本書冒頭に書かれているように、「世界で最も有名なフランス人はダルタニャンではないかと思う」というのが多くの人の意見かもしれません。
ルイ14世などを押さえて堂々の一位となる資格はあるでしょう。
もちろんアレクサンドル・デユマの小説「三銃士」の主人公ですが、彼が実在の人物であることも知られていることではないでしょうか。
しかし、デュマ自身が語っているように、クールティル・ドゥ・サンドラスという作家の書いた「ダルタニャン氏の覚書」という書物を元にして三銃士を書いたデュマはその史実性についてはほとんど調べることもなかったようです。
サンドラスが作り上げたダルタニャンの活躍というものも実は史実は相当歪めて書かれており、実在のダルタニャンとはあまり関係のない話を相当入れて作り上げたもののようです。
そこで、フランス歴史小説をいくつも書いている著者の佐藤さんが出来る限り調査したダルタニャンの実像を一応知っておいてもらおうというのが本書です。まあ、知らない方が三銃士は楽しめるかもしれませんが。
実在のダルタニャンはフランス南部のガスコーニュ地方の出身ですが、小説にあるようにベアルンというところではないようです。
そのそばにヴィッカン・セゴールという町があり、そこで生まれたようです。
ただし、その本名はシャルル・ドゥ・バツ・カステルモールであり、ダルタニャンは母親の実家の姓でした。
カステルモールは貴族とも言えないような新興小貴族で、母親の実家のダルタニャン家の方が少し通りが良かった名前であったためにこちらを称したようです。
シャルルは小説と同様に若い頃にパリに出て軍務に付くことを目指しました。
これは当時の軍隊の状況どおり、ガスコーニュから上京した武人がパリの軍隊を構成していたという事情によるものであり、多くの指揮官はガスコン人であったため、そのつてを頼ってのことでした。
ただし、それが小説のようにトレヴィル殿であったとは言えないようです。
この辺はダルタニャンのパリ上京の時をどこに持っていくかによって変わってきますが、小説の中では1625年としているものの、実際は1630年前後とみられるようです。
その時は史実ではモンタラン卿ジャン・ドゥ・ビルシャテルという人物が銃士隊長でトレヴィルは隊長代理だったそうです。
また、アトス・ポルトス・アラミスの三銃士と出会い友情を結ぶこととなり、彼らはフランス各地の貴族出身とされていますが、このモデルとなった銃士は存在するものの、すべてがガスコン出身の武人でありダルタニャン同様の上京一旗組だったようです。
ダルタニャンが希望通りに銃士隊に入ることができたのも、母方の親戚に多くの武人が居り、母の父親のジャン・ダルタニャンや叔父のアンリ・ダルタニャンは軍隊の要職を歴任しておりそれが有利に効いたようです。
しかし、その後のシャルル・ダルタニャンの足跡はほとんど記録に残っていません。
そして、記録に再登場したのは1646年のことでした。
それは、マザラン枢機卿の腹心としての活動が報じられてのことでした。
それも軍隊の要職ということではなく、密偵や連絡係といった役割を果たしていたそうです。
小説では王と王妃にのみ忠誠を尽くしたのがダルタニャンというイメージが作られていましたが、実際はまったく逆のようです。
その後はマザランの威光で近衛隊に入り込み、苦労しながらも昇進していったようで、これから先は記録にもかなり残っているために、小説とも矛盾しない人生であったようです。
したがって、財務卿フーケの逮捕というものもダルタニャンが担当しており、囚われたフーケを紳士的に扱ったという話も本当のようです。
その後は小説通り、ルイ14世に重用され、信頼された腹心として仕えたということです。
なお、実際のシャルル・ダルタニャンは近衛隊に出仕した頃に結婚しています。
その相手は財産をかなり持った女性だったようですが、子供を設けた後は折り合いが悪くなり別居することとなりました。
しかし、シャルルが史実ではオランダ戦争で戦死してしまうのですが、それを悼んだルイ14世によって二人の息子は取り立てられたそうです。
デュマの小説が世界中の人に愛されるほどのものであるのは事実ですが、実際のシャルル・ダルタニャンの生涯もなかなか興味深いものだったようです。