爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「図解 関ケ原合戦までの90日」小和田哲男著

関ヶ原合戦は1600年に現在の岐阜県関ヶ原で東西両軍の合戦が行われ、これで天下の大勢が決まり江戸幕府成立へ大きく動き出したと言えます。

その合戦の様子というのも、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に決まったということは大体分かっていますが、その他のことについてはあまり知られていないのかもしれません。

 

この本では、関ヶ原の合戦を中心にして、その前からの各大名の動き、全国各地での戦い、調略や説得の数々など、この歴史の大きな出来事の周辺も含めておそらく全国のすべての勢力が関わった様子を図解でわかりやすく示しています。

 

そのまとめ方も、合戦の日1600年9月15日を±0日として、そこから何十日前、何日後の出来事といった具合に示されているため、さらに解りやすいものとなっています。

 

記述されている出来事のうち、もっとも早いものは「豊臣秀吉死去 2年前」です。

関ヶ原の戦いが起きるまでの、契機となるのはこれでしょう。

そこから家康の諸大名を取り込もうという動きが激しくなります。

 

反家康の勢力の対抗策も動き出しますが、豊臣家自体はそれに関わろうとしなかったために強いものではありませんでした。

官吏としての性格の強かった石田三成が中心となったために、豊臣家恩顧の大名も多くは東軍に加担することとなり、戦いの前から勢いの差が大きかったと言えるでしょう。

 

家康が隙を見せて石田らの開戦を誘った上杉攻めですが、これに付随して東北地方でも多くの戦いが起きていたということはあまり有名では無いかもしれません。

しかし、上杉、伊達に最上などの大名を巻き込んでの戦となっていました。

 

また、黒田を中心とした九州の戦いも激しいものだったようです。

これは、黒田の野望もあったようで、関ヶ原の形勢が決するまでに九州を平定してしまえばそのあとは歴史が変わっていたかもしれません。

 

関ヶ原の戦いのあとの、島津勢の有名な「島津退き口」もはっきりとは知らなかったので非常に参考になりました。

しかし、東軍に突入してうまく伊勢街道に逃れたとはいえ、その後は大阪までの退路でやはり大きな犠牲を出しながらの後退だったようです。

 

やはり、日本の戦争史上でも最大と呼べるような戦いであったということが分かりました。

 

 

「人はなぜ、同じ間違いをくり返すのか」野崎昭宏著

著者の野崎さんは、数学を専攻したのち電電公社でコンピュータの研究に従事、その後大学に戻って数学教育論などを研究されました。

論理学の解説書も著されており、「詭弁論理学」という本は私もかつて読んだことがあります。(書評はまだ)

 

この本は、数学などを直接扱ったものではなく、心理学的な分野の話ですが、教育というものの現在の問題点を捉えており、参考となるものでした。

 

「間違い」というものを、ここでは「いくつかの選択肢があり自主的に選べる状況でありながら、最適ではないものを選ぶ」こととしています。

このような「間違い」というものは、大きなものになれば人が死に、国が滅ぶということにもなりかねません。

しかし、「学校」という場はそのような「間違い」をして、それを繰り返さないように成長するということができるところです。

「間違えさせる」体験をさせて、それを取り戻す方法を身に着けさせることが、教育の本質かもしれません。

「間違い」をしてこそ、それを必死に考えるということが能力向上につながるのです。

 

しかし、現在の教育はどうやらこういった目的を見失っているようです。

かつては、大学入試などで「難問・奇問」といった問題が時々見られました。

これはプラスに捉えられることはなく、それを出した大学などは批判を集めてしまいました。

しかし、こういった難問は「考える力」がなければ解けるものではなく、単なる暗記ではどうしようもないものでした。

 

それを批判して「難問・奇問」を無くす意味で作られたセンター試験などは、教科書を全部暗記すれば高得点が取れるものとなってしまい、現在の受験対応もそれに沿って行われています。

予備校などでの指導も「これだけ覚えれば合格」ということだけを追求し、「考える力」などは無用のものにしています。

 

こういった方向では、模擬試験などで点数が低かったとしても、それは「まだ暗記が足りない」だけの問題となり、「間違った考え方をした」ことにはなりません。

「間違い」を犯せば、それを反省して考え、より成長することが可能ですが、「まだ暗記が足りない」なら「もっと丸暗記しろ」というだけになってしまいます。

実は、今では数学でもそのような指導がまかり通っています。受験数学も丸暗記の科目と言えます。

 

このような受験を通り抜けてきた現代の大学生たちは、考えるという訓練ができておらず、大学での研究などにはほとんど力を発揮できないようです。

研究への財政投入の少ないことが問題とされていますが、どうやらそれ以上に研究者の資質低下が問題のようです。

 

間違えたことを活かして成長するには、徹底的に考えるということが必要になります。

著者の我田引水でしょうが、数学者にはその資質があり、色々な方面で活躍が期待できるとか。

ただし、そのためには間違えて失敗した時にきちんと反省するということが必要です。

しかし、世の中には反省ということをまったくしようとしない人たちも多く、それが本書題名にもなっている「同じ間違いをくり返す」人です。

そのような人は学校だけでなく社会にもたくさん居ます。

上司にそういった人を持つということも多いようです。

うまく対処するのも必要なことのようです。

 

人はなぜ、同じ間違いをくり返すのか (知と学びのシリーズ)

人はなぜ、同じ間違いをくり返すのか (知と学びのシリーズ)

 

 

「鬼がつくった国・日本」小松和彦、内藤正敏著

鬼という言葉は、乱暴者、悪者という意味でも使われますが、ここでは歴史の上で使われてきた、朝廷や幕府といった政府に敗れて辺境や域外へ追われた者や、主産業であった農業に従事することは許されずに差別され賤業につかされてきた人たち、(芸能も含まれる)などを指します。

 

社会の中枢部からは差別されたものの、実際には日本という国を作る大きな力を持っていたとも考えられるということです。

 

そういった、周辺部の文化とも言うべきものを、民俗学者の小松さんと写真家の内藤さんが対談しながら描いていきます。

この本の出版の1985年当時は、内藤さんも民俗文化専門の写真家ということでしたが、その後は大学での教鞭も取るようになったようです。

 

長らく都であった京都は、天皇が住み朝廷が置かれましたが、そういった「光」の部分と同時に「闇」の部分も備えていました。

あちこちに魔界と呼ばれる空間があり、陰陽師なども活躍したと言われています。

そのような闇の世界には、権力闘争で破れた人々が落ちていきました。

貴族たちが怨霊を恐れていたということはよく知られています。

 

「まつろわぬ者」も鬼と言われるのですが、東北地方は最後まで大和政権に反抗し、制圧後も隙きがあればと狙っているかのように思われていました。

また、修験道というものも、信仰を集めながらも各地を転々として政権の支配を受けているとも言えない状況でした。

役小角もそういった反逆者としての顔も持つものでした。

 

江戸時代にはそのような闇の世界もかなり小さくなってしまったようです。

しかし、幕末になるとまたぞろぞろと這い出してきたと言えるようです。

現代でもなにかあると顔を出す、そういったものかもしれません。

 

鬼がつくった国・日本―歴史を動かしてきた「闇」の力とは (光文社文庫―NONFICTION)
 

 

「ブッダの旅」丸山勇著

本職がカメラマンという丸山さんが、ブッダのゆかりの地を訪れ多くの写真を撮っています。

新書ながら多くのカラー写真でブッダの足跡をたどるというもので、非常に美しい写真を見るだけでも楽しいものです。

 

ブッダは紀元前5世紀に、現在はネパールとなっているカピラヴァットゥの釈迦族の王の子として、ルンビニーというところで産まれました。

その写真には、その後作られたマーヤー夫人堂と呼ばれる施設が写っていますが、現在は荒れているそうです。

 

その後家族を捨てて出家し修行をするものの苦行では悟りは得られないということに気づき、スジャータ―という娘から乳粥の供養を受け悟りに至ります。

 

そういった、修行の地、スジャータ―と出会った地、その後伝道した地などを次々と訪れ写真として残していきます。

 

霊鷲山という聖地も実際にあったということが再認識されます。

涅槃の地クシーナガールも当時と同じような静寂の中にあるようです。

 

インドでは仏教は早い時期に衰えヒンドゥー教が栄えますが、仏教の遺跡もことさら破棄されるということもなく残っているようです。

それにしても、2500年という年月が経過してもその場所が分かるというのは広大な大地だからでしょうか。

写真でみるその場所も当時そのままのような風情に見えます。

 

カラー版 ブッダの旅 (岩波新書)

カラー版 ブッダの旅 (岩波新書)

 

 

「日本人と漢字」笹原宏之著

テレビでは漢字のクイズといった番組も時々見かけますが、日本人の漢字というものに対する姿勢はその本家の中国人、また同じような状況を経てきた韓国人と比べてもかなり異なるようです。

 

この本では、漢字の歴史という面から、中国での漢字の誕生と発展、そして周辺各国への伝播ということも扱いますが、主題はやはり日本での漢字の変化と多様性、そして日本人の漢字に対しての思い入れといったものです。

 

日本語の乱れということが言われますが、言語というものは時代により移り変わるものです。

言葉も変わりますが、文字も変わっていきます。

著者の若い頃に、「秋桜」という歌が流行りました。

まだ中学生で言葉の変化ということも受け入れられなかった著者は、辞書にも載っていないような「秋桜=コスモス」という言葉に怒ったそうです。

しかし、大流行した歌とともに、この読み方も全国に認められ、そのうちに国語辞典にも載ったそうです。

その時点の辞書の記述だけが正しいということはなく、世間の後追いをするのが辞書だということです。

 

仏教はインドで生まれ中国には後漢の時代に伝わりました。

外来の思想を取り入れるにあたり、中国では言葉ごと受け入れなければなりませんでした。

しかし、インドではフェニキア系の文字が使われており、言語の系統も全く中国とは違います。

そこで仏教用語も読み方をそのまま当て字をして中国語化したものが多くなりました。

摩訶般若波羅蜜多といったものがそれですが、般若の元の言葉パンニャーの意味をとって「智慧」という言葉も使われます。

 

日本に漢字が伝わったのは諸説ありますが、1世紀頃と考えられます。

有名な金印、奴国王印で、そこには篆書で文字が書かれています。

日本人はヤマト言葉を話していたのでしょうが、漢字を伝えた中国人の話から、どのような事物がその文字に当たるかということを習い、「山」という漢字は「サン」と読むが「やま」という意味だということが分かってきます。

この「訓読み」という漢字の使い方を発明したのが日本人の特性でした。

 

また、漢字の元の読み方を「音読み」として取り入れ、そこから「表音文字」としての使い方も作り出してしまいます。

万葉仮名がそれですが、その後漢字から一部を取り出した「片仮名」、漢字全体を変形した「平仮名」という文字を作り出します。

さらに、近代になりヨーロッパの国と交流するようになると、アルファベットも使うようになります。

このように、同じ言葉を幾通りにも表記できるというのも現代日本語の特性となっています。

 

そして、日本人は漢字を「自分たちの文字」と意識しています。

中国から伝わった文字ということは認めていても、自分たちの文字として使い、様々に活用しています。

韓国とはこの意識がまったく違っていて、韓国人はあくまでも漢字を自分たちの文字とは考えず、「訓読み」のような使い方も発達させませんでした。

そのため、ハングルの使用が広がると漢字使用を止めてしまうということにもなりました。

 

漢字やカナ、アルファベットまで使って、日本人は意味というものを微妙に変化させて高度に使い分けるということをしています。

辞書的な意味で使うデノテーションという使い方ではなく、その周辺的な意味のコノテーションという使い方ということです。

「幸福」「幸せ」「ハッピー」という言葉は辞書的にはほぼ同様の意味を持つのですが、実際に使われる現場では同じではありません。

その違いを日本人は注意深く嗅ぎ取るように使っています。

 

漢字というものに対するイメージも日本人が持つものは独特です。

日本人は、漢字をよく知る人は知識人だと考えます。

しかし中国人はそのような感覚は持っていないそうです。

面白いもので、すでに平安時代にそのような感覚があったということは、枕草子紫式部日記の記述に表れているということです。

さらに、「漢字が好き」という人もたくさんいます。これも中国人には文字を好きとか嫌いとかいうように捉える感覚がないようです。

 

最近の子供の名付けなどでは、「キラキラネーム」といったおかしなものも出てきました。

漢字の使い方は常に変化し続けるとは言っても、あまり変な変化は困ったものです。

著者は「自由」と「放埒」とは違うと書いています。

心して使いたいものです。

 

日本人と漢字 (知のトレッキング叢書)

日本人と漢字 (知のトレッキング叢書)

 

 

「目からウロコの自然観察」唐沢孝一著

ほとんど自然などないような都会でもよく見れば動物や植物の姿を目にすることができます。

そういったものをじっくりと観察するという人も多いようで、その中から色々な生物活動の様子にふれることができます。

 

そういった、何気ない身近な自然というものを観察すると何が分かるか。

結構知らなかったことがあるようです。

 

著者の唐沢さんは、東京の江戸川にお住まいのようです。

いつもの散歩のルートの途中で、建物が取り壊されて空き地ができました。

すぐに次の建物が建てられてるわけではなく、しばらくの間は放ったらかしになりました。

すると、すぐに多くの雑草が繁茂してきます。

メヒシバ、エノコログサスベリヒユといった植物ですが、これらの種子はどこからやってくるのでしょうか。

実は、建物の下に埋め込まれていた長い間にも、種子は何年もの間生き続け、チャンスを待っていたのです。

ようやく建物が取り壊されて、邪魔物が無くなると一気に芽を出しました。

都会であればそれほど長くは空き地のままでは居られませんが、もしも5年10年となると徐々にススキやセイタカアワダチソウといった多年生植物に移り変わり、やがてアカメガシワ、センダン、クワといった木本植物に移行していくそうです。

 

神奈川県大磯町の海岸にはアオバトが飛来し、海水を飲む場面が見られるそうです。

遮るものもない海岸で海水を飲むという行為は、実はアオバトにとって非常に危険なことです。

ハヤブサなどの大型肉食鳥類が上空から狙っています。

しかし、その隙をついて海水にありつきます。

他の鳥類などでは、海水を飲むということはありませんが、アオバトには必須です。

アオバトの主食は果実であるために、ナトリウム不足になるため、海水を時々飲むことが必要なのだそうです。

 

日本では生け垣というものは住宅の周囲に限られているようですが、イギリスでは畑地や牧場の周囲を生け垣が囲んでいます。

これを「ヘッジロー」と言いますが、これがあることでイギリスでは生物多様性が向上しているようです。

国土の70%以上が畑地・牧場であるイギリスでは、生け垣がなければ畑の作物や牧草だけが植生となり、多様性が低下するそうです。

 

 稲刈りをしていると、多くの鳥が集まってくるのは知っていました。

それを「オートライシズム」と呼ぶそうです。

鳥や動物が人間の活動を積極的に利用して利益を得ることだそうです。

この場合は、サギがコンバインの稲刈りの際に飛び出してくるカエルやイナゴを狙って集まっています。

多くはシラサギなのですが、シラサギを呼ばれる鳥類の中でもアオサギチュウサギに限られており、ダイサギコサギはほとんど集まらないということです。

これは、シラサギの中でも細かい違いがあり、特にクチバシの形が異なり、カエルやイナゴといった生物を好むのがアオサギチュウサギであるからだそうです。

 

日頃、身近に見かける生物にも色々な話題があるものです。

 

 

「北方謙三の『水滸伝』ノート」北方謙三著

作家の北方謙三さんは、ある時期から中国歴史の作品を手がけるようになり、最初に「三国志」を書いたあとに、「水滸伝」を書きました。

とはいえ、水滸伝自体はすでに広く読まれており、自分独自の水滸伝を書き上げるに当たっては様々な工夫などを考え、通常のものとは一線を画するものとしたということです。

 

そのような作品を作り上げる上での姿勢や考え方、工夫の数々を一冊の本としたのが本書です。

小説家を目指す人には参考になる?かどうかは知りません。

 

著者が最初に「水滸伝」を読んだのは中学生の時だったそうです。

その後も何度も読み返してきたのですが、小説家となってからそれを読むと色々な点に不満を覚えるようになりました。

それは、まず時制が統一されていないこと。

もともと、水滸伝は多くの伝承や伝説をまとめ上げたようなものですので、時間の進み方があちこちで違いがあり、矛盾が多く存在します。

 

また、原典の性格として、「梁山泊に集まるまでの物語」という点があったために、すべてのメンバーが揃うまでは108人全員が一人も死なないという不自然さがありました。

そして、その後、敵対していた宋王朝から罪を許されて官軍になる「招安」という待遇を受けるのですが、官軍となってからはメンバーが続々と戦死してしまいます。

これも不自然でした。

 

このような「水滸伝の掟」はあっさりと捨てて、「北方水滸伝」として新たなものとして作り直したということです。

 

そして、登場人物のキャラクターも多くのメンバーで大きく変化させ、独自の性格にしています。

梁山泊のリーダー、宋江も原典ではそれほど強くもない、切れ者でもない。

これは、中国のリーダー像というものから来るもので、リーダーは茫洋としてつかみどころがない方が大きく見えるということがあります。

しかし、それではつまらないので、かなり性格を変え、人の心を惹きつけるような者として描いたそうです。

 

梁山泊には数千人の軍勢が居たことになりますが、その資金源がなにかということは原典にははっきりとは示されていません。

これではリアリティー欠如になりますので、著者はそれを「闇塩の販売」にしました。

それで、メンバーたちも闇塩商人としての性格も付けられ、存在感を増すことになります。

 

歴史小説では戦闘場面も大きな比重を占めますが、実は著者も読者も戦場の実際を知る人はいません。

そこにリアリティーをもたせるというのも難しい話ですが、著者は「ありえないことは書かない」ということを基本にしています。

例えば、三国志諸葛孔明は戦場でも馬車は輿車のようなものに乗っているイメージがありますが、それで戦争の指揮ができるはずはないので、三国志を書いている時には孔明も馬に乗せたそうです。

 

なお、とは言っても「絶対にありえたこと」だけで物語を書いていくと、話が窮屈になってしまいます。

そこで「ありえること」を基本に、「もしかしたら、ありえたかもしれない」程度までは許して書くと良いものになるようです。

 

北方さんの「水滸伝」、有名な作品ですが、その執筆にあたってはこのような準備と工夫を凝らして当たったのだということは興味深いことでした。

 

北方謙三の「水滸伝」ノート (生活人新書 300)

北方謙三の「水滸伝」ノート (生活人新書 300)