暇で退屈、よく感じることですが、それについて哲学的な考察を行います。
哲学者の國分さんが書く本ですから、簡単なはずはないですが、新書サイズながら437ページの本はかなりの分量でもあり、読み通すのは大変なものでした。
しかも、結論の部分に、「この結論は本書を通読するという過程を経てはじめて意味を持つ」と書いてあります。
つまり、最初に結論の部分だけ読んで、分かったようなつもりになってはいけないと釘を刺しているわけです。
まあ、一応全部通読したうえで結論を読んでも大して変わりはないようにも思いますが。
退屈を持て余して、危険な冒険にすら飛び込んでしまう人もいるほどで、人間にとっては暇で退屈だということは絶対に避けたいものかのようです。
しかし、古代ギリシャやローマのような所では暇で退屈なのは自由人たる市民だけで、奴隷には暇も退屈もあり得ませんでした。
近代になっても貴族や富裕層のみが暇で退屈、一般庶民は生活に追われ暇などは欲しくても得られないものです。
肩書を「無職」と書くことがステイタスのような人も居ました。
そのような「暇と退屈」について、多くの考察をしてきた哲学者が何人もいます。
この本ではそういった先哲の主張を取り上げ、批判しながら考えていきます。
ウィリアム・モリス、アレンカ・ジュバンチッチ、ブレーズ・パスカル、フリードリヒ・ニーチェ、ラッセル、ハイデッガー、スヴェンソン、ルソーやマルクスまで。
他にも多くの人々の著作から引いて論考していきます。
そんな人たちの本は見たことも無い者にとっては、あれよあれよと言うところですが。
さらに「暇と退屈」について視点をかえ、原理論、系譜学、経済史、疎外論、哲学、人間学、倫理学とからめて論じています。
その論法は緻密にして複雑。
通読した者のみ結論を見ろということでしたので、一応通読したために結論だけ書いておきます。
結論その一 あなたは本書を通読した。それにより暇と退屈の倫理学が進むべき方向を見た。それこそが「暇と退屈の倫理学」の第一歩である。
結論その二 贅沢を取り戻す必要がある。贅沢とは浪費することであり、浪費こそは豊かさの条件である。
現代社会ではその浪費が妨げられており、人々が浪費家ではなく消費者になることを強いられている。
結論その三 人間も動物も環世界を生きているが、人間は多くの環世界を行き来する能力を持っている。それこそが人間のみが退屈してしまう理由であり、一つの環世界に浸っていることができないためである。
動物は一つの環世界にずっといても飽きない。動物になることを選べば退屈はしない。
何か分かったような分からないような、結論だけ見てもさっぱり。
そこが「本書を通読しなければならない理由なのだ」と言われればそうなんでしょうが。
その他気になったところをいくつか。
として、現在の労働状況との関わりが触れられています。
この状況は、誰かがぼろ儲けをしているということが主ではなく(ないわけではないが)現在の消費生産スタイルかがこれを要請してしまったということです。
モデルチェンジが激しすぎる消費が、大量生産の機械導入をためらわせ、人間で済ませて要らなくなったら切るということになってしまった。
しかし、このことは「暇と退屈」などと言っている場合では無いということではない。
実はモデルチェンジを求める志向というものは「暇と退屈」を逃れようとして生まれてくるから、暇と退屈を楽しむようにしてチェンジなどは放っておけばまた大量生産の機械化に戻れるということです。
私たちの生活は何のためかよく分からない気晴らしに満ちている。
テレビで芸能人がゲームをするのを眺めるのも気晴らし、特にほしいものが無いのに買い物に出かけるのも気晴らし、ケータイで絶えずメールをやり取りするのも気晴らし。
高尚に見えるような名画鑑賞も古典文学もモーツァルトもベートーベンも気晴らし。
私たちが生きているということは、退屈と気晴らしが混ざり合った中にあるのでは。
何か、すごく分かったような、全然わからなかったような感覚です。