爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「雑談のルール」松橋良紀著

「雑談」というと、職場などでの無駄話と考えて否定される場合もあるかもしれません。

しかし、著者の松橋さんから見ると、雑談というのが非常に有効なものであり、営業トークなどでも雑談なしには成立しないものだということです。

 

松橋さんは、もとはそれほど話し上手というわけでもなかったそうです。

営業の仕事をしたときも、話がうまくできずに営業成績もひどかったということです。

しかし、コミュニケーションを心理学的に捉える方法に目を開かされ、営業成績も上昇、その後コミュニケーション技術を教えるセミナーを実施するようになったということです。

 

未知の人と話をするような営業職についている人も多いのでしょうが、かなりの人は「人見知り」だそうです。

お客さん相手に商品説明はできても、それ以外の話は気軽にできないのだとか。

 

しかし、客の側から見ると商品説明だけの営業マンというものはなかなか信じることもできず、購入をしようという気にもなれないのです。

 

そこを埋めるのが雑談であるということです。

初めての相手に対しても30分は雑談をしてから商談を切り出せば、営業成績も違ってきます。

 

とは言っても、未知の相手が何に興味があるのか、何を話題にすれば乗ってくるのか、それがわからないから皆苦労をします。

この本では、話題の作り方、相手を引き込む話し方等々、かなり具体的な方法まで伝授してくれます。

雑談で、最初はなにか一つきっかけを掴み、そこからどんどんと広げていくのだそうです。

そうすると、そのうちに相手が一番興味を感じるポイントにも到達できるとか。

 

なお、雑談の達人という人達が考えていることは大体同じのようで、それは「できるだけ相手にしゃべらせること」だそうです。

自分の話題ばかり話していると、相手も飽きてきます。それよりも相手が話したくなるような話題を見つけ、うまく誘導して自分から話すように仕向けること。

人は自分だけ話すような人には警戒感を抱くようです。

 

著者はまた「一期一会は大事にするな」とも書いています。

出会ったこの一度の機会を大事にしようというのが、よく言われることですが、それよりもその人に二度三度と会っていく機会を設けるほうがより絆を深めることができるそうです。

 

確かに真実の一部をよく捉えているなと感じさせるものでした。

 

 

あたりまえだけどなかなかできない 雑談のルール (アスカビジネス)

あたりまえだけどなかなかできない 雑談のルール (アスカビジネス)

 

 

 

「世界一深い 100のQ」ロジェ・ゲスネリ、ジャン=ルイ・ボバン他著

色々な質問を並べてそれに答えるという本は時々見かけますが、その多くはどうでもいいようなネタや薀蓄といったものを扱う気楽な読み物です。

しかし、この本は科学の難問を次々と並べ、それに科学者たちが答えるという本格的なものです。

ただし、フランスの科学者がフランス語で書いたものであり、日本人の科学に対して抱く疑問点とは若干違いがあるのかもしれません。

 

扱う分野は多岐にわたりますが、多くは自然科学分野のようです。

並べ方もランダムを意識したのか、前後の質問につながりはないようです。

 

第1問は「声帯移植はいつ可能になるのか」で、医者のジェラルド・ファン氏が「すでにある患者に実施されて良好な成績を収めた」と答えており、

第2問の「先史時代の人類は何を考えていたのか」という質問とはまったく関連はありませんが、なんとなくつながっているかのようにも思えます。

なお、この質問に古生物学者のジェラルド・ファンさんは「10万年前の現生人類になった時に大きく変わった」と答えています。

 

「生物の種とは現実か、それとも机上の空論か」というのは面白い問題です。

有性生殖をする生物では、生殖できる集団を種とするということになっています。

しかし、別種とされている生物の間でも雑種を作ることができる場合も多く、それは最初の前提を崩しています。

まあ、机上の空論とまではいかないのでしょうが、生物の差というものは連続的に変化しているので、どこを境にするかという問題なのでしょう。

 

「治療にはリスクがあるのか」

医学研究者のローラン・ドゥゴスさんは明確に答えています。「ある」

そして、その中でも薬剤耐性菌による院内感染は病院の中でもリスクをかなり上昇させています。

ヨーロッパでは産後の退院が非常に早いということは知っていましたが、それもこの院内感染対策であったようです。

その他の病気の場合でもできるだけ入院期間を短くする対策が取られています。

 

非常に高度な内容を短い解答で答えていますので、専門外の人はなかなか分かりにくいかもしれません。

そうすると、この本の対象読者というのは誰なんでしょう。

 

世界一深い100のQ いかなる状況でも本質をつかむ思考力養成講座

世界一深い100のQ いかなる状況でも本質をつかむ思考力養成講座

 

 

「平成最後の紅白」が「桑田とユーミンの昭和ソング」で良かったのか

みそか紅白歌合戦、私はほとんど見ずにいつもどおりに10時には寝ましたので知りませんでしたが、最後に桑田佳祐松任谷由実が出て大いに盛り上がった?ということです。

 

それについて、演出家の村上和彦さんが東洋経済オンラインに書いている記事が面白かったので紹介します。

toyokeizai.net

「平成の最後を飾るにふさわしいフィナーレ」とスポーツ紙などでは絶賛だったとか。

 

私自身は昔からサザンとユーミンは大ファンだったので、まあ良いかと思いそうですが、どうもそういう簡単な問題ではないようです。

 

歌われたのは勝手にシンドバッドひこうき雲やさしさに包まれたなら、おなじみの3曲ですが発表年は昭和53年、48年、49年と、いずれも「昭和の曲」です。

 

そして歌ったのは2人とも還暦過ぎ。昭和最後の紅白だった1988年では、白組最年長が北島三郎の55歳、紅組は島倉千代子の50歳だったとか。

 

これを「平成最後の最高のフィナーレ」と喜ぶのはどう見ても50歳以上、そしてそういった記事を載せるスポーツ紙を読むのもせいぜい40歳以上のサラリーマン。

もはや、「全年代が楽しんで見る紅白」などというものは無くなってしまっているにも関わらず、それが存在するかのように思い込んでいる(またはそのフリをしている)のでしょう。

 

もしも、SMAPがいれば平成そのものの大スターだったのですが、それが使えなくなったNHKの苦渋とも書いています。

 

「米津玄師」が誰かもわからない中年以上が喜ぶような紅白は若者は見ようともしない。

閉塞感そのものというのも間違いないようです。

 

「池上彰の メディア・リテラシー入門」池上彰著

最近「リテラシー」という言葉をよく聞くようになりましたが、この本は「メディア」に対するリテラシー

本の帯にあるように「テレビ・新聞・インターネットにだまされない」ということです。

 

昔ほどは新聞やテレビの報道を完全に信じ切ってしまうという人も居なくなったかもしれませんが、それでも繰り返し言われれば影響は受けるでしょう。

そして、昔はなかったインターネットというものは、その正確さはテレビと比べてもはるかに低いにも関わらず、これに影響される人々も増えています。

 

ならば、何を信じるのかというのは難しいことでしょうが、できるだけ広く知識を集めて判断するというしかないのでしょうか。

 

池上さんはNHKで記者として長く働き、その後キャスターとしてTV番組にも出演するようになったため、テレビの裏側というものも熟知しています。

TV番組はすべてが編集されているということも、視聴者がつい忘れがちなことかもしれません。

また、NHKと民放では大きく異なることもあり、NHKが政府に影響される度合いが強いのに対し、民放ではスポンサーとなる大企業などに弱いということも忘れてはならないでしょう。

 

新聞というものは、最近は購読者数が激減しているようですが、まだまだ宅配の部数が多く、これは他の国々と比べても特異な状況のようです。

また、全国紙、ブロック紙、地方紙の存在も大きく、その性格により記事の中身も違いがあるのですが、ほとんどの人は1紙しか読んでいないのであまり気づいていないようです。

 

メディアに大きな影響力を持っているのが、「広告代理店」と「PR会社」だということも、一般視聴者が忘れがちなことです。

多くの記事の裏にはPR会社の存在が隠れています。

多摩川にアザラシが迷い込んだ「タマちゃん騒動」も川の環境浄化を宣伝したいPR会社の思惑から広まったとか。

選挙キャンペーンもPR会社が最初から参画し構成していきます。

企業の不祥事会見のやり方の指南もPR会社が関わるとか。この上手い下手で企業イメージが大きく変わります。

 

アメリカでは戦争キャンペーンもPR会社の企画により動きます。湾岸戦争クウェートからイラク軍を追い出し、解放されたクウェートに報道陣が入ると、アメリカ国旗を振る国民の姿がありましたが、彼らに国旗を渡したのもPR会社だったとか。

 

「イジメ自殺」が相変わらず報道されます。

テレビなどではセンセーショナルな内容で報道することもありますが、これは非常に危険な一面があります。

テレビで「いのちの大切さ」を強調すると、それを見た子供が「それだけ大切なものを投げ出せが世間は大騒ぎしてくれる」と思うかもしれません。

また、自殺した子供の遺書にいじめた子の名前が書いてあると世間はその子や親を批判します。

これも、それを見ていじめに悩んでいる子供が「いじめている奴の名前を書いておけば世間が復讐してくれる」と思います。

自殺を防ごうとして報道しているはずが、模倣して自殺しようとする子供を増やしていることにもなります。

あえて報道を控えることが自殺連鎖を防ぐことにもなります。

 

やはりここでも「リテラシー」を身につけることは必須のようです。

 

池上彰のメディア・リテラシー入門

池上彰のメディア・リテラシー入門

 

 

新千歳空港で欠航に伴う難民発生 誠にお気の毒ですが、航空運行のアキレス腱

1月5日に大雪のために105便が欠航した新千歳空港では、その予約客がいまだに乗り切れずに待たされているそうです。

www.nikkei.com

大雪での欠航というのは北海道などでは避けられないことでしょうから、一冬に何度も起こる事態でしょうが、ちょうど年始の多客期に重なったためにその影響が大きくなりました。

 

ただでさえ、ほとんど満席の状態のため、欠航便が出てもその客を乗せる余地はありません。

臨時便を出さない限りどうしようもないのでしょうが、それも不可能な時期です。

空港の床では毛布を敷いたとしても身体中が痛くなるでしょう。

 

このような状況は本州などではあまりありませんが、冬の北海道と台風時期の沖縄では避けられないことでしょう。

 

私も10年以上前になりますが、関東地域に単身赴任しており、熊本の自宅に年末年始などで帰省する場合は飛行機を使いましたので、この時期の混雑には辟易しました。

飛行機というのは、満席になると定時運行ができないというもののようで、遅れがどんどんと積み重なっていき、夜の便などで帰る場合は到着時刻が大幅に遅くなって接続の列車やバスが無くなるかとヒヤヒヤだった覚えがあります。

予約の超過というのも普通のようで、「1万円で別便に変更していただけるお客様」を必死に探している館内放送も頻繁にありました。

急ぎでなかったら小遣い稼ぎができるのにと思いましたが、こちらも早く帰宅しなければならず一度も応じたことはありませんでした。

 

北海道や沖縄の旅行者の飛行機依存度はさらに増えているのでしょう。

今回のような事態も今後も頻発するでしょう。

新千歳と那覇空港には「難民収容施設」が必要なのでは。

 

「じゃっで方言なおもしとか」木部暢子著

著者の木部さんは、方言の研究を専門とされているのですが、北部九州の生まれ育ちで、鹿児島大学に職を得て赴任した時に初めて鹿児島方言に触れたそうです。

九州の外の人にはあまり知られていないことかもしれませんが、九州の他地域の人から見ても鹿児島方言は独特のもので、(熊本から見ても)昔ながらの話者が話せばほとんど分かりません。

そのような中で鹿児島各地の方言を調査し、その構造や変化を追っていくことで、著者の言語研究も充実していったようです。

 

この本では、鹿児島方言の特徴をいくつか取り上げて、それを通して方言というものの性質も大きく捉えられるようになっています。

また、現代で方言というものが消滅しようとしている点についても、語られています。

なお、本書表題の「じゃっで方言なおもしとか」とは「だから方言はおもしろい」という意味です。

 

 鹿児島方言は、独特のアクセントが特徴ですが、その一つに「質問文の文末が下がる」ということがあります。

著者も最初に鹿児島にやってきた時に非常に戸惑ったのですが、若い人など語彙はかなり標準語に近いものになっていても、イントネーションだけは昔通りということがあり、相手の意図を完全に取り違えるということがあったそうです。

 

東京方言など、他の地域の言葉では、質問文は語尾を上げるということが普通です。

語尾が上がれば質問、下がれば詰問、そして、語尾に「か」という助詞は普通は付けないというものです。

しかし、鹿児島方言では語尾は下がる。そして文末に必ず「か」のような助詞が必要というものです。

ただし、よく調べてみると鹿児島に限ったことではなく、北九州方言や松本・広島方言でもこのような場合があるということで、かつては広く使われていたのかもしれません。

 

否定形で質問された場合、「はい」と「いいえ」の使い方が、日本語と英語とは異なるということは、英語の授業で繰り返し注意されることだと思います。

「郵便屋さんはまだ来ていませんか?」という質問文に対し、

「はい、来ていません」と答えるのが日本語。

「いいえ、来ていません」と(英語で)答えるのが英語ということです。

 

しかし、鹿児島方言ではこのような場合でも「いいえ、来ていません」と答えるのだそうです。

これは、東北地方にもあるようで、ケセン語岩手県南部で使われている)も同様だそうです。

ケセン語を研究している、山浦さんという方によれば、このようなハイイイエが反転する「ウンツェハァ」率は当初は老人に多く若者には少なかったものの、最近ではまた上昇しているとか。

方言というものに対する姿勢が若干変わってきているようです。

 

ただし、このような方言特有の「ハイイイエ」の反転というものが、なんと運転免許などの学科試験に重大な影響を与えているのだとか。

たとえば「軌道敷内を通行してはいけない」という問題文に対して、これが正しいかどうかを判断するのですが、標準語の質問返答体系では、この内容は合っているので「◯」としなければならないのですが、鹿児島方言特有のハイイイエ体系では「✕」になってしまうそうで、それに忠実に返答すると不正解ということになります。

 

ハイイイエではありませんが、沖縄で船舶免許の試験でこれに近いことがありました。

方向を表す沖縄方言では「ニシ」は「北」を意味するのですが、問題文では当然ながら「西」の意味で出題されており、そこで躓いた受験者の老人はそれまで何十年も漁船を操っていたにも関わらず、船舶免許取得ができずに漁業を廃業したそうです。

ちょっと方言に対する配慮が不足していたようです。

 

 

方言は急速に消えていっているようです。

ユネスコが2009年に「消滅危機言語」の調査結果を発表しました。

日本でも、アイヌ語八丈語奄美語、沖縄語等、8言語が危機とされました。

 

なお、このうちアイヌ語以外は日本では通常「方言」と扱われていますが、ユネスコの基準では独立した言語と見なされるそうです。

政治的な思惑も関わり、多くの言葉を方言としていますが、これらは十分に言語としての資格があるとか。

 

そして、「言語の体力」というものを判定していくと、その言語が今後残っていくかどうかが予測できるのですが、日本ではそれらの言語も、他の方言も含めて多くのものが消滅の危機にあるそうです。

 

しかし、木部さんによれば「方言でしか表現できない情景」があるそうです。

標準語だけでは表せないものが地方にある以上、方言は何らかの形で守らなければならないのでしょう。

 

じゃっで方言なおもしとか (そうだったんだ!日本語)

じゃっで方言なおもしとか (そうだったんだ!日本語)

 

 

「私を最後にするために」ナディア・ムラド著

2018年のノーベル平和賞は、「戦争兵器として用いられる性暴力の撲滅を目指す取り組み」を受賞理由として、コンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲ氏と、イラクの少数派ヤジディー教徒のナディア・ムラド氏に与えられました。

 

この本はその一人のナディア・ムラドさんが、その壮絶な経験を描いたものです。

 

ナディアさんは、イラク北部で暮らしていた少数派のヤジディー教徒(本書ではより現地発音に近づけて”ヤズィディ教徒”と綴られています)の一人です。

以前から周辺のイスラム教徒とは様々な軋轢があったようですが、それでもその一画に暮らしていました。

しかし、ISIS(イスラム国)がその地域に勢力を伸ばしていたことで、その生活は地獄のような境遇に陥ることになります。

 

ヤズィディ教とは、イラク周辺に広がる一神教の宗教で、教徒は100万人ほど居るものの周囲の絶対多数を占めるイスラム教からは邪宗とみなされてきた経緯があります。

 

イスラム国が周辺を制圧した時には、その地域のイスラム教徒たちは彼らに反抗しなければその生命を脅かされることはなかったものの、特にイスラム国に邪教徒とされたヤズィディ教徒たちは極めて危険な状況にさらされることになります。

 

ナディアの家族たちが暮らしていたイラク北部のコーチョという村にもイスラム国が来襲します。

圧倒的な武力で制圧され、男性は皆殺し、女性でも中年以上の人々は同様に殺され、若い女性のみは性奴隷として拉致、少年たちは洗脳して自爆テロ要員として使われるということになりました。

これが21世紀の地上で起きることかと思うような、凄惨な状況の描写が続きます。

 

その後、イスラム国の戦闘員でナディアを奴隷として買った者がわずかな隙を作ったことで、彼女は逃亡しなんとか無事に逃れたところまでが描かれています。

しかし、私にはこの本を読み始めた時から、その文字列を読みながらも本書題名にある「私を最後にするために」が頭から離れませんでした。

 

「私を最後にするために」何をすればよいのか。

 

この事件がイスラム国の特異的な性格のために起きたということならば、イスラム国を打倒しさえすれば良いのでしょう。

しかし、このような「戦争兵器として用いられる性暴力」は決してイスラム国などのイスラム過激派だけのものではありません。

 

さすがに、イスラム国やボコ・ハラムのように武装集団の指導者自ら性暴力を押し進め、組織全体が動くということは少ないでしょう。

しかし、集団としては禁止したとしても末端で好き放題ということは、それ以外の勢力によるものでも繰り返し起きてきたのが歴史の事実です。

 

近いところでは、旧ユーゴスラビアでの紛争でも多くの女性が性暴力にさらされたという報道がありました。

それ以外の地域でも、そういった行為はいくらでも見られます。

 

それでは、「戦争はしても、性暴力はするな」とでも国際的に決めますか。

そのような一文を国際的な条約としたところで、守られるはずもないでしょう。

唯一、効果的なのは「戦争はするな」ということでしょうが、これもほぼ不可能です。

 

結局、本書でナディアさんがその悲惨な経験を明らかにしたとしても、その発生を防ぐということはほぼ不可能というのが厳しい現実です。

 

ノーベル平和賞は、ノルウェーのノーベル委員会が人類平和に対して自らの信念に基づき選定しているとも言われます。

ナディアたちを平和賞受賞者としたのは、もちろん彼女たちのような犠牲者をこれ以上出したくないという思いをノーベル委員会自体が強く打ち出したということなのでしょうが、その前途は長く暗いのではないかと感じます。

 

 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―