爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか」西秋良宏編

現生人類ホモサピエンスはアフリカで誕生し、その後アフリカを出て全世界へ広がっていきました。

その大まかなところは固まってきましたが、まだ細部は分かっていないことも多く、また考古学的な発見、遺伝子解析の結果などで日々新たな知見が積み重なっています。

そのような状況について、2020年出版のこの本はかなり最新に近い情報をまとめて見せてくれています。

 

本書では、特にホモサピエンスの出アフリカとその直後の西アジアでの出来事、東アジアへの広がりや日本列島へたどり着いたホモサピエンス、現生人類とネアンデルタール人など旧人との関係といったことについてそれぞれの分野の専門家が解説しています。

 

ホモサピエンスが誕生したのはアフリカで20万年から30万年前と言われていますが、その後繰り返しアフリカからアジアに広がっていきました。

アフリカから出たすぐのレヴァント地方(シリアやヨルダンなど)には当時の遺跡が残っていますが、そこにはネアンデルタール人の遺跡も同じ時期に見られます。

ネアンデルタール人やデニソワ人は50万年以上前に現生人類の系統を分岐し、ネアンデルタール人はアフリカを離れてアジアやヨーロッパで生き延びてきたのですが、この頃には徐々に南下しレヴァント地方にやってきたようです。

しかし、この時期には寒冷化が厳しく現生人類も人口が減り続けていました。

このボトルネックの時期に、現生人類もネアンデルタール人もどちらも人口を減らし、結局はネアンデルタール人は滅びてしまったということのようです。

なお、ここも含めてネアンデルタール人などの旧人と現生人類が出会った地域では交雑も行われ、わずかながら遺伝子が相互に入り込んでいることは確かめられています。

 

現生人類が20万年前以降にアフリカから西アジアに広がっていた証拠はあります。

そしてそれ以降の時期に西アフリカ以外に現生人類が広がったという例もいくつかはあるのですが、それらは結局はあとにつながらないまま消えてしまいました。

そして、6万年前ごろ以降からはアジア各地に本格的に現生人類が広がったという証拠が無数に見つかっています。

6万年前より以前の出アフリカを「第1次出アフリカ」そして6万年前のものを「第2次出アフリカ」とすると、第1次では西アジアから北方にはわずかに広がった形跡が遺跡として残っているのですが、東方、東南方にはほとんど広がれなかったようです。

 

第2次出アフリカを果たした現生人類はその後東方、南方、北方に進んで行きました。

化石化した人骨の資料はまだそれほど見つかっていないので、考古学的な石器などの史料がその指標となりますが、石核を剥離させて石器を作るという技術が新人類によってはじめて作られたのがレヴァントで5万年から4万7千年前と見られています。

これと類似した石器が、アルタイ山地で4万5000年前、モンゴルでも同時期、中国西部でも4万年以上前の遺跡から見つかっています。

この間、5000年足らずで広がったものと見られます。

南方ではイラン北部でもマレーシア、オーストラリアでも4万年前のものが見つかっています。

 

やはり日本列島にはいつホモサピエンスがやってきたかということが興味をひきます。

3万年前までには日本列島を含むアジア全域にホモサピエンスは到達していたことは多くの遺跡で分かっています。

しかし、最初にやってきたのはいつかということが難しいようです。

その時期には日本列島は海で大陸と隔てられており、何らかの方法で海を越えてきたことになります。

同様にフィリピンやオーストラリア、ニューギニアなどにも人が渡っていますので、その時期にホモサピエンスは海を渡るほどの舟の製造ができるようになったということです。

 

日本列島に最初に入ってきたのは、3万8000年前と考えられています。

その頃は氷期で寒冷化していたので、現在より海面は80mほど低かったのですが、それでも朝鮮半島から九州まで、台湾から沖縄まではかなりの距離がありました。

また、北海道は樺太から地続きとなっていたのですが、津軽海峡は隔てられており本州に渡るにはやはり舟が必要でした。

この3ルートを通り、それぞれ異なる人々が、それも何回も繰り返し渡ってきたようです。

 

これからも考古学の発見、遺伝子解析技術の進歩で、さらに知見が広がっていくのでしょう。

わくわくするような話です。