爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

八代平野の干拓の歴史をたどる。

八代平野に残る干拓の遺構を見て歩こうかと思っていますが、それに先立ち干拓がどのように行われてきたのか、自分自身の勉強も兼ねてまとめておこうかと思います。

 

これについて紹介されたホームページはいくつかありますが、熊本県の公式サイトに書かれているのが簡略でわかりやすいかもしれません。

kumamoto.guideこのように、日奈久断層の活動で作られた山地と宇土半島天草諸島に囲われた八代海というものが、隣の有明海同様に非常に潮の干満の差が大きく、広い範囲が湿地帯であったということが江戸時代初期の早い時期から干拓を行い耕地を広げようという動きにつながったのでしょう。

八代平野部から、東側に屏風状に連なる山々の写真です。

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この付近から中央に見える竜峰山という山まで約8km,その付近の山々もだいたい標高300~400m程度の低山ですが、これが断層帯の活動でできたものです。

そこから数Kmは元からの陸地ですが、写真を撮影した周辺は完全に江戸時代の干拓地の中です。

 

 

そのためか、そこでは「干拓」という通常のイメージのように、海の浅瀬に土やゴミを投入して行くということではなく、湿地帯の張り出した部分に堤防を築いていき、最後に堤防をつないで潮をシャットアウトするという、諫早干拓で見られたあの光景と同じであったことが分かります。

 

この概略を地図に示してあるのも、やはり熊本県が作成したものが良くできています。

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このように、薄黄色で描かれている元々の陸地は今では海岸線からはるか離れた所になってしまい、江戸時代初期の加藤氏が熊本領有した当時から延々と干拓事業が続けられてきました。

薄緑に塗られている部分が江戸時代の干拓、黄土色が明治時代、紫が大正時代、そして茶色の昭和時代まで、最後は昭和40年代の芦北・不知火干拓(この地図の範囲外)まで続けられています。

 

図中に赤丸で表示されているのが現在に残る干拓遺構ですが、これは見に行こうかと思っているところです。

それ以外にも、各時代の干拓の「境界」というものも面白いところです。

 

上述したように、干拓の初期から潮をせき止める堤防というものは大きなものが作られてきたのですが、たとえば上図の12番、二の丸新地という江戸時代文政期に作られた干拓の外側に明治時代になり郡築新地が作られたのですが、そうなると以前の二の丸新地の堤防は不要になります。

どうやら、そういった古い堤防のほとんどはその後削り取られて道路などに転用されたようです。

 

たとえば、上記の二の丸新地と郡築新地の間の堤防跡地は、現在は「農免道路」と呼ばれている道路になっているようです。

そのせいか、真っ直ぐではなく曲がりくねった道路になっています。

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赤で囲んだ「八代不知火線」という道路がそれで、どうやらこれがちょうど明治時代の干拓で不要となった堤防の跡地のようです。

 

なお、図の下の方にある「高島」という丘から撮影した写真を掲載しておきます。

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ちょっと分かりにくい写真ですが、中央付近にダンプカーが走っているのがその道路です。

 

この道路の付近では昔の堤防の痕跡は全く残っていませんが、聞いた話では別の場所に昔の堤防の跡がある場所もあるとか。

それがどこかということも調べてみたいものです。