視していたようです。

それに対し、松前藩は北海道ばかりか樺太や千島も自藩領だと主張したようですが、それは根拠あっての主張ではありませんでした。

幕府や松前藩も、その時期から蝦夷地東北部や千島樺太の調査ということを繰り返し実施するようになります。

最上徳内近藤重蔵といった人々が活躍するのもこの時期からということです。

 

そして徐々に日本の版図とされていくわけですが、エトロフ島まで治めたあとはその地のラッコ漁を禁止しています。

これは、ラッコの毛皮を欲して南下するロシア勢力を防ぐためだったそうです。

生業をなくした住民たちはその後サケ・マス漁に転換していくことになります。

 

その後も様々な混乱を経て日本の統治が進んでいくこととなります。

しかし、北海道東北部といえど驚くほど最近まで日本の統治が及んでいないということは知りませんでした。

それだけ過酷な環境だったのでしょうか。

 

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)