爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

九重と阿蘇

ちょっとバタバタだったのですが、1泊2日で関東方面に行ってきました。

その帰りに飛行機から撮影したのがこの写真です。

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見えている山々は大分と熊本の境にある九重連山です。

 

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こちらはその直後、阿蘇の外輪山と阿蘇市付近で、おそらく右側の山あたりが大観峰だろうと思います。

 

実は、これらの山々は以前の飛行機の保安基準ではデジタルカメラでは撮れなかったところです。

前は、「すべての電子機器は離着陸時には電源を切る」となっていたので、カメラも使えなかったのですが、一昨年?からは携帯電話やパソコンなど電波を発するものでなければ常時使用可能となりました。

 

最近はあまり飛行機に乗ることもなくなりましたが、久しぶりに乗ったらこのような絶景を楽しむことができました。

 

残念だったのは、東京が悪天候で離陸直後にはすぐに雲に入ってしまったことです。

今回は羽田から北方に離陸しそこから旋回しましたので、晴れていれば都心のビル群も撮影できたかもしれません。

 

またチャンスはあるかな。

「日本迷走の原点 バブル」永野健二著

今だに日本経済はバブルの影響から抜け出せないようにも感じられますが、ではバブルとはどういうものだったのかと言うと、はっきりとは分かっていないようにも思います。

 

この本は日本経済新聞で証券部の記者からスタートし経済界を見てきた著者が、バブルの時代にはどのようなことが起きていたのかを記しているもので、中には当時は記事にできなかったことも含まれているようです。

様々な人名、会社名が出てきますが、その当時は聞いた覚えがあったものの正確な内容は知ることもないままでした。

山一證券、真藤恒、営業特金、財テク藤波孝生江副浩正等々、改めてこういった人々が様々な業界、企業で何をやっていたのか分かった気も少しします。

 

バブル崩壊後のあまりにも長い低迷?のためか、バブル時代に郷愁のようなものを感じる人も居るようですが、これがどのようなものだったのか、見直してみる価値はありそうです。

 

なお、私自身はこの時期はちょうど子供が産まれ子育てで精一杯、給料も安くほとんど貯蓄もない時代でしたので、バブルの恩恵などまったく感じることもなく過ごしていました。

知人の中には株で儲けた者も居るという噂は聞いたことがありましたが、ほぼ無縁の状態でした。

 

 

バブルの時代と言えば1985年のプラザ合意あたりから急激な株と土地の暴騰が始まり、89年末に株の最高値を付けた後急落、土地も1年ほど遅れて急落するまでの時期でしょうが、本書はその少し前、バブルの胎動といった時期から語り始めます。

 

三光汽船によるジャパンライン株買い占めという問題が起きたのは1970年9月からのことでした。

本書はこれがそれまでの戦後日本の復興と高度経済成長を支えた日本独自の経済システムが崩壊し、バブルをもたらした時代の到来の胎動であるとしています。

しかし、この問題自体は日本興業銀行児玉誉士夫という裏の顔役の活躍で抑え込まれます。

この興銀とアングラ社会のつながりというものはその後のバブル時代の様々な事件に継承されていきます。

 

ジライン株以外にも70年代には仕手株と呼ばれるグループによる株買い占めとその買い戻しといった株取引の事件が相次ぎました。

その結果、相場師といった人々への風当たりも強くなり日本独特の株式市場も終わることになります。

 

 

国際社会では、1971年のアメリカによる金ドル兌換停止宣言(ニクソンショック)からの国際経済の激変が始まります。

固定相場制が放棄され変動相場制となり、円もどんどんと切り上がりました。

さらに73年のオイルショックで石油価格が急上昇します。

こういった情勢のなかで、アメリカにレーガン、イギリスにサッチャーという新自由主義者の政権が誕生します。

しかし、レーガノミクスと呼ばれる経済政策は本来は政府支出を削減し小さな政府を目指すはずですが、実態は社会保障費は削ったものの、軍事費は拡大したために政府支出は増大していきました。

日本でも中曽根内閣が誕生し、規制改革などの政策を推進します。

金融改革などの政策変更の動き、財界でもこれまでの利ざや稼ぎの株買い占めに変わるM&Aの始まりが動き出します。

 

そして、1985年のプラザ合意がバブルのスタートを告げる号砲となりました。

80年代前半の金融自由化により、資金調達が楽になったためもあり、企業の「財テク」が活発になります。

一方、銀行は収益基盤が弱体化してしまったために、土地取引の融資に活路を見出します。

その結果、株式と土地が空前の高騰を続け、資産価格の値上がりというものを前提とした企業活動が当然視され、堅実な価値観や労働観が失われていきました。

 

85年からの1年間で、円は1ドル242円から150円まで急騰しました。

この時に市場経済の力で産業構造の転換を行っていれば構造改革も可能でした。

しかし、過度の金融緩和政策を行ったことで産業界はそのような構造転換の努力に向かうことなく、ほとんどの企業は不動産投資に向かってしまいます。

これがさらにバブルの痛みを大きくしてしまいました。

 

永田ファンドとか、阪和興業とか、EIEなど、かつて聞いたような気もする企業名が飛び交います。

かなり怪しいことも横行していたようで、それに大企業も巻き込まれていきます。

 

このようなバブルの責任は銀行による土地本位制にありますが、同時に株式の持ち合いを通じて銀行を補完してきた証券会社にもありそうです。

 

1989年12月の大納会で史上最高値の38915円を付けた日経平均株価ですが、翌年早々に急落し10月には2万円割れまで低下しました。

土地価格の急落はやや遅れたものの、1992年には10%以上の下落、その後も低下が続きます。

その年の10月、大手銀行21行の不良債権総額は12兆と発表されました。

 

バブル―日本迷走の原点―

バブル―日本迷走の原点―

 

 

バブルというものが戦後の高度成長のもたらした必然であるということですから、どうしても到来はしたのでしょうが、ここまで破壊的な結果を残したというのはやはり政策の不備が大きかったのでしょう。

このような過ちは二度と起こさないように総括する必要があるのでしょうが、正に現在はバブルを起こして幻の景気浮揚を起こす政策にのめり込んでいます。

何度痛い目を見てもわからないのがこの国民性なんでしょう。

 

 

「そうだったのか 江戸時代 古文書が語る意外な真実」油井宏子著

著者は古文書研究家の方で、前に古文書解読についての本も詠ませていただいたことがあります。

本書は、古文書の読み方ということに留まらず、そこから見られる江戸時代の庶民の姿というものを描き出しています。

 

なお、著者は各地で古文書解読の市民講座なども開設されているそうです。

本書の執筆の発端も、その講座の中で読むことはできてもその意味がよくわからなかった「間の宿」という言葉を調べなおすというところから始まったそうです。

古文書解読というものも、単に書いてある字が何かを解読する(それも難しいことですが)だけに留まらず、その歴史背景を考えていくと相当おもしろいものになりそうです。

 

 

さて、本書はまず江戸時代の古文書の表記法で現代とは違うものを挙げています。

現在は文字の書き方というものは相当標準化が進められており、学校でも宛字を書けば誤答ということにされてしまいますが、江戸時代には宛字のやり放題、かえってその方が普通ということも多々あったようです。

そして、それが「間違い」であるかもしれませんが、かえってそこに「味わい」があると考えると、古文書解読も一文字ずつに面白みが感じられるようです。

 

寺子屋の子供が書いた文書が残っており、そこにお師匠さんが書き込んだ文字に「浮空」とあったそうです。

前後の文章から、この意味は「うわのそら」だということは明らかですが、現在は「上の空」と書かなければ「☓」が付けられるでしょう。

しかし、著者はこの「浮空」は非常に魅力的な表現であると感じています。

心がふわふわと「空」に「浮かぶ」ような雰囲気が素直に表現されていると言えます。

 

 

漢字の書き方でもさまざまな方法が取られており、人それぞれです。

現在でも「嶋」や「峰」という字を「嶌」「峯」と書くことがありますが、その他の文字では見られないようです。

しかし、江戸時代には多くの文字で横に並べて書くところを上下に書くといったことが普通に行われていました。

松、略 といった漢字も上下に書かれている例があり、これも古文書解読の楽しみとなっているそうです。

 

 

 

言葉の使い方も現代とは異なっていることが多く、字が読めたとしても古文書解読が簡単ではない原因となっています。

 

「かけおち」は現代では普通は「駆け落ち」と表記されますが、江戸時代では「欠落」の方が多く使われました。

しかし、その用法の方がさらに多様で、現代ではほぼ「男女二人が恋愛のあげくに失踪」という意味でしか使われていないのに対し、江戸時代ではその他の用法も多いようです。

例えば、労働者(使用人)が奉公先を逃げ出して出奔という場合でも、一人であっても「欠落」したと書かれています。

年貢が払えなくなった農家が家族全員で行方をくらましても「欠落」と書かれました。

江戸時代の用法はかなり幅が広いものであったようです。

 

 

山城国のある村で、農家の小屋から火が出て全焼したという火事があったのですが、それに関する文書が下書き・写しも含めて11点残っているそうです。

とはいっても、その火事は農家の庭先の小屋から出火して延焼もせずに収まったのですが、それでも関連文書かずかずを役所に提出しなければならなかったようです。

さらに、近隣の家々にもお詫びの文書も書かれており、そのような文書のやり取りというものが村の生活の一つであったということがわかります。

 

 

冒頭に挙げた「間の宿」(あいのしゅく)ですが、東海道を例に取ると53次と言われるように53の宿場があったというのが公式の見解ですが、実はその宿場の間にも休憩や宿泊ができる場所がありました。

江戸の白木屋という店の使用人、庄右衛門が店を抜け出し出奔してあちこち歩き回り、その後店に戻ったという事件があったのですが、その調書が残っています。

中山道から東海道とかなり広い範囲を周り、さらに富士山にも登山したというすごい行動力なのですが、その中に「大浜と申す間の宿にて泊まり」という記述があります。

場所は前後の記述から三河御油宿と赤坂宿の近辺と見られますが、よくわからないようです。

このような「間の宿」というものは幕府公認の宿場以外に多数存在していたようです。

江戸時代初期に宿場の制度が整えられた時にたまたま外された場合もありますし、その後宿場の間隔が長いところに自然発生的にできたものもあるようです。

しかし、こういった間の宿が増えると正規の宿場の営業に悪影響が出るということで、禁止されたり、休憩だけに制限されたということがあったようです。

 

 

世間にはまだまだ解読されずに埋もれている古文書が多数あるようです。

しかし、どうやら現在は古文書存続も危機にさらされているのではないでしょうか。

埋もれたまま闇に消える文書が少しでも救われれば様々な知識が残されるかもしれません。

 

そうだったのか江戸時代―古文書が語る意外な真実

そうだったのか江戸時代―古文書が語る意外な真実

 

 

「へんな数式美術館」竹内薫著

科学ライターの竹内さんが「数式」というものについて紹介されているものですが、扱われている数式はかなり高度なものが多く、数学や物理の専門家でなければ本当の意味はわからないものかもしれません。

 

しかし、あくまでも美術館ということで「見て楽しむ」という姿勢で行けばそこそこ楽しめる?かもしれません。

 

なお、私も一応理系ですが数学物理は大学の一般教養程度までしかやっていませんので、もちろんこの本に取り上げられているものはほとんど意味が理解できません。

まあその程度の内容ということで。

 

 

最初に挙げられているのは「E=mc2」(2は乗数)です。

もちろん、アインシュタイン相対性理論に出てくる有名なものです。

このくらいはなんとか聞いたことがあるのですが、

その次の

「⊿p×⊿x≧h/2」  (”h”は本当は”エイチバー”)

になるともう聞いたことすら覚えていません。

これは、ハイゼンベルグの不確定性原理の基本だそうです。

「運動量の測定誤差と、位置座標の測定誤差を掛けたものはエイチバーの1/2以上になる」というものです。

 

こういった調子で続けられますので、読み進むのは簡単ではありません。

 

そういった中で挿話として興味深かったものだけ数点紹介します。

 

指数関数は微分しても変わらないという項目の中で、フーリエ変換について触れているのですが、著者は昔広告関係の分析の仕事をしていたことがあるそうです。

そのときに、TVコマーシャルの好感度調査ということをやり、CMの好感度ベスト10とワースト10の音楽のフーリエ変換をしたそうです。

すると、ベスト10のCMの音楽のフーリエ変換は「1/f自乗」となり、ワースト10のそれは「1/f」であったそうです。

(fは周波数)

周波数の自乗に反比例するということは、周波数が高くなると急激に減衰するというものは、高音成分がなく低音が効いているということのようです。

周波数に反比例ということは、高い音が緩やかに減っていくということになります。

しかし、そうなると好感度というのがどうつながるのか、よく分からなかったようです。

 

 

ロビンソンの無限小数についての話の中で、

「理数系の人間でも大学に入ってすぐ開講される解析学の授業についていくのは大変だ。実際、数学科に進む連中とほんの一握りの学生だけが数学者である教授の講義についていくことができる」

と、非常に実態をとらえた話がされています。そのとおりでした。

 

さらに、「イプシロン-デルタ法」(任意の正の実数εに対し、ある正の実数δを取ると実数xが絶対値(x-c)<δ を満たせば絶対値(f(x)ーf(c))<ε を満たす)

は大学初年度でほとんどの人を数学アレルギーに追い込む。

「そもそも論理学すらきちんと教わっていない大学一年生にこの文章を見せて「わからない奴はバカだ」みたいな態度を示せば、みんなが数学嫌いになっても不思議ではない」

これも正にその通りです。

 

ただし、この「ロビンソンの無限小数」を理解すればこの話も理解できるということですが、どうでしょう。

 

へんな数式美術館 ~世界を表すミョーな数式の数々~ (知りたい!サイエンス)

へんな数式美術館 ~世界を表すミョーな数式の数々~ (知りたい!サイエンス)

 

 まあ、数学というものは嫌いではないんですが、それも大学受験までの数学で、それ以上は良くわからないです。

 

「土の文明史」デイビッド・モントゴメリー著

最近、別のところの記事でこの本の記述について批判的に解説されているものがあり、興味を感じたのでもし行きつけの図書館にあれば読んでみようかと思って探したらありました。

sohujojo.hatenablog.com

そんなわけで読んだのですが、なかなか読みにくいもので一苦労でした。

 

著者のモントゴメリーさんはワシントン大学教授で、地質学者です。

この点は上記記事の西尾さんが、おそらく批判をこめて紹介されていました。

 西尾さんは土壌学者ですので、その自負もあるのかも。

 

 

本書内容を整理すると、「土壌」というものが農業にとっていかに大切なものか。そしてそれはいかに簡単に失われるものか。

多くの文明が肥沃な土壌での農業生産により繁栄し、土壌を失うことで没落したか。

ということを延々と例証されていきます。

そして、現状は化学肥料の施肥という大きな技術で農業生産は爆発的に拡大したものの、それはエネルギー資源の過剰利用による一時的なもので、いずれは有機農業に戻らざるを得ないというものです。

 

とはいえ、前半(というか大部分)の土壌と文明の関係という説明が極めて詳細であり、さらに多数の例を引いており、そこを読むだけで疲労してしまうほどです。

 

実例は2,3にとどめ、”以下同文”でも良かったのでは。

確かに、こういった実例の議論は環境問題などでは特に重要なものですし、それなしのものはまさに「机上の空論」となるかもしれません。

それにしても多すぎた。

 

 

本当に詳しく語るべきは、化学肥料の大量使用で爆発的に農業生産が増大した時点から後のことでしょう。

そこでは、土壌の有機成分はあまり問題とならなくなり、単なる植物の支持体としての役割だけになってしまいました。

 本当ならばすでに崩壊しているべき文明がいわゆる「緑の革命」で延命しているばかりか、空前の繁栄を見せています。

 

このあたりの議論には、かつての農芸化学者の植物栄養に関する多くの研究も関わってくるところです。また、ハーバーボッシュアンモニア合成も大きな意味を持ちます。

 

こういった点はなぜ起きたのか、またなぜ危険なのかということに重点が置かれていればより意味のある議論となったでしょうが、全340ページの大冊にも関わらず最後の50ページほどにちょこっと書かれているだけでした。

 

その後の最終章に、成功した島、失敗した島として森林や土壌をすべて使い果たして崩壊したイースター島文明やアイスランド、ハイチの失敗例を挙げるとともに、成功例としてソ連崩壊時のキューバの有機農業革命を挙げています。

 

ここがまさに、最初に掲げた西尾さんが指摘した誤解の点であり、キューバは決して有機農業だけで成功などはしていないというのが実情だということです。

No.321 キューバの「有機農業」がまた誤って宣伝される危険 | 西尾道徳の環境保全型農業レポート

 

本書にまつわる書評なども結構出ているようですが、この誤解の点が注目され、そこに影響を受ける人も居るようです。

誤解が広がらなければ良いのですが、まあこの本の読み難さではそれほど心配もないか。

 

土の文明史

土の文明史

 

 

「日本語の考古学」今野真二著

考古学とは、「遺跡や遺物などの具体的なモノを通して過去の文化を考える」学問ということです。

したがって、「日本語の考古学」というと、写本や印刷物など、実際に昔から残っているものから過去の情報を取り出すということになります。

 

日本における最初の文学作品である万葉集は、今の学校教科書にも取り上げられているので誰もが知っている歌もあるのですが、それらは普通は漢字かな交じり文で書かれています。

ひらがなというものが成立したのは10世紀初頭頃ですので、もちろん万葉集成立時の表記はまったく違うものでした。

 

しかし、元々は歌と言うのは文字通り歌われたものでしょう。

その後、いつの頃からか、文字にして記録されるようになりました。

万葉集も成立当時の原本が残っているわけではありませんので、いろいろな資料からその課程を想像してみるしかありません。

 

日本書紀の斉明4年の記事に、斉明天皇は詠んだ歌を伝えよ、すなわち記録しておけと命令したというものがあります。

この頃には、歌を記録するという行為が行われ始めたようで、実際に和歌を書いたと見られる木簡が出土しています。

万葉集の歌の詠まれた時期は4期に分けられて捉えられており、第1期は壬申の乱までで代表歌人額田王、第2期は奈良遷都までで、代表は柿本人麻呂、第3期は天平5年までで、代表歌人大伴旅人山上憶良、第4期はその後最後までで大伴家持です。

そして、文字を使って歌を記録するようになったのは第2期からと考えられています。

 

第2期の頃の歌木簡はいくつか出土していますが、その表記の方法は確立しているとは言い難いもので、さまざまな手法が見られます。

 

そのような混乱した表記だった万葉集を、天暦5年に村上天皇の命令で源順や清原元輔などが訓点を施す、すなわち読み方を整理するという大事業が実施されました。

これで成立した天暦古点本が、その後の万葉集写本の起点となりました。

現存する万葉集の写本の最古のものは、西本願寺本と呼ばれるもので、鎌倉時代の後期に写されたものです。

なお、断片的に残っているものでは、平安中期に源兼行によって書かれた「桂本」というもので、「栂尾切れ」と呼ばれてあちこちに保存されているそうです。

 

 

平安時代に入ると多くの文学作品が広まるようになりました。

その中でも代表格は「源氏物語」でしょうが、ではその作者とされる紫式部が書いた原本は残っているでしょうか。

それはまったく存在が知られていませんし、そもそも発表当時も本当にあったのかどうかも不明です。

つまり「紫式部源氏物語の作者」といってもそれを証明することが難しいということになります。

現在残っている源氏物語写本のうち古くて原本に近いと見られるのは藤原定家の写本ですが、それもどこまで原本に近いのかも証明できません。

 

実は、原本がなくても紫式部源氏物語を書いたということは、他の資料から推察できます。

それは「紫式部日記」で、そこに物語の本の書写をあちこちに依頼するという記事があるそうです。

つまり、作者自らがすべてを書いて一気に発行したというものではなく、巻ごとに何人もの人に書写を依頼して作っていったようです。

したがって、そこには書き間違いも出たでしょうし、何種類もの原本が存在した可能性もありそうです。

 

 

なお、紀貫之の「土左日記」(この左の字が使われていたようです)は作者自らが書いた原本が少なくとも1492年までは確認されていたことが分かっています。

この原本からこれまでに少なくとも4回の書写が行われていますが、その中でももっとも原本の状態を反映しているのが、藤原為家が1236年に書写したもので、それを江戸時代に忠実に模写したものが青谿書屋本と呼ばれるものだそうです。

 

なお、藤原定家もこの貫之の原本を見たそうですが、定家が読めなかった字がすでに出現していました。

土左日記はすべて平仮名で書かれていますが、その平仮名の種類というものが貫之の10世紀と、定家の13世紀ですでに変わってきていたということです。

貫之当時に平仮名の「さ」には「左」の行書体から来た字体とともに「散」の行書体からの文字も使われていました。

しかし、11世紀にはその字体は使われなくなり、定家の13世紀にはまったくその記憶も失われていたようです。

 

その他の字にも、字体が複数存在していた歴史があったのですが、その経緯というものは複雑で時代時代で違いがあったようです。

それが、すべてを一つに強制したのが1900年に定められた「第1号表」だったということです。

 

 

「松の木」「桃の木」というのは一つの単語ではなく、複合語というのが現在の普通の語感でしょう。

それに対し、「ヒノキ」「エノキ」というのは複合語とは意識されず、一つの単語として辞書にも載っており、そう扱われています。

 

この問題はすでに7世紀の木簡にも見られるものです。

椿を「ツ婆木」と表記してあるものが徳島県観音寺遺跡から出土しています。

問題は、これは単に「椿」の音(すなわち、”ツバキ”)を漢字に移したのではないということです。

当時の発音では、「キ」の音は2種類あり、それを甲類・乙類と表現すると、「ツバキ」の「キ」の音は「キ甲類」であるはずなのに、「木」の読み方は「キ乙類」であるからだということです。

つまり、「ツバキ」という音をそのまま漢字に移したのではなく、あくまでも「木」の種類であるという認識のもと、あえて発音が少し違っていても「ツ婆木」と表記しているわけです。

 

このような例はその後も数多く見られるとか。これは語源を意識した表記とも言え、「木の種類だから」という意識が影響したんでしょうか。

 

現在の資料はあくまでも書き直されたものということをしっかりと認識していないと、思わぬ勘違いをしそうです。

 

日本語の考古学 (岩波新書)

日本語の考古学 (岩波新書)

 

 

「環境問題を考える」近藤邦明さんが、風力発電の効率、収支についてまとめの記事

「環境問題を考える」というサイトで様々な発信をされている近藤邦明さんが、最新記事では風力発電の問題について書かれています。

http://www.env01.net/fromadmin/contents/2017/2017_03.html#n1183

 

風力発電装置も設置の早いものはそろそろ老朽化が進み廃止されるものも出てきています。

ここに来て、ようやくそういった装置の設置から廃止までの経済収支等が見えてきました。

 

大分県日田市の風力発電装置が、設置から19年経過し老朽化して修理もできなくなったということで廃止されるそうです。

そのこれまでの収支がまとめられているのですが、割高の買取価格で計算しても経済的にも採算が取れなかったということです。

もちろん、エネルギー的に見れば投入エネルギーにはるかに及ばない産出エネルギーであったことでしょう。

 

風の強い山間部でさほど建設エネルギーも要さなかったものでもこの程度です。

 

ましてや、格段に建設コストのかかる洋上発電などはまったく割に合わないことは間違いないことです。

 

近藤さんの記事はさらに詳細に続くようです。

 

なお、この記事を取り上げた理由には私の個人的な思い出もあります。

もう10年以上も前のことですが、たまたま南九州を旅することがあり、枕崎から海岸沿いを北上する途中に風力発電の風車が林立しているところがありました。

そこで少し停車して見てみると、その説明板に書かれている風車自体の大きさに比べその出力のあまりにも小さいことに驚きました。

これはちょっとおかしいぞと思い、当時ようやく普及し始めたインターネットで風力発電などに関する情報を集めるうちに出会ったのがこの「環境問題を考える」というサイトでした。

エネルギーや環境といった問題に目を開かせてもらった契機ともなったのがここです。

その近藤さんがまた風力発電の実情について詳細な分析をされているということです。

懐かしさもありますが、それ以上にこのまま進んでしまっている危機感の方が強いというのが実情です。