科学とは何か、科学的とはどういうことかといったものを問うという本は何冊も出ていますが、この本はいわゆる「文系」という人たちにできるだけ「科学的」考え方をしてもらおうといった意図がはっきりと表れているものです。
著者の森さんはもともと建築学の研究者で大学工学部にいたのですが、作家としてデビューし続々と本を出版したという経歴の方です。
そのためか「理系作家」などと言われたこともあったようです。
出版界、それも小説の世界にいると周囲の人はほとんどが「文系」
どうしても理系・文系とは何なのかということを考えさせられます。
著者の感覚では、理系学部の中でも工学部というところは「科学者」というよりは「技術者」、その中でも建築学科というところはさらに理系的要素が少ないところだそうです。
それもあり、「文系」という人々の感覚というものもかなり理解できる方だということです。
世の中の「文系」という人々、どうやら「数学や物理」が苦手なので仕方なく文系に行ったという人が多いようです。
そのためか、理系の学問に対してかなり複雑な劣等感を持っており、逆に「数学なんて」と反感を募らせることも多い。
しかし、そういったコンプレックスから数学や物理などの科学すら否定するような心理というものは、明らかにその人にとって損です。
科学コンプレックスのためか、文系という人々は理系などが得意と言う人に対し「人間の感情が分からない」などと八つ当たり的な感情を持つこともあります。
ドラマや小説に戯画的に書かれることもありますが、実際にはそういった人々は溢れるほどの感情があることがほとんどです。
科学者で音楽や美術の趣味を持つという人も数多く、実際の科学者はそれほど科学に凝り固まっているわけではありません。
また「科学そのもの」についても誤解している人が多いようです。
科学の学説はすべて仮説にすぎないということもあまり理解されていませんし、学説が確立していく過程ということも理解されません。
また科学と言えば実験というのもありがちな誤解であり、それは「自分の目で見たことはすべて信じる」という間違いにもつながります。
科学の発表というものは「他者によって再現させるため」だということも分かりにくいことです。
一方では企業などで特許を多数取り技術を防衛するということもあるため、間違えやすいところですが、科学は分かっていることを公表して他者により確認させることで学説を確立していくという原則があります。
これは非常に民主的なものであり、大家であろうと新人であろうと学説に関しては対等だということが分かりづらいものかもしれません。
本書執筆のさなかに東日本大震災、そして福島原発事故が起きました。
放射能漏れという大変な事態になったのですが、その時にテレビ番組でいつまでたっても「はっきり説明しろ」と言い続けているのに半ば呆れたそうです。
ちょっとは自分で考えろと言いたくなったとか。
これは私も同じ感想を持ちました。
現代は科学技術というものが高度に発達してしまいました。
しかしその弊害として、科学の初歩を学ぶということができなくなっているようです。
かつては「鉱石ラジオ」などと言うものを作るということが結構少年の間には広まっていたのですが(少女はどうか知りませんが)、最近はスマホを使いこなすことはできても、電波というものすら理解できていないという子ども(大人も)ばかりのようです。
スマホは完全にブラックボックスとなってしまい、いわば「魔法の箱」です。
科学の世界とも言うべき現代の中で、それが魔法のようになってしまってよいのか。
良いはずはないでしょう。