爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ハガルとサラ、その子どもたち ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対話への道」Ph.トリブル、L.M.ラッセル編著

旧約聖書で、ユダヤ人のはるかな祖先の族長としてアブラハムが登場します。

彼は妻のサラとの間にイサクという息子をもうけ、それが代々つながってユダヤ民族となっていくということになるのですが、実は聖書にはそこに関わるエピソードが書かれています。

サラはすでに老齢となっても子供ができなかったために、アブラハムの子孫を作ろうとして奴隷女のハガルに子供を産ませます。

ハガルはイシュマエルという息子を産むのですが、それで思い上がりサラをないがしろにしたためにサラの反感を買います。

そして、サラにも子供ができ、息子イサクを産んだためにハガルは追い出されることとなります。

ハガルの息子イシュマエルは生き延びてこちらも子孫が繁栄します。

 

サラの息子イサクからの子孫がユダヤ民族であるというのがユダヤ人の教義ですが、キリスト教徒もそこに割り込もうとしてきました。

そして、実はイスラム教徒もそのイシュマエルの子孫であるという言い伝えをクルアーンコーラン)に残しています。

 

ただし、このような先祖についての議論というものは、これまではアブラハムからの男系子孫についてのみ語られてきました。

そこには、実際にアブラハムの子を産んだサラとハガルのことすら考えられることは少なかったようです。

 

この本は、そういったこれまでの宗教論とは異なり、「すべて女性の宗教学者」、それもユダヤ教キリスト教イスラム教の人々が集まり、アブラハムとサラ、ハガル、そしてその息子たちについて、特にサラとハガルへの観点から議論した内容をまとめたものです。

 

現代の異教徒日本人の目から見ると、旧約聖書とはユダヤ人の物語で決まりという感覚ですが、ユダヤ教ばかりでなく、キリスト教イスラム教もその成立の直後から神の啓示をうけ人々の(ユダヤ人ばかりでなく)祖先となったアブラハムについては、様々な話を作り出してきたようです。

 

そこには、その時々の各民族の都合と道徳感などに支配された解釈というものが行われてきました。

初期のユダヤ教徒の解釈では、サラがハガルと息子を追い出したことを正当化し、ハガルの態度がそのような報いを受けることになったとしています。

キリスト教徒たちの解釈はかなり折れ曲がったものになっており、3世紀ごろにはハガルの子孫がユダヤ教徒でありサラの子孫はキリスト教徒になったとされています。

これは、パウロの書いたアレゴリーを利用し、アウグスティヌスが論じたことです。

イスラム教徒は逆に、ハガルの子孫を重要視し、それがアラブ人になりイスラム教徒となったとしています。

 

なお、中世になると子孫を作るためとはいえ、妻が居ながら奴隷女に子を産ませる(妻の公認の基)ということ事態についての反発も起き、議論されることとなりました。

 

近代になり、アメリカの黒人奴隷から解放されたアフリカ系アメリカ人たちは、ハガルの子孫を自分たちの祖先と考えるという、「ハガルの取り込み」を行なってきたようです。

これには、ハガルが実際に奴隷身分であったということも関わっていたようです。

聖書というものに対する執念のようなものも感じられます。

 

昔から争ってばかりのようなユダヤ教キリスト教イスラム教ですが、その根本は極めて近いということがよくわかります。

 

ハガルとサラ、その子どもたち―ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対話への道

ハガルとサラ、その子どもたち―ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対話への道