爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「デジタルメディア・トレーニング」富田英典、南田勝也、辻泉編

本書は2007年の出版ですので、もう10年前になりますが、その時点はインターネットやケータイなどが爆発的に広まりだしてからおよそ10年が経過した頃でした。

多くの人がそのデジタルメディアの波に飲まれながら、上手く使いこなすというよりは翻弄されているという状況で、どのように付き合っていくかということを整理して見せるという趣旨の本でした。

 

編著者はメディア論、コミュニケーション論などが専門の大学教授などです。若い人向けに例題や実習風に味付けされている体裁となっています。

 

メディアとしては、「ケータイ」(PHSも含む)、「ホームページ」(ブログ、掲示板も含む)、「文化作品」(音楽や小説)、「ビデオゲーム」という枠組みで捉えられています。

まだ、SNSはさほど大きくは広がっていなかったからか、独立して取り上げられては居ません。

 

それぞれのメディアは「敵か味方か」と説明され、敵としての性格、味方としての性格の双方を解析されています。

 

ホームページについての記述は今でもさらに大きな問題となっていることを含みます。

すなわち、そこに書かれていることは決して正しいものばかりではないこと。

(ほとんど嘘ばかりというものもあります)

かつての新聞、テレビなどのメディアは一応それを作り出す編集者があり、またゲートキーパーという記述の間違いを防ぐ機能がありました。

ホームページにはそういったゲートキーパーは無いのですが、それが分からないまま無批判に内容を受け入れてしまう危険性が付きまといます。

 

しかし、ホームページの持つ双方向性というものは、従来のメディアにはほとんど存在しなかった性格であり、これは有効活用すべきものでしょう。

 

 

ネットコミュニケーションについて言えば、当時から大問題であった「出会い系サイト」など、若者に危害が及ぶ可能性のあるものとの付き合い方は今でも同様です。

そこでは「匿名性」というものが作用する状況が、危険にも有益にもなってきます。

 

デジタルメディア・トレーニング―情報化時代の社会学的思考法 (有斐閣選書)

デジタルメディア・トレーニング―情報化時代の社会学的思考法 (有斐閣選書)

 

 この本の出版以降、スマホの普及というまた大きな変化が起きています。ケータイとインターネットがさらに融合したような状況になり、また常にネット接続状態になるという点も大きいと思います。どのような未来が待っているのか。

 

 

 

「兵法 勝ち残るための戦略と戦術」小和田泰経著

兵法と言ってもいろいろな種類のものがあるのでしょうが、ここでは主に中国の古代の戦国時代に成立したものと、その後それから派生したものを扱っています。

 

本書は、兵法書と兵法家、そしてその内容をコンパクトにまとめて記しており、兵法というものを概観するには手頃なものかもしれません。

 

 兵法というとやはり「孫子」でしょうか。

春秋時代の末期に呉に仕えたと言われる孫武の兵法と言われていますが、実際は誰が書いたか明らかではありません。

また、孫武の子孫と言われる戦国時代の孫臏の兵法を指すこともあるようです。

 

戦国時代の魏に仕えた呉起の「呉子」も有名ですが、これも誰が書いたかはわかりません。

 

他にも有名な将軍や軍師といった人々の名で書かれたものも数多くありますが、黄帝太公望管仲といった名前を借りていても実際にまとめられたのは戦国時代以降であり、どれほど当時の事情を取り入れているかは疑問です。

 

 

兵法といっても、戦術の記載だけに留まらず、国の治世から臣下の統率等、さまざまな面の記述が含まれているのが普通で、総合的に国力を上げて他を圧倒するという思想が見えてきます。

よく知られている言葉ですが、孫子の「兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり」とか、呉子の「内に文徳を修め、外に武備を治む」といったものはそれを表しています。

 

 

なお本書後半には実際に繰り広げられた戦いの数々の経過も述べられていますが、これらの戦いがあったことはおそらく間違いのないことでしょうが、どこまで兵法というものを応用していたのでしょうか。

 

「生兵法は怪我の元」という言葉どおり、兵法に通じていたとされた戦国時代の趙の趙括がそれで秦に大敗した長平の戦いというものを見ると、兵法の意識も強かったであろうし、それに頼った人々の失敗も数々あったであろうとは思えます。

 

兵法というものを歴史を通して見ていくということも面白いことですが、それ以上に兵法家にとどまらず様々な思想を生み出した中国の戦国時代というものの面白さの方をより強く感じてしまいました。

 

兵法 (Truth In History)

兵法 (Truth In History)

 

 

「21世紀日本の格差」橘木俊詔著

著者は経済学の中でも労働経済学、公共経済学といった分野がご専門の方です。

 

あとがきに書かれていますが、およそ10年前に日本にも大きな格差ができているとして問題になった時期があったものの、その後世間の関心は薄れたようでした。

しかし、最近になってピケティの「21世紀の資本」やアトキンソンの「21世紀の不平等」が出版され、さらにディートンが2015年ノーベル経済学賞受賞といった格差についての話題が多く取り上げられるようになって、日本でも再び格差問題への関心が高くなってきました。

2015年にピケティが来日した時に、著者は講演のコメンテータを務め、直に対話もしたことで大いに刺激を受けたそうです。

 

そこで、ピケティならびにアトキンソン、ディートンの業績を紹介し、さらにピケティがあまり言及していない貧困層についての分析、成長か分配かの問題、健康格差・老老格差といったことを論じたのが本書であるということです。

 

 

ピケティの議論は、比較的単純な経済理論を現実の統計に当てはめて、富の格差が拡大している状況とその理由をうまく解析しているのが特徴です。

多くの資本主義国を200年以上にわたるスパンで分析しており、その現実妥当性は高いものと言えます。

ただし、著者から見たところ、ピケティがあくまでも高所得者の動向から格差拡大を見ようとしているのが気になるということです。

日本の現状などを見る場合には、やはり貧困層の問題を中心に据えるべきだという立場です。

 

アンガス・ディートンは2015年にノーベル経済学賞を受賞しましたが、その主要な受賞理由は発展途上国における格差・貧困問題でした。

また彼は健康格差の分析というものに着目して先進国と発展途上国の差を解明しました。

著者はディートンの議論に刺激を受け、日本の国内での高所得者低所得者の間の健康格差の分析を行いました。

 

アトキンソンの「21世紀の不平等」は日本語版は2015年に出版されましたが、その他の言語でも十数カ国で翻訳が進行中ということで、今後注目を世界中で集める可能性があります。

労働者の賃金格差や、社会保障制度の充実策といった方向の議論をしており、政策提言も行っています。

著者がその15の政策提言のうち日本に特に必要としているのは「所得税の累進度を高める」「相続税と資産税を確実に徴収する」「最低賃金を引き上げる」「児童手当を充実させる」「年金や医療などの社会保障制度のさらなる充実を」といった点です。

 

 

本書はそのあとの部分で、「日本の格差の現実」「富裕層への高課税は可能か」「格差解消と経済成長はトレードオフか」「高齢者の貧困の実相」という問題を扱っています。

それぞれ、非常に興味深い論議がなされていますが、詳しい紹介は略します。

 

 

日本が格差社会かどうかという点は、否定する論者も居るなどまだ議論が続いていますが、実は貧困というものを定義するには2通りの方法があります。

それは「絶対的貧困」と「相対的貧困」というものであり、前者は人が最低限生きていくために必要な、食料・衣料・光熱費・住居・健康の支出の総額がいくらかという視点に立脚し、最低限の生活のためにどの程度の所得が必要かということを定めて貧困線と定義し、それ以下の所得しか無いものを絶対的貧困とするものです。

 

しかし、日本ではその厳密に定義された絶対的貧困というものは存在していません。

これは計測上の課題が多くある上に、価値判断・政治判断が必要なために手を付けられていないということです。

他の先進諸国では政府によって貧困線の定義と計測が提唱されています。

 

相対的貧困とは、国における所得分布に注目し、中央の順位にいる人の所得の一定割合以下の所得しか無い人を貧困者と定義するものです。

具体的にその割合はOECDでは50%、EUは60%という値を使っています。

 

 

格差の影響がどう出るか、いろいろな議論がされていますが、OECDがその分析結果を公表しており、格差の存在が経済成長率にどのような効果を及ぼすかが報告されています。

それによると、格差の存在が経済成長率を上げたと見られるのは、アイルランド・フランス・スペインの3カ国のみで、他の日本を含む16カ国では格差の存在が経済成長率を引き下げているということです。

つまり、格差を解消しようとすれば経済成長率も上げられる可能性があるということです。

一般には、高額所得者への課税を減らすことが経済成長につながるかのようなことが言われ、その政策が取られることが多いのですが、実は逆であるようです。

これは、格差拡大により所得の低い家庭では子供の教育もできず、その子が成長しても高い能力が期待できない影響が大きいと言えそうです。

 

21世紀日本の格差

21世紀日本の格差

 

 格差という問題を非常に分かりやすく論じている本だと感じます。

ピケティの本も大きな話題になりましたが、日本の状態を説明するにはこちらの方が適しているのでしょう。

 

「観光立国の正体」藻谷浩介、山田桂一郎著

外国人旅行者が2000万人を越え、国も観光立国という方針を打ち出し力を入れているようにも見えますが、その実、内容は非常にお寒いもののようです。

 

この本は、エコノミストとして活躍されている藻谷さんが、スイスのツェルマットに在住しガイドから始めて様々な観光産業に携わり、日本でも観光業のコンサルタント活動もされている山田桂一郎さんとともに作り上げた本です。

 

スイスは文句なしに観光業の先進国と言えるでしょうが、そこでは住民自ら地域の価値を高め、多くの観光客に満足して帰ってもらい、またリピートしてもらうという意識が徹底しています。

しかし、日本では旧態依然とした観光産業が今だにあちこちに残存し、わずかな補助金に群がるという状態のところが各地に残っています。

 

このような日本の観光を厳しく批判するこの本も、作り上げるまでは相当な時間がかかったようです。

それは、「好例」として取り上げようとした観光地が、本を書いている間にその地域の自治体首長が交代してしまったり、観光産業の指導者が入れ替わってまた「地元ボスゾンビ」が復活してしまったりということで、元の木阿弥になる例が頻発したそうです。

国からの補助金頼りの地方という構図がここでも横行し、自立しようとする人々の足を引っ張るという図式がどこでも見られるようです。

それでも、山田さんの提示する観光産業による地域の自立ということは、非常に魅力的な将来かもしれません。

そのためには、地域全体が相当変わらなければ。

 

 

 

スイスという国は今でこそ確固たる地位を占めているようですが、かつては山岳の貧乏国であったようです。

なんとか生き残るのに必死だった国が、主にイギリス人が観光客として訪れることで生き延びることに成功しました。

しかし、観光客というものは気まぐれなものですから、スイスという国を魅力のある場所にし続けるということを国民全体が共通の目標とし、それを維持していくということを最優先にしています。

スイスの観光価値は、値段が安いことではありません。逆に少々高くても質の良いものがあるということを重視しています。

サービスも、商品も、質の高いものを提供するということで、スイス全体に高品質という印象を持たせ、ブランド価値を高めました。

 

しかし、観光立国などと唱えている日本はどうでしょうか。

日本の観光業は落ち込み続けています。90年代をピークに宿泊数、消費額ともにずっと下落しています。もはや国内旅行というものは国民から見放されているとも言えます。

しかし、日本の観光業者はこの低迷は景気のせいだと考え続けています。

 

山田さんに言わせれば、日本の観光業がダメになった理由は、「一見(いちげん)の客を効率よく回すことだけを考え、客の満足度を上げるとか、リピーターを獲得するという努力を怠った」からです。

特に、高度成長期からバブル期にかけて団体客でにぎわった観光地で顕著です。

 

長期滞在する客に地域でのさまざまな体験をしてもらうという方向の旅行ができる場所がまだまだできていません。

長期どころか、3泊も続けて泊まると出す料理が無くなる旅館がいまだに多くあります。

旅行業以外のサービス業では「リピーターあってのサービス業」というのがビジネスの常識です。しかし、旅行業ではそれがまったく通用しません。

画一的な団体旅行が主流だった時代の感覚のまま、今でも営業しているところが多いのですが、すでに団体客のシェアは全体の1割まで減っています。

 

 

「観光でまちおこし」と言ったことが良く言われます。

しかし、これも大きな間違いです。

観光だけでまちおこしなどということは不可能です。実際はまったく逆で、「本当の意味で地域が良くなると、観光客もやってくる」ということです。

地域の生活文化、伝統風習、自然環境、地場産業など、その地域の魅力が増せばそれを見に来る観光客も増えるということです。

観光産業だけが何かしようとしても上辺だけのものになりかねません。

 

観光用の食材、ホテルの備品なども日本では安いものを求めて各地から購入するのが普通ですが、スイスでは地元で調達するのが原則です。そうやって、地域内でお金を回すということが、地域の活力を上げ、その魅力を上げることにつながります。

地元の商店街や企業が軒並み不況で、ホテルだけ活気ある状態では観光客が来ても町に出る気もしません。

ツェルマットでは条例で自動車の乗り入れを禁止し、馬車と電気自動車のみが走ることができます。

その電気自動車も大手自動車会社が開発したものをそのまま導入したわけではなく、1960年代に地域内の会社で作ったものを供給しました。

日本の観光地で一番欠けているのはこのような「地域内でお金を回す」という考え方のようです。

 

 

また、日本の観光地はどこでも同様ですが、世界の富裕層を迎える体制がまったくないのももったいない話です。

世界中で、レジャーだけに年間100万ドル(1億円)以上を使える人が約10万人いるそうです。

1泊数十万円、1食数万円でも納得すればポンと支払い、気に入れば何度でも来てくれるような客が存在するのですが、彼らのための施設は日本には存在しません。

最近ようやくその下のレベルの施設がいくつかできかけていますが、まだまだでしょう。

 

逆に、あふれているのが格安ホテルチェーンです。

こういったチェーンは全国一律の格安価格が売り物ですが、そのためにサービスも切り詰め朝も夜もバイキング料理でどこも代わり映えしません。

地域全体の活性化という意味ではマイナス要素ばかりのようです。

以前からの旅館も価格引き下げ競争に巻き込まれ倒産ということも出てきます。

 

 

 

地域を活性化し観光の魅力を増すということに気付いて行動を始めた人たちも出てきています。

しかし、日本の各地にはこのような動きに逆行し彼らを潰してしまうような「地域ボスのゾンビキャラ」というべき人々が存在します。

地域の権力者で、観光協会などを牛耳ってしまい、うっかり来た客を自分のところに誘導するようなことを平気でしてしまいます。

大型旅館の二代目三代目経営者などでこのような人物が見られるようです。

 

また、そのような種類の人間が自治体の首長に選ばれてしまい、間違った方向に政治を持っていくことも多々あるようです。

日本全体に見られるのですが、住民が政治家を選ぶ基準が間違っています。

経済活性化というものが、国からの補助金獲得だと勘違いしている政治家と、それに騙される住民という図式がどこでも見られます。

 

 

日本の観光は、高度成長時代の団体旅行で大きく形を歪めてしまいました。

バスや鉄道で団体を入れ込み、1泊させてまた次のホテルといった旅行形態で成り立つようなものになってしまい、現代の世界の旅行の形から大きく遅れたままになっています。

問題企業を名前を挙げて例証していますが、JR東海近鉄、そして観光地で言えば熱海、伊香保、伊勢志摩といったところです。

 

近鉄JR東海には客の立場に立ってサービスを考えるというところが決定的に遅れているようです。

近鉄ではクレジットカードが最近まで使えませんでした。また、乗車券はICカードでOKですが、特急券はそれが使えないから現金を出さなければならないなど、外国人には非常に使いにくい状態を放置しています。

JR東海では、紀勢線関西本線に挟まれた区間が第3セクターの伊勢鉄道線なので、外国人旅行者用のJRパスが使用できず、その場で車掌が現金を徴収するということをやっているそうです。日本を嫌いにさせようという企みのようです。

 

 

「おもてなし」という言葉が流行していますが、これも観光業者の都合の押し付けにすぎないところが多いようです。

本当に旅行者の気持ちを調べるマーケティングということを真剣に考えていないので、何を欲しているのかが理解できず、業者が勝手に考えたことを押し付けているだけです。

日本流の固定した接待を誰に対しても同様にしていても、多様な外国人には適していません。臨機応変な姿勢というものが必要でしょう。

 

カジノや統合型リゾートなどという法律もできてしまいましたが、カジノで上手くいっているところなどほとんどありません。

統合リゾートとして良いのはシンガポールのマリーナベイサンズとラスベガス、マカオの一部、その他はすべてうまく行っていません。

カジノ誘致と言っている人を見ると、藻谷さんは「ディズニーランドを見てきた人が、うちの町にも遊園地を作るとダダをこねる」ようなものだと感じるそうです。

 

 

観光立国を目指すのなら、まず「地域の価値の向上」を図ること。そうして地域の魅力を上げてそれを楽しみに来る観光客を増やし、楽しんで帰ってもらってまたリピータとして来てもらう。それが大切なのでしょう。

そのためには、大型旅館や大手旅行会社、鉄道バス会社など、これまでの団体旅行の夢が忘れられない連中の牛耳るような旅行業界から脱却しなければならないということです。

非常に明快な論旨でありわかりやすい本でした。

 

観光立国の正体 (新潮新書)

観光立国の正体 (新潮新書)

 

 

「科学者の目、科学の芽」岩波書店編集部編

これは岩波書店発行の雑誌「科学」に掲載されたエッセイをまとめ再構成されたもので、著者は様々な分野の学者、研究者です。

その多くは自分たちの専門分野の知見から一般社会に広げて見る視野を紹介するというスタイルになっています。

 

まあすべての研究者がこのような文章を書くことができるとは思えませんので、中でも選りすぐりの方々なのでしょう。

それでも、面白いもの、そうでないものはあるようです。どれとは言いませんが。

 

面白かったものからいくつか紹介しましょう。(紹介できなかったものは全部面白くなかったとは言いません)

 

 

 

京都大学教授で生態学が専門の加藤真さんの「人魂の行方」です。

夜は漆黒の闇であるのが普通であった時代には、人魂(ひとだま)と呼ばれる闇の中でほのかな光を放ちゆらめくものがよく目にされました。

昔はもちろん、「亡くなった人の魂がただよっている」と考えられていたのですが、その後科学が広まってくると、「リンやメタンが燃えている」とか、「プラズマ」とかいった科学的解釈も提唱されましたが、どれも信頼できる説明ではありませんでした。

 

ただひとつ確かなのは、かつては頻繁に目撃されていた人魂が明治以降急速に目撃されなくなったということです。

また、数は少ないものの体験談として、人魂を捕虫網ですくったという人の話もあり、すると小さな虫が大量に捕れたということです。

他にもこういった報告をする人は居て、どうもその虫はユスリカであったようです。

さらに、ユスリカに発光細菌が寄生しているということもあったようで、こういったユスリカが密集して飛び立つ蚊柱という現象が起きるとまさに「人魂」のように見えるだろうということです。

しかし、池や沼と言った水環境は急激に失われまたその水質も悪化し、ユスリカも発光細菌も生息しづらい環境になってしまいました。

 

日本列島にはかつては広く氾濫原と言われる地域が残っており、そこには低湿地を好む生物が大量に生息していました。

オニバス、ムジナモなどの植物や、ミナミトミヨ、アユモドキなどの水生生物ですが、こういった生物はほとんど絶滅してしまいました。

もしかしたら人魂を作っていたユスリカや発光細菌も同様の運命をたどったのかもしれません。

 

 

 

東京大学でカラスの研究をしている松原始さんは「あの日カラスは応えたのか」です。

小学校の頃、松原さんは家の上空を飛んでいくカラスを眺め、カア、カアと鳴いているのを聞いてカラスっぽい声を真似し「カア、カア」と鳴いてみたそうです。

するとカラスも空から鳴き返してきました。

カラスたちを見送りながら松原さんは自分がドリトル先生シートンのようになったような気分を味わいました。

 

これがご本人の進路を変えたとまでは言わないものの、ある程度の影響はあったのか、その後大学院からカラスの研究を始めてみると、子供の頃の経験には大きな疑問があったことに気づきました。「果たして、カラスは本当に私の鳴きマネに反応したのか」

そして、その後もカラスの生態研究を続け、音声プレイバック装置を使ってカラスを探すという方法で実地研究をしているそうです。

まだまだカラスの反応を解析するというところまでは行けないそうですが、どうやら「あの日カラスは私の声に応えたかもしれない」という感触は持っているそうです。

何か、子供の頃の体験をそのまま続けて研究されているという、実にうらやましい人生が垣間見えます。

 

 

「生存のジレンマ」地球流体力学がご専門の木村龍治さんの文です。

捕食者から身を守るためには透明になるのが一番なのですが、そうすると生殖の対象の相手からも見えなくなります。

このジレンマを乗り越えようとして、海洋プランクトンのカイアシ類のサフィリナという種のオスは透明な外皮の内側に1ミクロンほどの6角形のタイルを敷き詰めたような構造を持っています。

その構造に光が当たるとある方向に光を放射し輝いて見えます。これは物理学で言う干渉光で、メスは特定の方向にいるオスを見つけることができますが、その他の方向から見るとオスは透明にしか見えません。

 

また北海道奥尻島の近海はホッケの生息地ですが、ホッケはプランクトンを食べています。

5月にプランクトンが大発生するのですが、プランクトンは海岸近くに浮いているのでホッケは海底から水面まで泳いでいかなければならないのですが、すると海面近くに待ち構えているカモメなどの鳥に襲われます。

それを避けるため、ホッケは数万匹の群れが集まって一斉に海水を下に蹴り、水流を起こして水面のプランクトンを海底に引き込むということをするようになりました。

これで、水面まで浮上しないでプランクトンを食べることができるようになりました。

 

ただし、カモメという天敵は回避できましたが、最大の天敵「漁師」にとってはホッケの居場所がすぐわかるという最悪の状況になり、獲られ放題になってしまいました。

 

他にも楽しい話が満載です。

科学者もこういった話を一般人に伝えられるような能力があったほうが良いですね。

 

科学者の目、科学の芽 (岩波科学ライブラリー)

科学者の目、科学の芽 (岩波科学ライブラリー)

 

 

 

「ルボ 雇用劣化不況」竹信三恵子著

最近読んだ「ピケティ入門」という本が面白かったので、その著者の別の本を読んでみました。

 

「ピケティ入門 「21世紀の資本」の読み方」竹信三恵子著 - 爽風上々のブログ

 

とは言っても竹信さんの本としてはこの本の方が古いものです。

2009年の出版で、同年の労働ペンクラブ賞を授賞されています。

 

内容は急激に悪化している労働事情についてのルポであり、読んでいて気分が悪くなるほどの状況の紹介です。

最近はよく「ブラック企業」などということが言われていますが、この本を読んでいると日本中の企業、そして役所なども皆「ブラック企業」なのではないかと思います。

 

 

バブル崩壊後の不況の中で、日本企業は2002年以降特に「人件費削減頼みの経営」に陥っています。

そのためわずかに経営が上向いていても、それが労働者の苦難の賜物であるとは思わず、構造改革や経営努力のためだと言うのが政治家や経営者ですが、実は労働者の苦痛以外によるものではありません。

その結果、国民の収入も減少しているために消費が活発化するはずもなく、消費不況が続いています。

そのため、さらに人件費削減に走る企業が相次ぎ、ますます労働環境の悪化を招いています。

 

労働者の苦難はまず、派遣労働者と言われる人たちに降りかかりました。

彼らは派遣切りをされるとすぐさま住まいすら失います。ホームレスに直行せざるを得ず、2009年にはそういった失業者を対象とし派遣村といった場所の提供も行われました。

 

派遣労働者は雇用されていたとしても非常に弱い立場で働かされており、職場で怪我をしてもまともに対応してもらえないという状況も生まれています。労災を避けるという派遣先会社の都合だけを優先し、なかったことにされるということもあります。

そんな中で怪我もまともに治療されない結果身体を壊して仕事を失う人も出ています。

 

小売業などでは、ほとんどの店員がパートやアルバイトとなりました。

そのため、顧客と対応するのもほとんどが非正規社員ですが、客の側からすればどれも同じ社員に見えます。

しかし、その接客能力は低いものであり、中には客の要望をまともに店側に取り次ぐことができない店員も居るとなると、客の店に対しての印象も悪化するばかりです。

客も品物の価格の安さばかりを求めるとこのような店員ばかりの店ができてしまいます。

 

低収入の非正規職員が多いというのは、民間ばかりではありません。

役所などの公務員が勤務していた現場でも非正規職員が増え続けています。

自治労の調査によれば全職員に対する非正規職員の割合は1984年には5%以下であったものが、2006年には20%近くにまで増加しています。

彼らの多くはフルタイムで正規職員と同様に働いていても年収200万円未満の低収入です。平均年収は下がり続けています。

 

正社員の環境悪化も増すばかり、さらに「名ばかり管理職」という人件費削減策が横行し、入社後わずかで管理職とされて残業手当の支給をされず、さらに毎日長時間の勤務で身体を壊す人たちが続出です。

病気になっても雇用を継続されると言ったかつての慣行は無くなり、病気になれば退職を強いられるといった状況にもなっています。

 

かつては労働者の権利を守るという立場であった労働組合も変質してしまいました。

会社がつぶれれば労組も無くなるという危機感から、労働条件を悪化させても会社業績の向上に協力するというのが労組の主流となってしまいました。

 

 

ヨーロッパでも労働者解雇がしやすいと言われているのがデンマークです。

しかし、そこには日本とは全く異なる労働者保護の仕組みがあります。

正当な理由があれば解雇は可能なのですが、そのためには再雇用のための職業訓練費用の会社負担が必要であり、さらに最長4年の失業給付が存在します。

そういった安全ネットなしに解雇や労働条件緩和といったところだけを真似しようとしているのが日本です。

 

かつての日本は安定した職を持ち収入も多い男性が安全ネットであり、女性や若者が低収入であっても一家としては収入を維持できるという体制でした。

しかしそのような家族というものが崩れていったのに加え、男性の安定収入も怪しくなってきました。

このような社会を救う道はあるのでしょうか。

 

ルポ 雇用劣化不況 (岩波新書)

ルポ 雇用劣化不況 (岩波新書)

 

 

 

「株式会社の終焉」水野和夫著

資本主義という経済体制はもはや先が無く、それに気付かないままに続けられている、成長信仰による延命策はすべてさらに傷を広げるものだという、私が常日頃考えていたことと非常に近い内容の書籍を次々に出版されている水野さんの本です。

これまでも数冊の本を読んで感銘を受けました。

 

sohujojo.hatenablog.com

 

さて、本書は2016年9月の発売で、まだ温かいような新刊と言えるものです。

内容は、資本主義が資本の自己増殖ができなくなった時に、その主役である株式会社というものがどうなるかというものです。

一言で言えば、従来型の株式会社には未来はありません。特に、現金配当というものはできなくなります。

したがって、もっと配当を出せと迫る株主という存在も存立できなくなるでしょう。

 

限界労働分配率という指標があります。

これは人件費を付加価値で割ったものですが、この値は1963年から1986年まではほぼ1.0程度で安定していました。

バブル期には急上昇し、1998年に1.43まで上昇したのですが、その後労働規制の緩和や企業リストラの増加で、低下し続けて2004年にはマイナス値となり、現在までマイナスのままです。

 

仮に労働分配率が1.0のままで推移したとし、人件費総額を試算してみると2014年度は58兆円となり、実際の値の51.4兆円を6.6兆円も上回ります。

これは本来は労働者が手にするはずの所得だったのですが、実態は株主や経営者に流れ込んでいます。

 

さらに、安倍政権が採用した円安政策で企業利益は大きく増加しましたが、輸入物価の上昇をもたらし国民生活を苦しくさせました。

さらに日銀がとったマイナス金利政策は、日本の国債の価値を下げ、その保有者(結局は預金者や保険の契約者であり国民全体です)の利益を政府や外国人に渡しています。

また、これで住宅建築が進み景気上昇につながるという目論見もあるのですが、実はこれで住宅が過剰になれば将来の住宅価値が下落し不良債権となる怖れも強いものです。

 

 

さて、それでは本書主題の「株式会社」とはなんでしょう。

この歴史的な経緯の説明というのは、非常に簡潔でありながらダイナミックな動きを感じさせてくれるものであり、知識として知っておくべきことでしょう。

これを間違いなく要約する力は私にはありませんので、書かれていた中で印象的な言葉だけ紹介します。

 

パートナーシップ資本主義というものは、11世紀のイタリアに始まったそうです。

これは地中海資本主義とも言えるものですが、地中海世界という閉じられた世界の中で有限空間を前提として動いていました。

しかし、16世紀になり新大陸というものが大きく世界の(ヨーロッパのですが)経済に影響を強めていくと、これが株式会社資本主義というべき近代資本主義に変質していきます。

これはどんどんと拡大していった新大陸というものを取り込んでいるために、無限空間が前提となってしまいました。

さらに、蒸気機関や電信の発明により移動と通信の速度上昇により世界中を巻き込んだ経済展開ができるようになります。

 

そして、企業は巨大化していきそれに必要な巨額の資本調達を求める企業家と、高いリターンを求める資本家が株式会社という形態を選択したのですが、それはたかだかこの150年に過ぎません。

 

株式会社は「無限空間」を前提としなければ利潤極大化が不可能なのですが、IT革命とグローバリゼーションはかえってこの地球を「閉じた世界」としてしまいました。

無限空間はもはや存在せず、「有限の地球」しか残っていないのです。

こうなると「成長」自体が軋轢を生むことになり、数々の事件も引き起こしています。

フォルクスワーゲンの不正、日本の家電産業の数々の不正会計などもその結果です。

 

 

20世紀に、民主主義国家は共産主義国家や全体主義国家に勝利したように見えました。

しかし、その実はシュムペーターが指摘しているように、「租税国家」から「債務国家」への転落でしかありません。

債務国家とは、「現実にはまだ存在していない金融資源の投入によって社会的紛争を解決する国家」(シュトレーク)ということです。つまり、将来の税収を今使っている日本のような国家のことです。

 

 

預金はローリスクローリターン、投資はハイリスクハイリターンだと言われていますが、預金者が間接的に保有しているのは日本国債です。

預金の4割に相当する506兆円が国債であり、それが暴落すれば預金も吹っ飛びます。

ローリスクと言われている預金は実はかなりのハイリスクであり、それにも関わらずリターンはほぼ0というのが本当です。

 

 

地球が「有限」であることが現実となった現在、成長というものは終わりました。

会社というものも、これを前提としてあり方を考え直していかなければなりません。

 その「取るべき道」の概要も示されています。

 

初期時点

マクロ経済がゼロ成長であるなら、企業利潤、雇用者報酬、減価償却費も前年と同額となります。これが出発点です。

しかし、それ以前に積み重なった歪みは同額に留めること無く是正しなければなりません。

 

第1段階

1999年以降の新自由主義のために歪んでしまった労働と資本の分配を見直す。そうすると企業利潤は当分はマイナスとなります。

 

第2段階

それ以外の日本経済の問題点も解消しなければなりません。

日本は資本を過剰に抱えすぎました。それを是正します。

具体的には過剰な内部留保金を減らしていくことです。

そのためには過剰分に対する資産課税を行うことです。

 

こういったことを行うためには「減益計画」を作り、「資産課税制度」を動かす必要があります。

 

減益でも良いとなると過剰な資本を集める必要はなくなります。海外から投資を受けることなどはかえって有害となります。

そのためには、現金配当はやめて現物配当にする。そうすれば株主も現地住民ばかりになるでしょう。

このような提案は成長主義者からは問題にならない「後ろ向き」思考と批判されます。

しかし、どちらが前で後ろか、逆転しかねないのが歴史の転換点である現在かもしれません。

 

価値観の大きな転換が必要となるということです。

「より寛容に」が「より合理的に」に代わっていくでしょう。

 

株式会社の終焉

株式会社の終焉

 

 非常に刺激的な内容の本でした。