爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「”常識”の日本史」井沢元彦著

「逆説」の日本史というシリーズを出版されている井沢さんですが、常識的な日本史というものは何かというと歴史学者がスタンダードだと認めたものとしています。

しかし、歴史学者の常識は一般人が普通に考えるものと相当違うという主張です。

 

歴史学者はたいていの場合文書として残っている史料をもとに歴史事実を組み立てていきます。しかし、そのような史料と言うものに囚われすぎるとおかしな事を主張することにもなり兼ねないと強調しています。

 

古代の日本の歴史を描いた文書というと古事記日本書紀ですが、井沢さんは「企業の創業者が身内に書かせた社史を頭から信用しますか」と問いかけて、その内容について疑問を呈しています。

実は日本書紀というのは壬申の乱で勝者となり後に天武天皇となった大海人皇子が息子の舎人親王に書かせたというもので、そこでは壬申の乱で破った天智天皇の皇子の大友皇子は良く書かれているはずがないだろうということです。

こういった見方が普通だというのですが、一方歴史学者たちは日本書紀と言う史料に書かれていることは事実だという姿勢が基本だということです。いかに推論として可能であっても史料がなければ信じないというのが学者の弱点にもなっているというものです。

 

邪馬台国を「ヤマタイ」と読むのも歴史学界特有の師弟関係から来ており、先輩たちが「ヤマタイ」と呼んでいたためにその他の読み方を主張することもできないのが学者たちと言っています。実際は古代の漢字の読み方というものを調べれば、「台」は「ド」と読むのが実際に近く、それなら「邪馬台国」は「ヤマド国」になるはずです。

また、「好古都国」というのが邪馬台国周辺にありますが、これも古代音では「ホカタ」と読むそうで、それなら現在の博多と連続性があるということです。

 

奈良の大仏の建立も通常は「国家護持」のために作られたというのが常識的な見方ですが、これも良く考えればおかしな話です。なぜその後すぐに「捨てられた」かということの答えがありません。

これも著者に言わせれば「怨霊からの守護」のために作られたからだということです。聖武天皇の皇后に藤原氏出身の光明皇后を立てるということがされましたが、皇族以外の皇后は初めてのことであり、それにあたっては長屋王を始めとする皇族の反発も強いものでした。

そのために藤原氏側は先手を取り長屋王を殺害したのがいわゆる「長屋王の変」ですが、その後藤原四兄弟が相次いで疫病で死亡するという事態が起きます。これを長屋王の怨霊による祟りと捉え、それから逃れるためにあのような壮麗な大仏を作ったのだということです。

そのかいもなく、聖武天皇には男子が産まれず血統は途絶えてしまい、天智系の光仁天皇に皇統は戻ってしまいました。その息子の桓武により平安遷都がなされ、あっさりと大仏は捨てられたというものです。

 

その後も怨霊を避けるための方策があれこれと実施されましたが、こういった事実はあまり文書にして残すというものではないために、実際の経緯と言うものが伏せられているようです。したがって、文書だけを信じた歴史観では大きな欠落ができてしまい、それが現在の主流派歴史学者の大きな弱点になっています。

 

その後も様々な時代の記録にこういった事例が頻発しています。歴史史料だけを基に組み立てた歴史観はどうしてもこういった弱点を抱えています。それが著者の主張でした。