死海文書と言う名前だけは聞いたことがありましたが、その内容などはまったく知らないままでした。
今回、イスラエルのヘブライ大学で学び学位を取ったという専門家の解説を見ることができました。
死海文書というものは、一言で言えばユダヤ教経典の写本ということです。
もちろん、それはキリスト教の旧約聖書とも重なる部分が多いのですが、書かれた時代は西暦紀元前2世紀ほどから紀元1世紀の間と言うことですので、キリスト教と言うものはまだ成立していないのですから、ユダヤ教経典のミクラ、またはタナフと呼ぶべきでしょう。
死海というのはイスラエル東部の地球で最も海抜の低い湖面を持つ湖で、非常に塩分濃度が濃いことで有名です。
死海文書と呼ばれるものはこの死海の沿岸にほど近いワディ・クムランと言う洞穴で、1946年に付近に住むパレスチナ人の羊飼いの少年たちによって発見されました。
彼らはそれをベツレヘムの商人に売りに行き、幸いにもその一人が教会の主教に譲ったことでこの写本の価値が明らかになりました。
これらの写本は間違いなく紀元前1世紀のものであり、それはそれまで知られていた最古のヘブライ語写本と比べても1000年以上古いものであったということです。
置かれていた環境が奇跡的に保存に適していたために、2000年近い時を経てもあまり損傷が無く発見されました。
これらの写本を書いた人々は、発見されたクムラン洞穴にほど近いところにあるヒルべト・クムランという遺跡に暮らしていたユダヤ教のエッセネ派と呼ばれる教団だと考えられています。その後の修道院と同じような共同体生活をしていたそうです。
しかし、西暦68年にローマ軍が攻め寄せ、滅ぼされるのですが、その寸前に大切な経典を洞穴に隠したものと思われます。それがそのまま残ったのでしょう。
なお、クムラン宗団と呼ぶべき人々はイエスキリストともほぼ同時代に生きていました。イエスと宗団が直接関わったという記録はないのですが、厳しい修道院的生活を送っていた人々とイエスとは共通する点も多く、互いにその存在は意識していたのではないかと推測されるそうです。
2000年には死海文書の一部が日本で公開されたということです。本書はその興奮も冷めやらぬ時に書かれました。ユダヤ教だけでなく、キリスト教の人々にも大いに参考になったことと思います。