著者は環境考古学が専門ということで、さらに元々は地中海文明を研究対象としていたのだそうですが、成り行きで中国の長江流域の古代文明の遺跡発掘に携わることとなり、その成果からこの長江文明というものが大きな意味を持つことに確信を持ったようです。
これまでの古代文明観といえば、4大文明と言われるエジプト・メソポタミア・インダス・黄河というもので、いずれも大河川流域に成立し小麦栽培の畑作による農業、都市の形成、青銅器、文字の使用といった共通点を持つものとして認識されていました。
しかし、中国でも南方の長江流域に見られる遺跡はどうやら稲作を行っていたようです。しかもどうも黄河文明に先行していたと見られます。
都市遺跡と言える規模のものが発掘されていますが、文字の使用は証拠が得られません。
これまでの古代文明の認識はあくまでもそれまでに知られていた4つの文明がたまたま同じような特徴を持っていたために何かそれがなければ文明とは見なせないかのような観念を作ってしまいましたが、それはどうやら誤りで様々な形の文明があったとしなければならないようです。
古代文明が起こった地域はどこも乾燥地帯と湿潤地帯の境にあります。
乾燥地帯の草原には遊牧をする人たちが暮らし、湿潤地帯の大河流域には畑作農業をする人たちが住んでいました。
しかし、5700年前に気候が寒冷化したことが環境考古学の成果から分かっています。
そのために、北緯35度を境にその南では湿潤化が進む一方、その北の乾燥地帯ではさらに乾燥が強まりました。
その結果、家畜の草を求めて遊牧民が南下し農耕地帯に侵入したのが古代文明の発祥につながったということです。
長江流域では、それ以前にすでに米を作る農業が始まっていました。
麦作より集団的で組織的な農業が行われていたと見られますが、それだけでは文明化したとは言えなかったところです。
しかし、全世界的に起きた気候変動は長江流域にも影響を及ぼしました。
ただし、こちらでは6300年前と他の地域より600年早い可能性があります。これはこの地域の気候変動が他よりも早く起きたということによります。
つまり、他の文明より長江文明は早く起こったということにもなるようです。
長江文明では都市の遺構は残るもののそこには目立った金属器はありませんでした。
そのために、文明化していなかったと評されれることにもなったのですが、実はそれ以上に高い技術によって加工された玉器という「玉(ギョク)」を使った道具や装飾品が出土しています。
この文明を創ったのはどのような人々か。それは現在の中国西南部の山岳部に住む少数民族の苗族であろうとされています。
ただし、長江中流域の遺跡から現在苗族が住む雲南省などははるかに離れています。これは、他の文明と同様に北方からの遊牧民の流入によるものと見られます。
文明を開いていた人々すべてが追われたわけではないのでしょうが、多くの人々が僻地に逃れました。
その一部が現在の苗族、そして東方の海に逃れた人々もいました。
東方に逃れた人々は海辺から朝鮮、台湾、そして日本にも達していたかもしれません。
縄文文化が苗族などの風習と似たところがあるのはそのせいかもしれません。
長江文明は「美と慈悲の文明」であると巻末に書かれています。
他の4大文明はどれも戦いで他を圧するものでした。
森が産んだこの文明はこの先の人類を救うものかもしれません。
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