爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「武田信玄 伝説的英雄像からの脱却」笹本正治著

山梨県出身歴史学者の笹本さんですが、信玄の実像に迫りたいという研究者のようで、通常の英雄観、または侵略者観といったものとは違うような資料に準拠した信玄像を目指しておられるようです。

武田信玄というと様々なイメージが持たれており、風林火山、人は石垣人は城、また棒道や信玄堤といった大規模な土木工事、父親を追放し嫡男を切腹させた等々、挿話には事欠きません。
しかし、実際に信玄についての研究を進めるとそれらが実際には信玄とは直接関係ないものであったり、大きくゆがめられて伝えられたものであることが分かるようです。
私自身の信玄観といえば、父祖が長野県土着であったということから甲斐から侵攻し信濃一円を攻め取った侵略者といったイメージが強かったのですが、どうもそれも一面的すぎるものであったのかもしれません。

まず、良く知られている高野山に収められている信玄像と伝えられてきた画像ででっぷりとして堂々とし、眼光鋭い風貌が思い浮かびますが、この画像は実は信玄像ではないという説が出され、どうやらそちらが本当のようです。
これは長谷川信春(等伯)の手になるものというものですが、能登出身の信春はおそらく武田家とはまったく関係が無く、この絵も能登畠山氏のだれかではないかというのが新説だということです。

信玄は武田信虎の嫡子として生まれ、信虎の甲斐の平定の後家督を継ぐのですが、直後に父親が駿河の今川に出かけた隙をついて追放してしまいます。そのために冷酷非道というイメージもついてくるのですが、これも本人が主導したというよりは信虎の好戦的な性格に嫌気がさした甲斐の国人たちが企み、信玄(晴信)は担がれただけのようです。しかし、結局晴信も戦いに明け暮れることになり、国人たちも戦争に駆り立てられることになりました。
家督相続後に信玄が最初に侵略を始めたのが信濃の諏訪ですが、その当時の諏訪は諏訪氏が一応統一を果たしたと言ってもその範囲は狭いもので諏訪湖周辺のみだったようです。すぐ近くの高遠にも高遠氏が割拠し、甲斐一国の統一をなしていた武田氏とははるかに状況が遅れていたようです。そのため、各個撃破で次々と勢力下に収めていきました。
信濃の武士がすぐに信玄に降伏したのは、信濃の領主の地域支配が徹底していなかったためのようです。軍役の徹底もされず、信濃の領主が合戦に武士を招集しても実際に来てみるまでは何人動員できるかということが分かっていなかったとか。しかも離脱・裏切りが相次いだということで、武田氏信濃侵攻に対し全城挙げての徹底抗戦で全滅したという戦いがほとんどなかったということです。しかし、それも武田の支配下におかれることでそれまでとは全く異なる完全支配に置かれることになってしまいます。それも甲斐の国人よりかなり厳しい条件に置かれてしまいました。

上杉謙信との川中島の戦いは有名ですが、これも実際の戦いははっきりと勝敗が決したということはなく、どちらもが勝った勝ったと言い張ったものの、戦後の功労者に対する恩賞が上杉ではまったくだされず、武田では土地の給付があったようなので、やはり武田が有利だったという程度のものでした。
川中島をめぐる戦いの中で有名な挿話に「棒道」というものがあり、信濃の決戦場に向かうのに直行できるように作られた軍事道路だという伝説があるそうです。しかし、その根拠は希薄で証拠となるという文書も偽作の疑いが強く、その他の資料もほとんど存在しないため、道自体は存在していたとしても信玄が戦のために作らせたというのは単なる伝説のようです。

領国の統治という点では、有名な「人は石垣、人は城」という言葉が示すように、信玄は防御のための城などは作らせず家臣の統合に優れていたという伝説となっていますが、これも後代の甲陽軍鑑にあるばかりで実態は怪しいものです。
信玄は甲府駅北側にある武田神社となっている場所に躑躅が崎館と呼ばれる館を建てて住んでいたとされていて、城ではなかったという根拠になっているのですが、この館というものは実態は当時としては十分に防御能力を備えたもので決して小さいものではなかったようです。実際に館には石垣も積まれており、「人は石垣」などとは言うはずもなかったようです。

信玄の軍資金として金山からの金産出が挙げられることも多いのですが、金山から金産出ということは間違いがないもののその時代はどうやら若干のずれがあり、信玄の統治時代とは完全には重ならないようです。これも信玄伝説の補強とされただけのようです。
また信玄堤と言われる水防工事もその時代に実施されたことはあっても、すべてが信玄の指示による工事だったわけではなく、どの領主も力を入れていたことのようです。特に甲斐では広範囲にわたる水防が必要になったのは事実であり、信玄の指示があったことも違いはないようですが、特に優れた政策がとられたというのは伝説の一つでしょう。

あとがきに著者の言うように、あまりにも江戸時代に書かれた甲陽軍鑑の影響力が強く、一般の信玄像はそれに強く左右されています。この本も完全に甲陽軍鑑から自由にはなれなかったと語られています。
できるだけ、他の資料から補強することが必要なのでしょうが、すでに400年におよぶフィルターがかかっているとすればそれは難しい作業なのでしょう。