爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

自動車社会とは何か。人類は自動車と心中するつもりなのか。その1

現在の世界の大半、特に先進国のすべてと開発途上国でも中心地のほとんどは「自動車社会」であるということは疑問の余地はないでしょう。

そのような自動車社会はどういったものであり、そして未来も続くのか。

そういったことを説き明かしておきたいと思います。

 

1,自動車社会とは、「自動車主義社会」か

2,自動車によって作り変えられた世界

3,自動車の功罪、「功」なんてあるかどうか知らないが。

4,自動車に未来はあるか。

5,自動車無き社会の作り方。

 

1,自動車社会とは、「自動車主義社会」か

現在の世界の大半では、移動手段や運送手段として自動車が広く使われています。

国際間の大量輸送手段としての船舶、長距離の高速移動手段の航空機を除けば、そのほとんどが自動車類であると言えるでしょう。

また、農耕用、建設用等々にも自動車の一種が広く使われており、そこまで含めばさらに自動車の使用範囲は広く、人類の移動・輸送はほぼすべてを自動車に拠っているとも言えるでしょう。

そういった社会を「自動車社会」と呼ぶことにはそれほど異論はないでしょう。

 

しかし、それは「自動車社会」などという控え目な呼称に止まるのか。

 

現代の世界の主要部は「資本主義」であるとか、「民主主義」であるとか、「自由主義」であるとか言われています。

しかしその実態は実は「自動車主義社会」なのではないか。

 

産業の大きな部分を自動車関連産業が占めるのは言うまでもありません。

自動車製造会社、その部品製造会社、さらにその素材生産会社など、製造に関するもの。

自動車販売、修理整備、廃車の廃棄に至るまでのもの。

道路整備、燃料・資材等の流通販売、交通行政、免許行政、保険業務などの関連業務。

それらまで考えればそこに従事する人々も大きな割合となるでしょう。

 

自動車に関連する資源・エネルギーの使用割合も非常に多くなっています。

小型自動車でも1トンに近い重量であり、その大半は鉄鋼ですがそれ以外にもプラスチック、ガラスなどの資材を大量に使用しています。

それを運行させるためのエネルギー源も大量であり、現在では大半が石油類ですが電気自動車化が進めば電力も大量に使用することになります。

その電力を得るためのエネルギー、設備も大量となります。

 

つまり、現代社会は自動車を中心として回っており、「自動車主義社会」という言い方もさほど的外れではないことになります。

そして、そこでは「自動車」というものが「資本主義社会」で資本が、「民主主義社会」民主が享受している地位、「批判を許さない立場」というものをも持っているのではないか。

自動車がいくら人を殺そうが、あまりそれ自体に対する批判ができないように感じます。

そのことを取っても、現代社会は「自動車主義社会」であるとも言えるのではないかと思うところです。

 

 

2,自動車によって作り変えられた世界

自動車がこれほどまでに蔓延ってきたのはそれほど古い話ではありません。

馬車・牛車まで遡ると話が違ってきますが、それ以外の動力(蒸気機関内燃機関)を用いる移動機械というものが出現しだしたのもせいぜい200年前、そして普及し社会を変えていったのは高々100年程度のことです。

しかしその力は非常に強いものであり、社会の隅々までどんどんと変えていきました。

 

もちろんいくら技術が存在してもコストがかかり過ぎた場合は普及は進みません。

そこには現在とは比べ物にならないほど安価であった石油の存在が大きかったわけです。

今では1バレルあたり100ドルをも越えようという原油ですが、それが5ドル以下の価格で手に入り、それで自由に移動できるかのような手段を得られることになりました。

 

これは、特に西欧、アメリカの人々の価値観や道徳観に適うものであり、彼らの心を鷲掴みにしたとも言えるでしょう。

何にも縛られずに自由に走りだせる。

ただし、そこには自分で運転するということで自己責任もついて回ります。

しかしそれすらも彼らの好みに合ったものだったのでしょう。

 

そして、それで動き出した社会というものは生産性も格段に上昇し、さらに利便性も快適さも得られるものだった。

それこそが未来社会のように人の眼には見えたのかもしれません。

 

さらにそれがまさに「アメリカ社会」に見えた開発途上国にとっては、自動車のある社会というものがイコール未来社会、快適社会とも映りました。

そこにはかつての日本も含まれます。

そしてそれらの国が次々と自動車主義社会に参入していったのです。

 

3,自動車の功罪、「功」なんてあるかどうか知らないが。

歴史的に見ればごくごく短時間であった「経済成長時代」、これを主導したのは資本主義であるとか、科学技術であるとか、化石燃料エネルギーの使用であるとか考えられているでしょうが、これも実は「自動車」の力が相当関わっていると言えるでしょう。

 

いや、実際は「自動車」こそがこれまでの経済成長をある程度牽引してきたのかもしれません。

それが「功」と言えるかも。

私から見ればこれが最大の「罪」のようにも見えますが。

 

人の移動、物資の輸送、さらには建設や農業に至るまで、自動車やその同類の働きはこれまでのものとは比べ物にならないほどの能力を持ち、経済活動を加速させるという意味で経済成長を文字通り牽引してきたと言えるでしょう。

 

しかしその一方で「罪」の方はいくらでも挙げることができます。

 

直接的なものでは、「交通事故による死傷者」です。

日本では最近は劇的に交通事故死者数が減っているなどと言われており、一時は年間1万人以上の死者があったのが(最大は16765人で1970年)、このところは2839人(2020年)と激減しています。

(なお、ここでいう「死亡者」は事故発生後24時間以内の死亡に限られています)

かなり減ったように見えますが、2000人台だから良いというわけではありません。

やはり亡くなった方はもちろん、遺族の方の悲しみや苦しみは大変なものでしょう。

さらに、死亡した方よりはるかに多数の方々が負傷され、中には大きな障害を負ってしまう方も多く発生しています。

このような人的被害をなぜ「仕方ないもの」とでも言うかのように見過ごしているのか。

とてもまともな神経ではなくなっていると感じます。

昔のアステカ古代文明や、中国殷文明では人を生贄にして殺して神にささげるということが行われていました。

聞くだけでもおぞましい文明ですが、彼らとしてはその国や文化を守ってくれる神のために人命を捧げるということが不可欠と認識していたのでしょう。

現代の自動車文明に捧げられる犠牲者たちの人命もそれと同じように見えます。

 

さらに、「人の住む社会を徹底的に自動車に都合の良いように作り変えた」ことも挙げられます。

これもそう言われても思い当たらないという人が多いでしょう。

それほどまでに徹底的に変えられているがために、意識されていないのかもしれません。

しかし、人の住んでいた町の形が自動車が走るのに都合の良いように変えられてしまいました。

どこの町でも真ん中に広い道が縦横に通っており、そこを渡ることすら難しくなっていてわずかな交差点や横断歩道でしか横断することができなくなっています。

そこ以外を横断して車にはねられても自己責任と言わんばかりに、補償金も大幅に減額されます。

そのような広い道ばかりでなく、住宅地の隅々の道にまで車は入り込み、子供の遊び場や老人の談笑の場であった道には出ることも難しくなりました。

そればかりでなく、車の移動を前提としたことでそれまでは歩いて行ける範囲内にあった公共施設や商店などもはるか彼方に集約されてしまいました。

車の使えなくなった老人などは何もできなくなり、自らも介護施設などに「集約」されなければ生きていけなくなりました。

 

古代の海で無数に生息した微生物が作り出した原油などの化石燃料を瞬く間に枯渇させようとしている、その多くの責任が自動車の内燃機関にあることもその罪の一つでしょう。

数千万年以上もの時間の間に貯蔵されていった原油の素はさらに長い間地底にうずめられて化学変化を起こし今の原油となりました。

そのような貴重なエネルギー資源を自動車は人々の欲望のためにあっという間に使い果たそうとしています。

 

また、人々の心の中に過度に自動車に依存する心理が作られたと言うことも自動車の罪の一つでしょう。

自動車は何にも制約されずに自由に移動できるということが個人主義の強まった現代では過大評価されやすいのでしょうが、実際にはその車に心理的に縛られるということにもなりがちです。

津波や水害の際に危険な状況になったら車を捨てて徒歩で非難しなければ危ないという場合でもそれができず、車と共に水没して死亡という事例がいくつも起きています。

 

(その2に続く)