爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ツタンカーメン」大城道則著

著者は古代エジプトが専門の歴史学者です。
古代エジプトといえばツタンカーメンと言う名が出るのが普通でしょう。一番有名なファラオかと思いますが、その実体はほとんど知られていないのではないでしょうか。墓が無傷で見つかったとか、若くして亡くなったとか、それが暗殺であったとかいう程度の話しか聞いてはいないでしょうが、詳しく見れば結構異なる話も出てくるようです。

ツタンカーメン古代エジプトでも一番繁栄したと言われている第18王朝の最後の頃の王で、紀元前1300年くらいに生きていた人です。その前後3代くらいのファラオは直後のファラオから名前を徹底的に消されると言う処遇を受けました。そのため歴代ファラオの一覧というものにも表れなかったりしたこともあり、以前はほとんど知られていなかったのですが、20世紀初頭になりカーナーボン卿とカーターにより未発掘であった墓が初めて発掘され、残された黄金のマスクや副葬品によって最も有名なファラオとなりました。またミイラの状態から撲殺されたのではないかと言う推測もされたのですが、これはその後の研究で否定されているようです。

ツタンカーメンは正しくは「トゥト・アンク・アメン」と言う名であり、これは「アメン神の生きている像」という意味だそうです。しかし、その名は元は「トゥト・アンク・アテン」であり「アテン神」を信仰の対象としていました。アメン神の信仰が当時の主流であったのに対し、太陽の化身であったアテン神の信仰というものはツタンカーメンの父親のアメンホテプ4世により強力に進められました。これは当時のアメン神信仰の神官勢力が強くなりすぎたためにその対抗上なされたことのようです。そうしてアメンホテプ4世はアクエンアテンと改名し、さらに都をアメン神から離してアマルナへ遷都しました。これらの改革は旧勢力との軋轢を生みそれがその後の歴史に影響することになります。
アクエンアテンの死後、スメンクカラーと呼ばれるファラオが即位しますが、これは最近の研究では実はアクエンアテンの王妃でネフェルティティと言う名で知られている「ネフェルトイティ」と考えられています。ネフェルティティは彫刻家トトメスの作った彫像が発見されたことで良く知られています。
ツタンカーメンの生母はネフェルティティではなく別の女性だったようですが、ネフェルティティはツタンカーメンに実の娘のアンケセナーメンを娶わせ後継者とします。この辺のところは近親結婚が多かった古代エジプト王族の風習もあり非常に分かりにくいところです。
ツタンカーメンのミイラに殴られたあとがあるということで殺害説が出たのですが、それはどうやら見間違いのようで実は戦車の事故で骨折しさらにマラリアにかかって死亡したということのようです。しかし、その年齢は19歳であり、少年王という年ではないにしても若い死ではあったようです。

残されたアンケセナーメンは息子がなかったために敵国のヒッタイトに王子を一人養子に貰うと言う手紙を書いたと言うことです。これがエジプトのファラオになったホルエムヘプの反感を呼び、さらに神官勢力の反感も重なって3代の王の名を消すと言う処遇になったということです。

3000年以上前のエジプトでの王家の出来事ですが、かなりの点は記録がたどれるために詳しく研究がされているようです。日本などでは2000年前のことも曖昧なままになっていますが、記録も残っていなければ仕方ないことなのでしょう。