爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「浮世絵の女たち」鈴木由紀子著

浮世絵には役者絵や風景画にも有名な作品がありますが、やはり中でも美人画というものにその逸品が多いのでしょう。

そういった美人画は架空の美女を描いたものではなく、実際にモデルを前に描いたということが知られています。

それでは浮世絵の作者たちはその美女のどこに惹かれて絵を描いたのか。

そういった観点から浮世絵を見直してみます。

なお、描かれた美女だけでなく作者の生涯などについても触れてあり、「美女を描いた浮世絵画家」というものも本書の大きな主題となっています。

 

触れられている作者は、懐月堂安度、鈴木春信、喜多川歌麿山東京伝酒井抱一、鳥文斎永之、歌川国芳、そして葛飾北斎の娘応為です。

 

美人画がブームとなったのは明和年間(1768年)頃、鈴木春信が「笠森お仙」を一枚摺り錦絵で売り出してからだそうです。

お仙の水茶屋は谷中にあったのですが、谷中のどこなのでしょうか。

「笠森」の名から、笠森稲荷がどこかと見ると、現在の台東区には谷中の大円寺、功徳林寺、上野養寿院の三社に笠森稲荷というものがあります。

そのうち、谷中の大円寺境内に鈴木春信と笠森お仙についての碑が立っています。

これは作家の永井荷風と文学者の笹川臨風によって認められたものですが、実際にはこの場所では無かったようです。

江戸時代にはこれらとは別の感応寺という寺の境内の中門前に笠森稲荷があり、その門前にあった水茶屋がお仙の店だったそうです。

 

鈴木春信の影響を受け、蔦谷重三郎の援助のもと美人画を大成したのが喜多川歌麿でした。

歌麿は美女たちの個性を描き分ける細かい描写で人気を博しました。

なおあまりの人気ぶりに幕府は様々な制限をかけてきましたが、その中で女性の身元が分かるような名前などを載せることを禁止したのですが、それに対し歌麿判じ絵で応じたということです。(女性の肩に鷹、島、火、鷺を描き、”高島おひさ”を示す)

 

山東京伝は浮世絵を描くだけでなく、洒落本、黄表紙、読本など様々な作品を次々と生み出すという多才な才能の芸術家でした。

裕福な商家の息子でしたが親の理解もあり芸術に専念できました。

しかし、結婚は遅くしかも遊女を身請けして相手とするということで、さすがに母親の反対を受けました。

それでも彼女の身の上や身につけた教養などを説明し何とか許しを得て結婚したそうです。

ところが、この点について最初は京伝に弟子入りし世話を受けた滝沢馬琴が名指しで批判しそれで京伝との関係が冷え切ったそうです。

馬琴はいかに親のために身を売ったとはいえ、一度は売春をした女性はもはやまともな妻女とはなれないという頑なな姿勢で批判したものであり、京伝とは相容れないものであったようです。

 

酒井抱一は浮世絵作者の中でももっとも身分の高い出自でした。

姫路藩主酒井家の御曹司でしたが、父も兄も美術や文芸に理解が深く、抱一も小さい頃からそういった環境で育ったようです。

抱一も遊女香川を身請けしましたが、さすがに正式な妻とすることはできず侍女として中屋敷に入れたそうです。

なお、父や兄の居た間は良かったのですが、兄の死後にその息子が藩主となると酒井藩との関係も徐々に悪化したそうです。

 

このような浮世絵ですが、明治維新の直後にはその価値が貶められ紙屑扱いされました。

それを日本にやってきた外国人たちが買い求め多くの浮世絵は海外に流出したそうです。

そのため多くの逸品は外国の美術館などに収蔵されています。

主体的な価値判断というものと無縁な日本人にありそうな話です。