爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「裁判員拒否のすすめ」伊佐千尋、生田暉雄編著

冤罪に関する著作で知られる作家の伊佐さんと弁護士の生田さん等が裁判員裁判について書かれたものです。

裁判員裁判に関して最近の報道では、被害者の残酷な証拠写真で心身に障害を受けたという裁判員経験者の提訴があったとか、裁判員の量刑が求刑を上回るものが多いので高裁での二審で軽くするという動きがあるとかいうもので、始まった頃のような報道ではなくなってきたようです。定着してきたということかも知れませんが、裁判員裁判というものは始まった頃から何か違和感があるものでした。
これらの違和感というものがこの本でかなり解消できたかも知れません。

伊佐さんは沖縄がまだアメリカの施政下にある当時、裁判の陪審員として召喚された経験があり、その後その体験を書いて作家となったという経緯から冤罪事件や陪審裁判というものについて様々な意見を持っている方です。
それによると、同じ市民参加と称しながら陪審員裁判と現在の日本の裁判員裁判は雲泥の差があり、形は似ていながらその裏で目指すところは全く異なるということです。
陪審員裁判では有罪か無罪かという点を陪審員のみの評決で決定し、プロの裁判官は関与できません。また有罪と決まってからの量刑は裁判官のみが判定します。しかし、日本の裁判員裁判では有罪無罪の評決も裁判官と裁判員がすべて関わる多数決で行われ、その場では裁判官の誘導が否定できないということです。
また、陪審員裁判では自白調書というものの証拠採用を認めず法廷での証言のみを検討するということになっているのですが、日本では以前から自白調書の証拠価値のみに頼る裁判というものが横行しており、それが数多くの冤罪事件の温床となっているにもかかわらず、その点についての反省は一切無くそのままの形で裁判員裁判へと移ってきているため、裁判員が冤罪の加害者となる事態の可能性が非常に高くなってきているということです。
さらに公判前の整理手続きと称し裁判官・検事と弁護士だけで密室でお膳立てを整えるということで、そのような危険性が高まるということです。

これらの陪審制とは似ても似つかぬ裁判員裁判を強行するという目的は、裁判を通して国家権力というものを下々国民に骨身にしみこませることにあるというのが著者たちの意見です。

なお、裁判員に選ばれるとほとんどの場合断ることがむずかしいというのもこのような国家の姿勢の現れということですが、どんなことがあっても死刑廃止と言っていると解任してくれるようです。

この本でいろいろと分からなかったことが腑に落ちたような気がします。