爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「三國志逍遥」中村愿著、安野光雅画

安野光雅さんが2005年から四度の三国志の旅に出かけ、そこで93枚の絵を描いたということは有名かもしれません。

しかし、その一度に本書の本文を書いた中村さんが同行し、三国志について深く考えていたということは知られていないことでしょう。

 

その紀行について、そしてそこから古の三国志の時代について、様々に思いを馳せながらつづり、安野さんの絵も掲載してそれについての感想と解説も施すという、盛沢山の内容となっている本です。

 

ただし、中村さんは歴史学が専門とは見えず、どちらかといえば歴史書や文献といったものがご専門のようです。

そこで、三国志(といっても史書の方)についても非常に詳しく解析をしていきます。

 

三國志」とは言うものの、これを著した晋の時代の陳寿は、本人が書いたこの史書を「三国志」とは思っていなかったはずです。

彼が著したのは「魏書」「呉書」「蜀書」の全65巻であり、「三国志」といった名前はまったく意識していなかったはずです。

それはさておき、現在に残る「三国志」はその陳寿の原文とはかなり違ったものとなっています。

これは、陳寿の時代より150年ほど後になって、裴松之が多くの注釈を付けくわえてしまったことによります。

しかも彼は原文と自分の注釈との違いが分かりにくくなるほどまでに多くの文章を付け足してしまいました。

 

そこには、陳寿があえて取り上げなかった歴史的事実ではない可能性の強い「曹瞞伝」や「魏晋世語」といった通俗本の内容も入れ込んでしまったようなのです。

しかし、この裴松之の注釈文の三国志が広く流布してしまい、その内容が後から記された「後漢書」や「三国志演義」にまで入り込んでしまいました。

このため、劉備諸葛亮を聖人のごとくに称揚し、曹操を悪人と貶めるような見方が広まってしまいました。

なお、「後漢書」は三国志より前の後漢の時代を扱った歴史書ですが、実際には三国志よりかなり後の時代の5世紀の南朝宋の時代の范曄が書いたもので、その内容には裴松之注釈の三国志の影響がかなり入っているようです。

 

本書では、そのような後世の改作を極力排し、陳寿が書きたかった内容にできるだけ近づけようと中村さんが努力した成果が繰り広げられています。

 

とは言え、陳寿の原書を復元するということはかなり難しいことです。

どうやらそういったものは中国にも日本にも存在していません。

中国で1959年に出版された「中華書局版三国志」という本はできるだけ裴松之の注釈を取り除いているとされていますが、それも部分的なものであり原文とはかなりの差があるようです。

なお、現在日本で翻訳されている筑摩書房の「正史三国志」もこれが基となっています。

 

現在の三国志で描かれている「曹操悪人説」はほとんどが裴松之が入れたもので、陳寿が書いたとは考えられません。

特に、漢の皇帝から禅譲を受けて魏王朝を建てたのは、皇帝を脅迫して無理にさせたものとされていますが、曹操曹丕、そして当の漢皇帝の文書などを見ていくとそのような形跡が全く見られないそうです。

漢の最後の皇帝、献帝曹操に心服しきっており、心からの誠意をもって曹操に国を譲ろうとしていたものの、それでも曹操は死ぬまでそれを受諾しなかった。

曹丕が継いで後にようやく禅譲したというものです。

この他に描かれている「曹操悪人説」の証拠とされているものも、ほとんどが曹瞞伝などが元の疑わしい話ばかりのようです。

 

通説とされている劉備諸葛亮聖人説などは、全くの作り話で、それも大した能力もない諸葛亮が蜀を乗っ取って国を作るに際し、周到に準備して広めていったものと見られるとか。

蜀を乗っ取り、多くの旧来からの住人を殺して王朝を作っていくにあたっては、姦計の限りを尽くしたようです。

陳寿が蜀書を書くにあたって関係文書を集めようとしたのですが、蜀に関しては諸葛亮が発した文書以外はほとんど残っていませんでした。

これも、自らの立場に反する文書はことごとく破棄したのが一因、さらに蜀にはきちんとした文書を系統的に残すという余力もなかったことも大きな要因だったようです。

歴史的な名文と言われる「出師の表」も、その気になって詳しく見れば諸葛亮の自己顕示欲だけが色濃く見えるということです。

 

なかなか面白い主張で、これまでの三国志観が変わるようなものでした。

 

三國志逍遙

三國志逍遙