著者の小川さんは旧電電公社に入社、研究職を勤めその後慶応大学の環境情報学部に移られたそうです。
言わば、電話を通したコミュニケーションの専門家ということでしょうか。
この本は2011年3月の発行ですので、まだスマホはそこまで普及はしておらず、LINEも取り上げられていません。
しかし、当時の装置・状況でもやっていることは今とほとんど変わらないのでしょう。
それにしても環境はどんどんと変わっていくものです。
著者は大学に移った後は若い学生との交流も深まったのですが、そこで聞いた言葉で「リア充」というのが聞き慣れないものだったそうです。
その意味は「リアル(現実)の生活が充実していること」つまり彼氏彼女と実際に恋愛をしていたり、友達と顔を合わせて話したりという生活をすることだそうです。
その後、調べていくと学生の中で自分は「リア充」だと思っている人が70%に上るということです。しかし、その一方で「いちばん好きな場所は自分の部屋」という人も半分以上居る。
多くの人とつながっているようだが、一人でいるのが好きというのが彼らの現在なのでしょう。
本書はさすがに元専門家というだけあって、通信の歴史について詳細に解説された第1部がありますが、まあこれは本題とはあまり関係がないようなので触れません。
第2部、人と人とのつながりを心情という面から見ていく。ただし、そこにはプラスもマイナスも存在するというところが本書の最重要ポイントでしょう。
ケータイとメールの劇的な発展で、場所の自由、時間の自由、行動の自由、参加離脱の自由というものを手にしました。
これは、以前の家庭に1台の固定電話では得られなかったものでした。
メールでは相手の顔や声を意識しないという面も表れています。これは人と人との地位の平等化という働きももたらしました。
NTTでは以前からずっとテレビ電話のシステムの開発に力を入れてきましたが、これはどうしても相手の顔を意識せざるを得ず、さらに後ろに映る部屋の状況も顕になるという点が問題となり、結局は実用化にはほど遠いものでした。
さらにネットを使ってコミュニケーションを図るということが普及していき、仲間探しというものをできるようになります。
匿名でありながら非常に親密な関係という、これまでは無かった状態が生まれてきました。
見ず知らずの「親密な他者」と呼ばれる相手ですが、その価値観は非常に自分と近い人を探すことができます。
これまでの友人・知人といった範囲ではなかなか価値観までは掘り下げて考えることはできませんでした。この関係性はネットならではのものです。
しかし、そのマイナス面というものも大きく、若者たちの行動を見ていると「みんなぼっち」というおかしなものになっています。
これは実際に顔を合わせて集まっていてもそれぞれ勝手なことをしており、結局はひとりぼっちだという状態です。
著者の研究室の学生たちの合宿の場面が紹介されていますが、皆で記念写真を撮るにも皆それぞれのカメラで同時に撮っています。一つの写真を焼き増し(すでに死語)して配るということをする人がいなくなってしまっているからだそうです。
さらにメール依存、ネット依存と言われる人々もかなりの割合に増加しています。
また、悪意を持って入り込み犯罪につながる場合も増えています。
当時はmixiが最盛期だったのですが、「mixi疲れ」という状況に陥る人が多数出てきました。
mixiには様々な機能がありましたが、それらを適切に使わなければいけないという脅迫観念からそれに振り回され、疲れ切ってしまうということになっていたようです。
最終章はつながりの未来というテーマで書かれていますが、ここは残念ながらあまり明確ではない印象です。
さすがにこの激変する通信とつながりの環境がどうなるかは専門家でも予測が難しいのでしょう。
未だにスマホを持たずに暮らしている私ですが、パソコンベースでのネット参加は充分に実施しています。
この先、どのようになっていくのか、老後のわずかな時間ですがその変化はかなりの大きさになるものと予測できます。見るのが怖いような気もする将来でしょう。
つながり進化論―ネット世代はなぜリア充を求めるのか (中公新書)
- 作者: 小川克彦
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/03
- メディア: 単行本
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