爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「現代数学小事典」寺坂英孝編

かなり古い本で、1977年出版ですが、大阪大学などで数学教授を歴任した寺坂さんが編者となり多くの数学者を著者として、現代数学のほぼすべての分野を解説しています。

 

もちろん、記述はほんのサワリだけであり、せいぜい術語の解説くらいまでしかできませんが、まあ詳しいことは各分野の専門書に任せてとにかく数学の概観を示したいということでしょうか。

 

したがって、部門としても「数学基礎論」「代数学」「解析学」「幾何学」「トポロジー」「応用数学」を取り上げ、漏れのないようになっています。

 

また、各部門の大数学者と言える人々の略歴なども簡単に紹介しており、ガウスやフィッシャーといった超有名という人たちばかりでなく、初めての女性数学者と言えるロシアのコワレフスカヤなど、あまり名も知らない数学者の略歴も知ることができました。

 

高校までの数学はなんとかこなしたものの、大学に入ってからはまったくついていけなくなった私としては、この辺から数学を捉えなおして挽回をと思ったものでしたが、結局はよくわからないままです。

 

現代数学小事典 (1977年) (ブルーバックス)

現代数学小事典 (1977年) (ブルーバックス)

 

 

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(5) 抵抗勢力は何か そして最弱点は

これまでの説明で、日本の現状では過疎化している地方を中心に自動車社会を解体し自立して自給自足に近い経済体制を取ることができる地域を再生し、脱エネルギー社会に向けたスタートを切ろうという目標を提示しました。

 

しかし、その手段としてあくまでも租税体制の改革ということで進めるということは、税金さえ払えば何をやっても良いということを許すという意味でもあります。

 

自動車関係の各所に現行の数十倍もの税金を課し、事実上自動車を使えなくするというのですが、それでも使いたいという人々が表れてくるはずです。

 

前の話で、意識的に東京などの都会のことについては触れることを避けました。

当然のことながら、ここに住む富裕層の人々はその程度の税金など気にも留めずに自動車使用を続けるはずです。

 

彼らは、また東京で食料自給などということを考えるはずもありません。全国各地からいくら金がかかっても物品を購入しようとするでしょう。

トラックが使いにくくなっても金さえ積めば何とかしようとするでしょう。

 そのような事情ではどうしても金になびく人々も増え、脱エネルギー社会構築の動きがかなり押さえられるかもしれません。

 

 

 

さらに、こういった脱エネルギー無視の抵抗勢力の存在という問題よりもはるかに大きな弱点が存在します。

それは、このような社会でも必ず実施しなければならない各種製造業、(農林水産業等も含む)です。

この連載の最初にエネルギー使用の現状を提示しました。

 

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原油からのエネルギーの半分近くを占める輸送用燃料を大幅削減するために、脱自動車社会を進めるわけですが、それでもまだ原油エネルギーの半分以上は残っています。

家庭用・業務用というものと、産業用石油製品が非常に大きいことが分かるでしょう。

特に、このうち業務用石油使用先の農林水産業が大問題となります。

 

つまり、「石油供給を絞れば農業・水産業等食糧生産ができない」ということです。

 日本の農業が石油漬けであるということは、しばしば言われることです。

重油を炊き続ける温室栽培や、トラクターなどの機械漬け農業、農薬や肥料もエネルギーが無ければ作れません。

農業生産量あたりのエネルギー使用量は世界でも北欧と並んで高いのが日本だそうです。

さらに、水産業なども石油高騰となればすぐに操業中断といった話が出てくるように、石油依存が非常に強い産業となっています。

このように、脱エネルギーで自給自足経済の構築から、真の「持続社会」実現と言っても肝心の食料生産ができないというのが実情でしょう。

 

これをどのようにすればよいのか。農業機械用に限って石油供給などと言っても、貰った方は輸送に横流ししてしまうのも目に見えています。

このあたり、非常に悩ましいところでしょう。

 

 

また、石油を使ったプラスチックというものも現代文明を支える欠くことのできない物です。

もしもプラスチックがなくなればどうなるか。ほぼ社会は崩壊ということになりそうです。

いまさら紙や木で容器や包装資材などを作ろうとしても不可能です。

そうなればあっという間にこの日本でも森林が根絶されるでしょう。

これもすぐに解決できるものではありません。だからこそ、今から将来を見据えて対応策を考え出すべきなのですが、それに取り組むところなどありません。

 

このように、脱エネルギー社会構築のほんの一歩でも、実質的には自動車社会に一石を投じるだけでこのように大変な社会変動になります。

それでも石油消費の半分を減らせるかどうかという程度の効果しか出ないわけです。

このようなことでは、それ以外のエネルギーの削減などはるか彼方の話のようです。

 

これは現代社会がいかにエネルギー依存の度合がひどすぎるかということを如実に示しているからです。

また、現実社会でしょっちゅう語られている「省エネ」などというものも、実質的なエネルギー使用削減などに至るはずもなく、単なる装置メーカーの拡販でしか無いということも示しています。

 

いろいろと、問題点が山積みです。それでも取り組みを始めなければならないのでしょうか。

 

(一旦休憩)

「地理 8月号」古今書院編

また貰い物の雑誌「地理」の8月号です。

 

この号の特集は「◯◯マップを読む・活かす」と題し、6編の記事。

その他に「1967年の神戸土石流災害から50年」「学術用語と教育用語どうちがう?」、「鳥の目で地形や風景を見てみよう」といった記事が並んでいます。

 

特集記事ではやはり災害関係が話題にのぼりやすいようです。

2016年の台風10号による豪雨災害は東北・北海道に甚大な被害をもたらしました。

これについて、駒沢大学講師の平井史生さんは細かい地形図と気象情報から解析し、特に豪雨になりやすい場所で被害が出ていることを明らかにしています。

なお、平井さんは他にも糸魚川の大火災、熊本地震東日本大震災の時の首都圏液状化被害についても論じています。

 

群馬大准教授の青山雅史さんは、地震による液状化被害を読み取るために旧版の地形図を読み取るというアイデアを紹介しています。

現在の地形図だけでは分からないようなその場所の履歴というものが、旧版の地形図を見ることで分かるため、液状化の発生が予測できるのではということです。

 

静岡大学教授の牛山素行さんは長年ハザードマップの開発と普及に関わってこられた経歴から、整備は進んだもののまだ一般に広く普及しているとは言えないハザードマップの今後について書かれています。

1980年代のハザードマップ黎明期には、「このまま公表すれば国民に不安を増すだけ」として公表されないといった事例も多かったそうですが、ようやくその段階は過ぎたものの、まだまだ一般にまでその意味が浸透すると言うところまでは行かないようです。

東日本大震災では「想定外」という言葉が多く流ましたが、実は多くの災害ではほとんどの犠牲者は「ハザードマップで示される危険箇所付近」で遭難しているそうです。

言ってみれば「想定の範囲内」で被害にあっているわけで、ハザードマップの理解が進めば防げたものかもしれません。

 

琉球大学准教授の尾方隆幸さんが書かれている「学術用語と教育用語」という記事はなかなか興味深いものでした。

地球惑星科学といった、複数領域にまたがる分野では、専門用語などの術語の食い違いと言うものが頻発し、時には学術的議論が噛み合わない事態も発生します。

これが、どうやら中学高校などの教育現場にも原因がありそうです。

この分野では、まず教科書会社による教科書の中での不統一というものがあります。

例えば、会社によって「プレート内地震」と「直下型地震」が同じ事例に対して使われていることがあります。

さらに、「地学」と「地理」の分野による名称不統一もあります。

同じ事象が異なる用語で説明されていたり、逆に異なる事象が同じ用語で説明されている例があります。

その上に、中高生の教育現場で使われている言葉が、大学以上の学術分野で使われている言葉と異なる例も頻発しています。

そのような教育を受けた高校生が大学で地球科学系へ進学した場合、いきなり違う用語に接して混乱することがあります。

この記事は連載で続いていくそうです。なかなか興味深い話です。

 

この本には地理学の最先端の研究者の方々の記事が多く、読み応えがあるものでした。

 

地理 2017年 08 月号 [雑誌]

地理 2017年 08 月号 [雑誌]

 

 

「道教の世界」菊地章太著

著者の菊地さんはカトリック神学が専門と言うことですが、道教も研究していくうちにそちらの面白さに捕らえられ、現在は比較宗教学がご専門となってしまったそうです。

 

中国は大きく見ると3つの宗教が力を持っていますが、儒教が社会ではメインとなっています。それに続いて仏教勢力を持つ一方、道教というのは表社会としては公式の体制には入り込んでいません。

 

しかし、民衆の生活にもっとも取り入れられているのはその道教であるという見方もできそうです。

しいたげられた者たちの宗教としては道教がその存在感を示しているようです。

 

そもそも、「宗教」とは何か、道教が果たして「宗教」と呼ぶにふさわしいものかどうか、そこから見直さなければならないのかもしれません。

 

宗教とは、「教義」と「教団」を完備していなければいけません。

創始者がいて、教祖がいて、宗旨があり、聖典が整備され、それにそった儀式が実施される。その儀式を執り行う教団がある。

そういったものが「宗教」の中でも「成立宗教」と見なされるものであり、それを備えていなければ「民間信仰」と呼ばれます。

 

道教は本当に成立宗教となっているのか。その成立年代には諸説ありそうで、研究者によって異なりますが、道教では経典すら十分にはまとめられておらず、また教団組織を構成すると言うことにもなじまなかったために、疑問視される場合もあったようです。

しかし、仏教のような教義と教団が確固な宗教とは別の捉え方をするならば、道教も立派に教義と教団が整備された高等宗教とみなすことができそうです。

 

日本への宗教の伝来では、仏教が最もはっきりと、力強く影響を見せるのに対し、儒教は公式ルートではある程度の道筋が見えるということが言えそうです。

しかし、道教はそのようなはっきりとした渡来が見られず、日本への伝来は疑問視する人も多いようです。

 

そんな中で、中国の医療、それも身体の中に虫が入り込み病気になると言う考え方は実は道教の信仰と非常に強く関係を持っています。

その思想は日本へも伝来しているのは間違いなく、それに対する虫除けの儀式も日本では数多く実施されています。

平安時代から行われている「庚申」の夜の儀式というものは、自分たちもあまり自覚しないまま実施されているのですが、実は道教の思想に基づく儀式だったそうです。

 

この点は「庚申信仰の日本固有説」を柳田国男も唱えており、道教研究者の吉岡義豊が中国撰述説を出してもやはり日本固有説の方が優勢であったようです。

 

他にも、道教が日本に伝来したと言えるのかどうか、影響がどの程度あるのか、といった点はまだ研究もそれほどされていないようで、定説もできていないようです。

 

中国の道教というものはまだ、議論されているものがありますが、日本への影響ということはあまり聞いたこともなかったので、本書は新鮮なものでした。

 

道教の世界 (講談社選書メチエ)

道教の世界 (講談社選書メチエ)

 

 

「博多祇園山笠大全」西日本新聞社、福岡市博物館編

博多祇園山笠といえば、博多総鎮守の櫛田神社への奉納神事で、毎年7月1日から始まり15日明け方の「追い山」でクライマックスを迎える祭として有名です。

 

その起源は800年近く前の鎌倉時代に遡るという記録もあるそうですが、その後さまざまな変遷を辿り現在の形になりました。

そのためか、これまでも全体を紹介できるような資料が少なかったようです。

西日本新聞社福岡市博物館がその持てる資料と知識を持ち寄り、祇園山笠の全体像を描いたと言うものです。

 

祇園山笠は博多の町民にとっては非常に重要な祭祀であったため、古くから数多くの絵画が描かれ、さらに明治期以降は写真も多く撮影されてきました。

こういった絵画、図版、写真を本書冒頭に掲載しています。

これらの絵画では、その細部までの描写も残されており、当時の山の実像、祭の運営方法等、絵画から読み取れるものも多いようです。

 

次章には祇園山笠小史として、まとめられています。

起源には諸説あるようですが、多くが支持しているのが1241年(仁治2年)説です。

この年、博多では疫病が流行したため、祈祷をしたのが始まりということです。

戦国時代には続いてはいたのでしょうが、戦乱の中で大きなものはできなかったのでしょう。

しかし、江戸時代に入ると安定した社会の中で祇園山笠も大きく発展していきます。

それが明治維新を経て明治新政府ができると、山笠も大きな危機を迎えます。

明治5年には福岡県から山笠等の祭の禁止令が出ます。

ようやく明治16年に復活しますが、その頃には電信・電話線、電灯線などが街中に張られるようになり、舁き山ができなくなるという事態になります。

そのために、明治31年には再び山笠中止を県知事が命令するということになりました。

この結果、飾り山笠と舁き山笠の分離と言う、現在の形になるきっかけでもありました。

 その後も戦争時の空襲で町がほとんど焼けてしまったり、その後の区画整理で町の区域が変わったりと大きな危機もあったのですが、文化財としての価値が評価されるようになり今日の隆盛へと向かったのでした。

 

続いて、町ごとの法被や手拭(てのごい)の図柄や、各流(ながれ)の紹介等々、祇園山笠を理解する上では重要なものが紹介されています。

 

さらに山笠用語事典まで備え、この本を持っていれば山笠のことは何でも知ったかぶりできるのではと思わせるものでした。

 

事典の中で、誰もが興味を持つ舁き山笠の舁き手(かきて)の交代について

舁き山笠の重さは約1トン。26-28人で舁くとしても、一人が走れるのはせいぜい50メートル。余力のある間に離れないと、特に表の舁き手は危険だ。転んだら山笠台に巻き込まれる恐れがあるからだ。離れた棒の位置にはそのポジションを得意とする次の人が入り、これを繰り返して山笠は前進する。よく見ると、6本の棒は外側の一番棒が地上から高く、内側の三番棒が低い。二番棒がその中間。背の高い人も、低い人もそれぞれに合ったポジションがあるのだ。

非常に懇切丁寧な説明かと思います。

 

博多祇園山笠大全

博多祇園山笠大全

 

 もう半世紀以上前になりますが、小学生の頃に父の仕事で福岡に住んだことがありました。

町々に飾ってある飾り山を見に行った覚えはありますが、追い山などは「あんなものは子連れで見に行けるものではない」と言う父の考えで見にはいけませんでした。

祇園山笠の全容がわかったのは、福岡を離れてしばらく経ってからのことでした。

しかし、当時父がつぶやいていた「この時期になると仕事にならん」という嘆きが懐かしく思い出されます。

 

「〈見た目〉で選ばれる人」竹内一郎著

「人は見た目が9割」という本が結構話題になりましたが、これはその著者が書いた続編のような本です。

 

前作はその題名からの印象で、「美人は得だね」というだけの本かと思い、まったく触れても見なかったのですが、実は「非言語コミュニケーション」と言うものを扱ったものだったそうです。

 

著者は劇作家、演出家としても活躍する一方、大学で演劇を教えてもいるという人ですが、そこに共通しているのが「非言語コミュニケーション」つまり仕草や表情などで相手に与える印象というものを操作するということです。

これは、当然のことながら俳優という職業の人たちは意識的にしろ無意識にしろ、工夫を重ねていることなのですが、それ以外の人はほとんど考えもしないことのようです。

そして、それを意識的に向上させることができれば、相手に与える好印象が倍増し、それで「見た目で選ばれる」ということになります。

 

前作もこういった内容であったようですが、編集者からのアドバイスで題名を決めたためやはり私と同じように誤解した人も多かったようです。

 

 

「一目惚れ」と言うものは間違いなく存在するものですが、これは単に「美女・美男子」であるからというのではなく、「自分にとって魅力的」であることを瞬間的に判断するからだそうです。

そこでは、表情を読むということを無意識に行なっています。

 

著者は職業柄、多数の人と初対面で会うということを頻繁に行なっていますが、それらの中には「表情の読めない人」も相当数居ます。大企業の社員などはそういった人が多く、これは「表情を見せない」ことを普段から訓練しているからです。

一方、俳優などは表情を見せなければ話にならないのでそれを見せると言うだけでなく、表情を自分の思い通りに作るということもするわけです。それが演技の訓練でもあります。

しかし、ベテラン俳優といえど、自分の後ろ姿がどう見えるかということは分かりません。そのためにも演出家と言う人たちからの指摘が必要になるそうです。

 

「見た目」と言う言葉を本書でも主題としていますが、じつは「見た目」と言うものは相手にしか分からないものなのです。

したがって、自分の見た目がどうであるかということを感じるためには、自分を見てくれる相手の感情を推し量るしかありません。

そのため、そういった心理的な働きを使う必要がない人たち、大学の先生などはこの能力がかえって衰退してしまい、自分の「見た目」に無頓着な人も多いようです。

 

これは能の創始者とも言える世阿弥の言葉にも残っており、「我見の見」と「離見の見」と言われているそうです。つまり、自分が見る自分の像「我見の見」だけでは芸は判断できず、離れたところから見る観客の「離見の見」を意識していなければならないということです。

 

前書「人は見た目が9割」がヒットした頃、メディアでも取り上げられることもあったそうですが、その中で、「見た目を気にしすぎて子どもも整形手術」なる記事があり著者も驚いたそうです。

「見た目」と言う言葉が誤解され、単に「美醜」という意味だけで使われてしまった。

 

美醜というものはどうしても人の外見を左右しますが、実は若い頃に美人と言われてちやほやされた人ほどその感覚のまま年を取り、中年以降にはただ痛々しいだけになる例が多いようです。

かえって、普通以下の外見でも周りから自分がどう見えているかを意識して、表情や仕草など「見た目」を磨くように努めている人の方が最後には勝つのかもしれません。

 

「見た目」で選ばれる人

「見た目」で選ばれる人

 

 

 

市長・市議選公示

私が住む熊本県南の田舎町では、市長と市議の選挙が日曜に公示されました。次の日曜日の投票まで騒々しい選挙戦が繰り広げられることになります。

 

しかし、いつもながらの中身のない主張ばかり。現職市長は相も変わらず中央とのパイプ、新人は市政刷新。どちらも実質のないことは同様です。

 

市議に至っては地元のための一点張り。

数日前から候補者チラシが入ってきたのですが、一人の候補者のこれまでの実績を誇らしげに書き連ねたものを見れば、道路の補修工事ばかり。それしかないの。

 

まあ、国会議員候補ですら選挙の際に言うことはこれと大して変わらず、公共工事をどれだけ引っ張ってきたかの実績?誇示だけですので、市議ではやむを得ないか。

 

それにさらにイライラさせられるのが、地縁・血縁・出身学校等々のつながりを頼っての勧誘です。

私自身はこちらの出身ではなく、まあ他所者ですので直接話が来ることはほとんどありませんが、これが政治と何の関わりがあるのか、疑問に思う人はいないのでしょうか。

 

このような生活密着だけの事に振り回されながら、選ばれた保守系議員や自民党籍議員は疑いもなく自公政府の手先となるだけです。

ここから自公無恥政府の支持が始まっているということを忘れてはいられません。

 

深い意味はそういうものなんですが、とにかくここ数日間は選挙運動のウグイス嬢(婆?)のキンキン声と時たま交じる候補者自身のダミ声の名前連呼の騒音が不快です。