爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

国連が先頭にたって「石炭悪者化」非常に違和感がある。

COP25では日本を名指ししてまで「石炭悪者化」が主張され続け、その後も国連自らが脱石炭を声高に叫び続けています。

 

化石燃料には、石炭、石油、天然ガスといったものがありますが、石炭は炭素含有量が高いために燃やした時に二酸化炭素を多めに作り出すというだけの話です。

二酸化炭素温暖化説」という単なる仮説にどの程度の重きをおくかの問題ですが、それを金科玉条のように信じ込んでいる人々には石炭火力発電などは悪魔の施設に見えるのでしょうか。

 

石炭使用を攻撃するサイトには次のようなものがありました。

sekitan.jpこの主張をそっくりそのまましているのが国連と言ったところでしょうか。

 

しかし、「なぜダメなのか」という点は「二酸化炭素を多く排出する」以外のことは言っていないようです。

 

日本政府の公式見解に近いものは次のものでしょう。

www.jcoal.or.jpここでは、現在の世界の発電の4割が石炭火力であること、そして石炭は石油のように採掘場所が限定されておらず各地で安定供給することが可能なことなどが示されています。

 

石炭もいずれは減少していく資源ですが、石油よりはまだ長く持ちそうだという予測があります。

本当に世界の安定を崩してしまうのは石油の供給減少であり、まず自動車の使用を前提としたかのような現代社会の構造を速やかに変更することが必要なのですが、二酸化炭素排出という点だけを捉えて石炭火力発電の廃止などを叫ぶのは、何らかの裏の意図を考えざるを得ません。

 

石炭火力発電を悪魔の手先のように攻撃する風潮は、極めて危険なものでしょう。

もしもそれを為したければ、その前にエネルギー浪費の社会構造自体を変える行動を取るべきです。

まあ、飛行機に乗らずにヨットで大西洋横断ということを皆がやるようになれば、そうなるのかも。

ただし、あのお嬢さんは国内でも自動車は決して使わずに自転車に乗っているのでしょうか。

「子どもの脳と仮想世界」戸塚滝登著

著者の戸塚さんは小学校で教諭として教育に携わるかたわら、極めて早い時期からパソコンを教育に取り入れるということを行ってきました。

また、脳科学の最新の研究論文のチェックも怠りなく、幅広い知識をお持ちのようです。

 

世の中はあっという間にネット化が進み、大人だけでなく子どもの中にもその生活の隅々にまでネットが入り込んでいます。

ネット自体が「仮想世界」のようなものですが、中でもネット内のゲームは子どもの心を強く捉えていますが、これなどまさに「仮想世界」の中で遊んでいるようなものです。

遊びは遊び、実生活は別にあるということがきちんと意識されて実践されていればまだ大丈夫なのかもしれませんが、どうなのでしょう。

著者の戸塚さんの長年の小学生教育の中での見聞、そして脳科学の最新の成果を見ていくと、どうやら仮想世界と子どもの脳の発達というのは思ったよりはるかに大きな関係があり、それは恐ろしい未来を予測させるものです。

 

「ちびデジタル子ちゃん」とか「グーグルちゃん」などと表現していますが、最近の小学校の教室では、ネットに浸かりきった子どもが増加し、彼らがネットで得た知識が子どもの世界をかき乱しています。

ネット知識というものが、実体験で掴むべき自然界の発見を奪ってしまいます。

子どもが初めて見て驚き、自らの血肉とすべきものを「そんな事知ってるもんね」という子どもたちが崩していきます。

先生たちは、どうにかして彼らを実体験に導こうとしますが、ネットで探した方が簡単だと思い込んだグーグルちゃんたちは、一生自分の脳で考えるということをしないままになるかもしれません。

 

ただし、教師の間にもそのような「実体験重視」の保守派先生はそろそろ年齢が退職に近づいていき、ネット活用の方が容易いと言う「進歩派先生」が増えてきています。

 

2004年に長崎県佐世保市で起きた、6年生女児が同級生を殺害するという衝撃的な事件が起きました。

これにもネットが関わっていました。

加害女児は自分のホームページが荒らされ、中傷メールが仲間たちに回覧されたのが被害者のせいと思いこんで犯行に及びました。

1999年、アメリカのコロラド州コロンパイン高校で起きた15名が殺害された事件もネットオークションで入手した銃を持ち、ネット上の爆弾製造サイトを見ながら作った爆弾を持った少年たちが起こしました。

他にも「ネットいじめ」が引き起こした自殺、報復殺害事件等、激しいものが起きています。

実生活で肉体的な暴力もまじえたイジメ事件も多発していますが、ネットいじめはそれよりも過激に走りやすいようです。

これには、ネット上での「仮想人格」が実際の人格よりも極端になりやすいことが影響します。

 

心理学や脳科学の研究で、人が死ぬかもしれないという状況で判断させるという実験が(もちろん仮想の状況でですが)行われてきました。

「暴走トロッコ問題」などがそれですが、これらの研究の成果として得られたのが「モラル判断を下すのは前頭葉腹内側部皮質であり、合理的な思考をする前頭前野背側部皮質とは別の場所であること、そしてそれは人類の進化の中で先に発達したのではないかと見られているようです。

さらに、前頭葉腹内側部皮質は子どもの時代にはきちんと機能せず、発達するのが遅れてようやく思春期が来る頃にやっとうまく機能するようになるということです。

つまり、思春期以前の子どもの頃に「ゲーム感覚」で重大なモラル違反のような体験をすることは、大人がそれを実行するのとは意味が異なり、実体の心理にも大きな影響を及ぼしかねないということです。

 

約半世紀前、アメリカの心理学者ミルグラムが「バーチャル拷問実験」というものを実施しました。

もちろん、本当は通電してはいない装置のスイッチを被験者に持たせ、それを押してサクラの被害者に電気ショックを与えさせるように命令するというものです。

ナチスドイツのアイヒマンの裁判で明らかになった「命令されれば何でもやる」というのは本当かどうかを調べるというものでした。

巧妙な実験方法を考えて、サクラの被害者も演技力のある俳優を使いましたが、命令されていくうちに被験者はどんどんとためらいなく通電スイッチを押すようになりました。

ところが、これが生身の被害者を前にした実験ではなく、ネットゲーム風の状況の中では、被験者は何のためらいもなく、始めから進んで通電スイッチを押しました。

「ゲームだから良いじゃない」という判断です。

このような「ゲーム感覚」というものは、実は道徳感覚や倫理感覚を喪失した時の脳の状態そのものだったのです。

 

このような「仮想世界」では何でも起こりうるものです。

そして、その「仮想世界」がやがて徐々に「現実世界」にも染み出してくるのです。

上記のように、子どもにはまだ本当のモラルはできあがっていません。

それは親や教師、地域の人たちが教え、自分で獲得していかなければいけないものです。

それが思春期までの子どもの頃のわずか10年ほどの間に完成させなければならないものです。

 

子どもの勉強の能力は年令によって変わっていくということは知られています。

「どんでん返しキッズ」という子どもたちの存在は教育者の間では常識ですが、掛け算の九九がうまく覚えられなかった子どもがその後中学高校に行くに従って数学の能力が急激に進歩し技術者や研究者になるということもよくあることです。

逆に、10歳の壁というものがあり、そこまでは算数ができていた子どもたちがその年齢になると壁に突き当たって算数ができなくなるということがよくあります。

実際は、そちらの壁で突き当たる子どもの方が大多数で、急激にできるようになる子はごく一部のようです。

アインシュタインが子供の頃には勉強ができなかったり、屈指の数学者と言われたクルト・ゲーデルが小学生時代には計算を間違え成績も低迷していたということはよく知られています。

どうやら、子どもから思春期になる頃に、人間は自分の脳の構成を変えていく性質があるようです。

前頭葉シナプス密度は子供時代には成長を続けて12歳頃に最大に達します。

しかし、その後の思春期の頃には逆にシナプス密度が低下していきます。

どうも、この時期に個人ごとに異なる脳の使い方に合わせるようによく使う部分を残して使わないところは削ぎ落としていくのではないかと考えられています。

 

子供時代から思春期にかけて、人間の脳は発達と進化を続け大人にふさわしいものへと変わっていきます。

この時代に、自然の実体験や、人と人との関係などを教え込み人間としての脳に発達させなければならないのですが、そこでネットの仮想世界に浸りきったらどうなるか。

場合によっては恐ろしい脳になっていく危険性もあるということでしょう。

 

子どもの脳と仮想世界―教室から見えるデジタルっ子の今

子どもの脳と仮想世界―教室から見えるデジタルっ子の今

 

 著者の長い教師体験で出会った、多くの子どもたちのエピソードも語られ、興味深い内容でした。

 

成人の日と成人式を考える

今日は1月15日、かつては「成人の日」で祭日、この日に成人式が行われることが多かった日です。

しかし、あの「ハッピーマンデー制度」とやらで成人の日が移されてしまい、平日となってしまいました。

どうもあの制度以来月曜に移動した祭日は有難味が薄れてしまったようです。

 

それはさておき、

1月13日の、今の成人の日に、「18歳、20歳どっちで成人式をやるのか」について書きました。

成人式は20歳で、?そのままにしておくのか。 - 爽風上々のブログ

 

その前後に報道されたニュースでも、一部でこの話題について触れられたものもありました。

しかし、ほとんどの自治体ではまだ検討中、決まっているところはわずかですが、やはり「20歳で実施」というところが多いようです。

 

その理由としてあげられているのが、「18歳の1月は受験や就職で忙しい」というのが一番多かったようです。

 

上記にも書きましたが、なぜ1月にやらなければならないと固定観念ができているのでしょうか。

 

と言ったわけで、「成人の日」について調べてみました。

なんちゃって、単にウィキペディアで見ただけですが。

成人の日 - Wikipedia

 

「成人の日」は1948年公布施行の祝日法国民の祝日に関わる法律)によって決められました。

ただし、その際に考慮されたのは「この日が小正月であり、かつてはこの日に元服の儀式が行われていた」と言う根拠だけであり、極めてあやふやな理由と言わざるを得ません。

 

本当に元服小正月に行われたのか。

「年が明けた最初の満月の日に行われた」という説明も見られます。

旧暦で言えば1月15日が満月であり、それは正しいのですが、新暦になった時点でこの意味は失われました。

toyokeizai.net

どうやら、どこかに「成人の日」を作りたいという事情が先にあり、その中で一部に見られた「小正月元服」という風習を見つけてこれ幸いと決めてしまっただけのようです。

 

その程度の根拠の「成人の日」、しかもハッピーマンデーで移動してしまった日付などどうでも良いように思いますが。

 

民法で「18歳成年」と言う規定ができれば、「20歳」という年齢には何の意味も無くなります。

いつまでもそれにこだわり、20歳成人式を実施する方が違和感を覚えると言うことになりそうです。

 

八代平野の干拓の歴史をたどる。

八代平野に残る干拓の遺構を見て歩こうかと思っていますが、それに先立ち干拓がどのように行われてきたのか、自分自身の勉強も兼ねてまとめておこうかと思います。

 

これについて紹介されたホームページはいくつかありますが、熊本県の公式サイトに書かれているのが簡略でわかりやすいかもしれません。

kumamoto.guideこのように、日奈久断層の活動で作られた山地と宇土半島天草諸島に囲われた八代海というものが、隣の有明海同様に非常に潮の干満の差が大きく、広い範囲が湿地帯であったということが江戸時代初期の早い時期から干拓を行い耕地を広げようという動きにつながったのでしょう。

八代平野部から、東側に屏風状に連なる山々の写真です。

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この付近から中央に見える竜峰山という山まで約8km,その付近の山々もだいたい標高300~400m程度の低山ですが、これが断層帯の活動でできたものです。

そこから数Kmは元からの陸地ですが、写真を撮影した周辺は完全に江戸時代の干拓地の中です。

 

 

そのためか、そこでは「干拓」という通常のイメージのように、海の浅瀬に土やゴミを投入して行くということではなく、湿地帯の張り出した部分に堤防を築いていき、最後に堤防をつないで潮をシャットアウトするという、諫早干拓で見られたあの光景と同じであったことが分かります。

 

この概略を地図に示してあるのも、やはり熊本県が作成したものが良くできています。

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このように、薄黄色で描かれている元々の陸地は今では海岸線からはるか離れた所になってしまい、江戸時代初期の加藤氏が熊本領有した当時から延々と干拓事業が続けられてきました。

薄緑に塗られている部分が江戸時代の干拓、黄土色が明治時代、紫が大正時代、そして茶色の昭和時代まで、最後は昭和40年代の芦北・不知火干拓(この地図の範囲外)まで続けられています。

 

図中に赤丸で表示されているのが現在に残る干拓遺構ですが、これは見に行こうかと思っているところです。

それ以外にも、各時代の干拓の「境界」というものも面白いところです。

 

上述したように、干拓の初期から潮をせき止める堤防というものは大きなものが作られてきたのですが、たとえば上図の12番、二の丸新地という江戸時代文政期に作られた干拓の外側に明治時代になり郡築新地が作られたのですが、そうなると以前の二の丸新地の堤防は不要になります。

どうやら、そういった古い堤防のほとんどはその後削り取られて道路などに転用されたようです。

 

たとえば、上記の二の丸新地と郡築新地の間の堤防跡地は、現在は「農免道路」と呼ばれている道路になっているようです。

そのせいか、真っ直ぐではなく曲がりくねった道路になっています。

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赤で囲んだ「八代不知火線」という道路がそれで、どうやらこれがちょうど明治時代の干拓で不要となった堤防の跡地のようです。

 

なお、図の下の方にある「高島」という丘から撮影した写真を掲載しておきます。

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ちょっと分かりにくい写真ですが、中央付近にダンプカーが走っているのがその道路です。

 

この道路の付近では昔の堤防の痕跡は全く残っていませんが、聞いた話では別の場所に昔の堤防の跡がある場所もあるとか。

それがどこかということも調べてみたいものです。

 

イランにとっては思いもよらぬ形勢悪化。旅客機撃墜事件は政府を追い込む。

アメリカとの間で緊張を高めながら落とし所を探っていたイランですが、「担当者のミス」で起きてしまった旅客機撃墜事件で国内では反政府デモ、国外からは各国の非難と、状況は急激に悪化してしまいました。

headlines.yahoo.co.jpウクライナ機撃墜では、当初の説明(機体の異常)は虚偽であり、イラン政府は最初からイラン軍が攻撃したことは分かっていたということも、イラン国民の怒りを呼んだようです。

 

飛行機はウクライナ機とはいえ、ウクライナ人は乗員だけとも言える状況で、乗客の国籍はイランとカナダがほとんどでした。

ウクライナ国際航空752便撃墜事件 - Wikipedia

犠牲者の多くがイラン人ということも、イラン国内での抗議デモが激しくなっている理由でしょう。

 

トランプ大統領にとっては、これは棚からぼた餅という事態のようです。

デモの弾圧は許さないという意志を表明していますが、これはイラン政府に対する圧力でしょう。

www.afpbb.com

アメリカのイラン司令官殺害という、とんでもない事件から激化した情勢ですが、意外なことにもトランプに幸運が転げ込んで行くように見えます。

イラン側のアメリカへの報復ということもかなりやりづらくなってしまったでしょう。

しかし、これは中国古典の春秋や史記にも記されているように、「天は悪人の罪を厳しく罰しようとして、一見その人間に幸運を与えるように見える」ということです。

いずれは大きく転げ落ちていくのでしょうが、それまでに死ななければならない人がたくさん出てしまうのでしょう。

 

「『平家物語』という世界文学」日下力著

軍記物語という一群の文学があります。

その中でも「平家物語」というものは広く庶民の間にも語られたものでした。

しかし、戦争というものをテーマにした文学は世界各国にもあり、「叙事詩」と言われることが多いようです。

これらの叙事詩と、日本の平家物語はどこが違ってどこが似ているのか、軍記物語の研究者の日下さんが比較検討しています。

 

近現代の戦争を扱った文学では、その悲惨さを強調するものがある一方で、国威発揚の思惑がありありと見えるものもありました。

しかし、源平合戦の時代を描いた平家物語では、壮烈な合戦描写があり、闘いというものを肯定的に捉えてはいるものの、公達の最期の描写では無常観をただよわせるという部分もあります。

近現代と中世の時代の差かと感じ、世界各国でも古代から中世の戦争を扱った文学と平家物語との比較という方向に研究を進めていったのですが、どうやら日本の軍記物語には他の世界各国の文学とは異なる点があったようです。

 

対象とした世界各国の叙事詩は、ギルガメッシュイリアスオデュッセイアから始まりガリア戦記ラーマーヤナマハーバーラタアーサー王物語、オシアン、等々広範囲のものが取り上げられました。

 

平家物語の大きな特徴は「時代と登場人物の年齢にこだわる」ということです。

特に若くして戦いの犠牲となった少年たちの年齢は、敦盛が16歳、源為義の子どもたちは13,11,9,7歳で命を奪われると言ったふうに詳細に記されています。

これに対して諸国の叙事詩では登場人物の年齢などまったく構わず、事実上ありえないような年齢設定になってしまうことも多々見られます。

 

これは、どうも日本の軍記物語はその事件があった時からほどなく書かれたためのようです。

その時点では、たとえば源平合戦で生き残った関係者などはまだ存命している人も多く、そういった人たちから直接話も聞ける状況でした。

それに比べて、ギリシアの物語はイリアスなどはそもそも神々がまだ人間界に現れて来た頃の世界です。

はるか昔の伝説を後世に描いたものであり、その目的も違うものでした。

 

また、日本国内での戦いは敵味方といっても同じ民族、はなはだしい場合は同族が敵味方に別れての戦いも多く、敵を獣のように考えて戦いでは皆殺しにすることに何の呵責も感じなかった海外の場合とは大きく異なりました。

それが敵味方問わずに少年の死には哀悼を感じる描写になりました。

 

平家物語は、戦争の文学として優れているのは確かでしょう。

あの時代に、殺したくもない相手を殺さねばならぬという兵士の心理を、書き込んでいるというのは現代文学とも共通するほどの世界です。

ただし、平家物語ではそれだから反戦を目指すという方向には進みません。

無常観を感じてもやはり戦い続けると言う時代だったのでしょう。

 

「平家物語」という世界文学

「平家物語」という世界文学

 

 

 

成人式は20歳で、?そのままにしておくのか。

本日は成人の日、多くの自治体では成人式が執り行われます。

当地では昨日の日曜日に行われたようですが、もうすでに関係のなくなった年寄にとっては縁のない話でした。

 

さて、2年後には民法上の成人を18歳にするという改革が実施されるということですが、「成人式」を何歳で行うかということは見方が別れているようです。

www.jiji.com

成人式の開催ということは別に法律上決まっていることではありませんので、自治体によって独自に決められるのでしょうが、どうやらほとんどのところでは20歳での開催のままという方向のようです。

 

18歳での成人式開催では、ほとんどが高校生であり1月では大学受験や就職で忙しいというのが一番の理由でしょうが、それで1年分の仕事をしている和服業界、貸衣装関係者、美容関係者の利害も大きく作用しているのは間違いないでしょう。

 

ささいなことでも、続けて行われていけば固定観念ができてしまうという実例になってしまいました。

 

今でも、自治体によっては故郷を離れている対象者が帰郷する8月に開催しているところもあり、別に1月に成人の日があるからといってその周辺で開催しなければならないといったことはなく、全員が18歳になった後の5月連休でも8月旧盆にでも開けば良いだけのことでしょう。

 

なお、上記記事の中で18歳実施に前向きな自治体として紹介されている三重県伊賀市(どうやら市長が乗り気なだけのようなので、落選したら変わる可能性が大きい)の場合、2022年の成人式は18歳から20歳までの3学年を全部一度でやってしまうというつもりのようで、それも大混乱となるでしょうが。

 

民法改訂で18歳成人とは言え、一部の規定では20歳も残りますので(酒タバコ等、これも変な話ですが)それを理由としている人もいるようです。

18歳成人式となったら、その場で酒を飲む連中は一括検挙で対処できるというのは利点にはならないでしょうか。

 

まあだいたい、行政からお前は大人だと言われなければならないのが情けない話ではあり、本当は「自分は大人だ」という自覚を自主的に持つことができたら大人なのだということでよろしいのでは。

自覚を持てたら成人式に参加しますということにすれば、10代で出る人もいるかもしれませんし、40,50になってから出席する人もいるかもしれません。

大人になれないまま死んでしまって、葬式と成人式を兼ねて実施する葬儀社も出たりして。

そういったことも触れられないまま、明日のニュースには成人式の馬鹿騒ぎが報道されるのでしょう。