爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

アメリカでは「リベラル」と「保守」できれいに二分されるのか。

アメリカの連邦最高裁判事で死去したギンズバーグさんの後任に、トランプ大統領は保守派のエイミー・バレット判事を選任するということで、批判が起きています。

大統領選の前に選任するかどうかということですが、トランプが再選の可能性が強まっているのであれば、前でも後でも一緒でしょうが。

 

それはともかく、最高裁判事の色分けで「保守」と「リベラル」ときれいに分けられているのが、かなり違和感を覚えます。

 

日本では裁判官は一応「中立」であることが建前でしょう。

とはいえ、「みんな保守」のようにも見えますが。

 

日本の話は置いておいて、「ほんとうにアメリカでは”保守”と”リベラル”にきれいに分けられるのか」ということに疑問を感じます。

 

断片的に伝えられている報道では、「銃の規制に反対」とか「妊娠中絶に反対」するのが保守だとかいう特徴的な性質については語られています。

 

少し前の記事ですがまとめられているものがありました。

webronza.asahi.com渡辺靖さんという、慶応大学教授の方がまとめられています。

 

その差は小さく、せいぜい「自由主義」という枠の中での「コーク」か「ペプシ」かという程度の違いだと、分かり易く(?)書かれています。

 

面白いのが「リベラル」だから自由かと思えば逆のようで、

「リベラル」の根底にあるのは、「自由は尊いが、自由放任主義は人々をかえって不自由にしてしまう。それゆえに公権力による一定の介入は認められる」とする考え方である。それは「保守」の側からすれば「そうした介入は公権力の肥大化を助長し、人々を不自由に陥れる。まさに社会主義であり、極めて非・米国的だ」ということになる。

自由放任は不自由につながるから、公権力の介入が必要というのが「リベラル」、それを否定するのが「保守」ということでしょうか。

 

記事中にもあるように、個々の政治家、個人の考え方はとても二分で分けられるようなものではなく、様々な違いが多々あるようです。

 

日本で考えてみても、一応選挙で勝つための公認を貰うという目的のために、自民党は皆指導者の言うことにひれ伏しているようですが、本音はバラバラというのは分かり切っていることですし、野党に至ってはごく小さな政党の中で主張ははるかかなたと言う連中が一緒になっているような状況です。

(このような実情にはまったく合っていないのが小選挙区制で、全国一区の大選挙区制が最も民意を反映します)

 

どうも、アメリカも形だけ二大政党にまとまっているように見せていて、中身はバラバラのようにも感じます。

その形だけの芝居のような大統領選もどうなるか。

どちらからも疎外されたように感じる人々が相当数を占めているように見えます。