人類とエネルギーとの関わり
(1)エネルギーの本質
(2)人類がエネルギーを使うということ
(3)人類のエネルギーの使い方
(4)エネルギーを評価する方法、EPR、EPT
(4-1)EPRの根本的問題点
(4-2)EPRの実施上問題点
(5)エネルギーをめぐる問題
(5-1)化石燃料の枯渇
(5-2)二酸化炭素
(6)結局、エネルギーに依存した現代文明は変わらなければならない
(4-2)EPRの実施上問題点
このようにエネルギーの評価としては問題のあるEPRですが、現状では広く使われていますので、根本的な問題点は一応棚上げとし、細かな点についてあげてみます。
EPRは一応エネルギーの評価として一定の同意を得られていますので、様々な研究発表がされていますが、その算出方法にはやはり疑いのあるものが散見されます。
以前は、「太陽光パネルのEPTは2年」などと言う主張も見られたものですが、さすがに最近はこれほどひどい算定結果は出されていないようです。
(EPT Energy Payback Time すなわち、製造に使われたエネルギーを2年間の運転で得られるというもの)
EPRの産出には、その装置のすべてにかかるエネルギーを入力エネルギーとして算定しなければならない、すなわちライフサイクルというものを考慮するということは大方の賛同を得られているようです。
これは、その装置の製造にあたり、原料の採掘、輸送、精製、部品の製造エネルギー、部品の輸送、本体の製造エネルギー、組み立て、設置、本体以外の構成部品についてもすべての関与エネルギー、運転に関わるエネルギー、保守点検エネルギー、廃棄、までその製品の製造にかかわるものから運転、保守修理、そして廃棄に至るまでのすべてにかかるエネルギーを算定しなければならないというものです。
これがきちんとできていなかったということは、原発を巡り廃炉処理に多額の費用(そしてエネルギー)がかかることが今になって分かり、経済的に破綻(エネルギー的にも破綻)しかねないということがようやく理解されてきたということでも分かります。
しかし、このような数値をすべてあげていくというのは普通の調査ではあまりにも労力がかかり過ぎます。
そのため、通例ではある程度簡略化した数値算出という方法が決められているようです。
これにはウィキペディアの当該項目の記述に次のように記されています。
積み上げ方式
分析対象を構成要素ごと(発電機の構成部品、土木工事など)に分類し、それぞれの要素の形成に必要なエネルギーを積算する方式。計算の労力が大きく、また検討対象の範囲の決め方に計算結果が影響を受ける。そのかわり、特定の技術や個々のサンプルに依存する分析に向く。発電設備のエネルギー収支分析には通常こちらが用いられる。
産業連関分析
産業連関表を利用して分析を行う。産業連関表にある各産業について、それぞれの産業から生産される財やサービスの単位金額あたりに必要な一次エネルギー量(エネルギー濃度)を算出するものである。これは連関表に既に載っているデータを利用できるため、必要な労力は比較的少ない。その代わり連関表に載っている商品の分類は限られるため、それ以上に詳細な分析はできない。また、同一部門に属する商品同士の差異を比較するには向かない。
やはり、実際の数値計算にあたっては正確に行うというのはあまりにも労力がかかるために、簡易的に算出するようになっているということです。
その簡易法が正確であればよいのですが、それに問題があればそれを使ったすべての計算値の妥当性が問題となります。
おそらく、穴だらけの算定でしょうからそれを使った計算の結果にも大きな穴が開いているということでしょう。
その計算根拠というものを検討したことはありませんが、想像するところでは特に抜けているのが廃棄関係に必要なエネルギー、保守点検、製造に必要な資源の採掘や輸送に関わる部分ではないかと思います。
(5)エネルギーをめぐる問題
このようにいろいろと問題を抱えたエネルギーですが、特に大きなものを列記しておきます。
これまでも私がブログ上で主張していますので、それと重複していると思います。
(5-1)化石燃料の枯渇
化石燃料は大方の同意が得られていることとしては、古代の生物が作り出した炭化水素(石油)、炭素(石炭)が地中に埋もれて変化し燃料として使いやすい形になってきたというものです。
非常に長い時間の間に作られた大量の燃料資源ですが、それでもその量には限りがあります。
それをとんでもない速度で使っているのが現代のエネルギー依存文明です。
それをアメリカの石油資源の動向から考察し論破したのがハバードの「オイルピーク説」でした。
(1956、M.K.ハバード)
アメリカの石油産出はハバードの指摘通りにピークを迎えた後に減少していきました。
世界の石油、そしてそれ以外の化石燃料もいずれはこのピーク説の通りに減少していくものと考えられます。
石油資源といっても良質なものから低品質のものまであります。
かつての、油田を掘り当てただけで噴出してくる(ということは産出エネルギーがほとんどかからない)油田から出る、しかも非常に良質な成分からなる石油は最高の方で、現在の「シェールオイル」と言われるような、高圧蒸気や溶剤注入でようやく出てくるようなものは最低品質とも言えるものです。
人間は最高品質のものから最初に使うようになっています。
最高品質のものが無くなってきて初めて低い品質のものを使い始めます。
これが「市場原理」です。
シェールオイルなどを使い始めたということは、すでに「オイルピーク」を過ぎて供給源の減少が始まっているということを表しています。
とても「まだ石油資源は十分ある」などと言うことを示しているものではありません。
石油資源の総量がどの程度かということは、諸説がありますが、良質な石油は開発以前には2兆バーレルあったと言われています。
そのうち、すでに1兆バーレルを使ってしまったので、ピークが過ぎたと言われるわけです。
しかし、確かにまだ半分残ってはいます。
それをめぐって、まだ多くの波乱が起きるのは確かですし、一時的には需給関係から価格暴落になることもあるでしょう。
しかし、徐々に減っていくのも確かです。
(5-2)二酸化炭素
古代の地球の大気は今よりはるかに高い二酸化炭素濃度であり、その温室効果から気温も高かったと言われています。
その二酸化炭素を、様々な生物活動などで固定化し地中深くにうずめてしまいました。
それが化石燃料であり、それを使って燃焼させてしまえばせっかく地中に埋めた炭素が二酸化炭素と化して大気中に拡散しその濃度を上げてしまい、かつてのような高濃度二酸化炭素の大気となり、温室効果で温度が上昇するというのが「二酸化炭素濃度上昇による温暖化」説です。
原理的にはその可能性を否定することはできません。
しかし、かつて大気中にあった二酸化炭素がすべて化石燃料となって地中にうずもれたというのは正確ではありません。
有機化学的に炭化水素となって地中に埋もれた二酸化炭素以外にも、無機化学的に石灰などの鉱物となったものが非常に多いのです。
5-3)あまりにも低効率なものの氾濫
このようにエネルギーの形態を変えて人間が使いやすいものにするというのが、エネルギー産業の本体と言うべきものです。
その大きなものは、石油産業と言われる石油採掘、輸送、原油精製、製品配送・販売といったものです。
さらに、電力業と言われる発電・送電といった産業も現代社会では大きな存在となっています。
ここに新興勢力とも言える、「太陽光発電」「風力発電」といったものも続々と顔を出してきました。
しかし、それらは経済的に成立しておらず、政治的な圧力で電気料金から金をくすねるような真似をしなければならないのはよく知られていることです。
石油などの化石燃料を使わない(まったく使っていないはずはありません、製造には間違いなく化石燃料のエネルギーをつかっているはずです)というだけで、「将来のエネルギー」となるかのような幻想を振りまき、その発展が未来につながるという夢だけを見させています。
そのどこに問題があるか。
もちろん、前述のEPRが非常に低いことにあることは確かです。
公式にはある程度高いEPRであるかのように言われていますが、そこのカラクリはきちんとした計算を避けているからであることは間違いありません。
業界すべてがその詐術で納得していれば、それに異議を唱える人は業界内にはいません。
そして問題なのはエネルギー問題を高い位置から議論できる人が誰もいないことです。
電力業界の人々はそういった「新エネルギー」に関して批判はしません。
もちろんどこに問題があるのかは彼らはよく知っているはずです。
そして「太陽光発電業界」「有力発電業界」の人々もそれぞれを批判することはありません。
お互いの弱点を追求していけばどちらも共倒れになることはわかっています。
このように、すべてが馴れ合いの中で成り立っているのがエネルギー業界です。
(6)結局、エネルギーに依存した現代文明は変わらなければならない
このようにエネルギーをめぐる状況は厳しいものであるということが分かっても、「それでも何とかしてエネルギーを供給しろ」というのが現代の人々です。
東日本大震災の時に原発が止まって電力供給が不安視された時も、どうしても供給しろ、それが政府の役割だと言わんばかりの態度で要求していました。
そんな難しい話はいくら政府でも対応できるはずはありません。
この現代文明はあくまでも「石油などの化石燃料エネルギーに依存した文明」であることをしっかりと認識しなければなりません。
そして、その供給に陰りが見えたら文明も衰退するしかないのです。
しかし、石炭を使い始める前には人類文明は無かったでしょうか。
今とはかなり違う形ですが(そしてそれを”遅れている”としか考えられない人が多いのですが)かなり高度の文明が存在していました。
それを思えば、現在のようなエネルギー浪費しまくりの形でなくても文明は存在できると考えるべきでしょう。
もちろん、それに対応させるのは非常に厳しい痛みを伴うものです。
多くの人々が仕事を変えざるを得ず、食べる物、住む家、着るものすべてが違うものとなってしまいます。
それどころか、今と同じ規模の人口が維持できるかも分かりません。
しかし、いずれは減少し無くなっていく化石燃料の将来を考えるとそうせざるを得ない。
そして、このまま化石燃料が全く無くなるまで使い続ければその最後は破局的終末となります。
英知ある人間であるなら早くからその対応を始めるべきでしょう。
経済成長ばかりが正義かのような幻想から早く脱却し、1万年、10万年と人類文明が続けられるような道を考えるべきでしょう。
(おわり)