爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

学校教育で「できる子」と社会で活躍できる人との乖離。「研究職ママの子育ち日記」より

情報関係の研究職として働きながら小学生と保育園の2人のお子さんを育てているという、「研究職ママ」さんの「子育ち日記」というブログが非常に参考となるためによく拝見しています。

 

そこで触れられていた話題が興味深いものでした。

selfmanagementforkids.hatenablog.com

さすがに理系研究者とあって、その分析も合理的なものです。

それによれば、「勉強ができる」と「社会で活躍できる」にはギャップがあり、両方ともできる人、両方ともできない人というのは分かり易いのですが、それ以外にどちらか一方ができても反対ができない人がかなり居るようだということです。

そして、その分かれ道は高校までの教育(大学教養課程を含む)であり、大学で研究室に入ってから愕然とするとか。

 

 その理由についても分析してあり、「答えのある問題のみを扱う」のが学校教育でそうではないのが社会での問題解決だということです。

この二つには対応能力にかなり差があるようで、それが「学校ではできる子が社会では使い物にならない」ことが頻発する(その逆も同様)理由なのでしょう。

 

そして社会で役立つ能力としても研究職ママさんは提示しており、それは「試行錯誤能力」と「社会性」だということです。

その先は連載で次回に掲載されるということですが、それを待たずに自分の考えだけを表してみます。

研究職ママさんの今後の展開があればまた触れてみますが、以下は自論の披露となります。

 

 

 

こういったことはよく言われることですがそれではどうすればよいかということはそれほどはっきりとしたことではありません。

学校でも社会活動に役立つような教育をすればよいのか?

普通に考えればこの方向での教育改革が必要ということでしょう。

 

そう言えば現在では悪評しか残っていないような「ゆとり教育」も方向性としてはそれを目指していたと考えられます。

方法として妥当だったかどうかは疑問ですが。

ごく一部の大学などで「即戦力教育」と称して行われているようなものを初等教育から取り入れるのか。

これは、アメリカで行われている大学教育ともつながるものがあるのでしょう。

これらが本当に社会の実践に役に立つものかどうかも不明ですが、方法も含めかなりの検証が必要でしょう。

 

なお、考えてみればかつては商業学校や工業学校で職業教育が行われていました。

これこそまさに「社会に出てからためになる」教育だったのでしょう。

しかし現代の多くの職業に適したものとは言えません。

それではそういった職種に合う内容にした職業教育なら役立つのか。

これもちょっと成り立ちそうもありません。

より高度な経営、企画開発、研究などの内容を目指すとしてもそれに必要な要素が何なのか、本当に解析されているとも思えません。

 

もう一つ、学校教育の主となっている知識教育がその先の社会での活動に必要な教育の基礎となっているという考え方もあるわけで、これが現在の教育の基礎的な考え方かもしれません。

つまり、高校(および大学教養)まではそれから先の社会でも活躍できるような基礎知識を身につけるためのものであり、それを効果的に取得したものがその次の段階に有利に進めるということです。

これも一理あるものですが、ただし現在の日本の教育システムではこれの程度を偏差値として数値化しそれが本人の能力のすべてであるかのように用いています。

その先の能力取得が本当の価値であるのに、その前段階だけを判定している。

そこには大きな誤解があるということでしょう。

 

全然まとまっていませんが、研究職ママさんのブログも続きそうですので、それを見てからまたこちらも続けたいと思います。