ヨーロッパの魚食といえばタラといったイメージを持っていたのですが、どうやらそれに負けず劣らず、いや歴史的にははるかに大きい意味を持っていたのがニシンだったようです。
現在でも北欧には多くのニシン料理がありますが、かつてはその範囲はイギリスやフランスなどにも広がっていました。
それを獲るための船団が発展して海軍になったとか、ハンザ同盟はほとんどニシン漁とその流通のためのものだったとか、ニシン漁獲をめぐっていくつもの戦争が起きたとか、あまり知らなかったニシンの歴史を教えてくれます。
とはいえ、アメリカ出身の著者にとってはニシンという魚はあまりなじみのあるものではなかったようです。
現在のアメリカではやはり魚と言えばタラ、ヒラメ、マグロ、サケといった種類のものであり、ニシンは食べたことも見たこともなかったものでした。
それが、学生の頃にイギリスに旅行しホテルの朝食で出会ったのが最初のニシンとの出会いであり、その美味しさに魅せられ、その後も各地のニシン料理をめぐることになりました。
ニシンにはタイヘイヨウニシン、タイセイヨウニシンの種があり、太平洋、大西洋の北部の冷たい海域に生息します。
英語ではへリング(herring)と呼ばれ、様々な熟語にも登場します。
北部ヨーロッパでは古くから食用とされており、スカンジナビア半島では紀元前3000年の遺跡でニシンの骨が見つかっています。
ローマ人にとっては珍しいものであったようで、紀元240年に書かれたソリヌスという博物学者のスコットランドの描写にこれを食用としているということがあります。
その地域では動物肉はかえってふんだんには供給できないものであったため、中世までの時代には庶民の食料としては重要なものでした。
また当時のキリスト教会では水曜・金曜・土曜の肉食を禁じ、さらに四旬節・降臨節の断食期間にも肉を食べられなかったため、その期間の食料としてニシンを用いました。
ニシンは塩漬けや燻製とすることで容易に保存することができたため、これを貨幣替わりに使用することにもなりました。
沿岸部ではニシンで納税することが一般的であったところも多かったようです。
ニシンの漁獲と加工・流通がその地域の主要産業であったと言えます。
オランダのアムステルダム、デンマークのコペンハーゲン、ベルギーのオーステンデ、イングランドのローストフト、グレートヤーマス、ノルウェーのモルデといった都市はニシン漁から生まれたとも言える歴史を持っています。
スカンジナビア半島のヴァイキングも、その主要な生業はニシンとタラの漁でした。
彼らが航海に出たのはそのためでした。
そのついでに、各地で略奪を行なったのですが、彼らはあくまでもニシン漁の漁民であったようです。
スカンジナビアからバルト海にかけての海域はかつてはニシンが豊漁でした。
そこで獲れたニシンを加工し流通させることを主として発展した都市が1241年に連合してその利権を守ろうとしたのがハンザ同盟でした。
しかし、あまりにニシンを獲りすぎたためか、バルト海の漁獲は減少し新たな漁場として北海が発見されます。
そこを主な漁場としたオランダが16世紀にはヨーロッパの最富裕国、最強国となったのでした。
ニシン漁とその販売によって大きな経済力を獲得し、大規模漁船団を拡大して商船団を作り、さらに海軍にまで発展させました。
魚は水揚げしてしまうとすぐに腐敗を始めるため、食糧として用いるにはなんらかの保存法を取らなければなりません。
多くの魚はすぐに開いて乾燥させることで干魚としました。
中世におけるもう一つの重要魚種、タラの場合はこれで十分に保存可能でした。
カチカチになるまで干したタラはストックフィッシュと呼ばれ、数年間も長持ちしました。
しかし、ニシンは非常に多く脂肪を含むために、乾燥だけでは保存できませんでした。
そのため、古代からニシンの保存には塩漬けが行われました。
内臓を抜いたニシンの20%の塩を加えて漬けたのでした。
ところが、北ヨーロッパでは寒冷のために「塩作り」自体が難しかったのでした。
そこで、14世紀のオランダの漁師ブーケルスが、内臓を取ったニシンをそのまま樽詰めし、そこに塩水を満たすという方法を作り出し、それがニシンの保存法の標準となっていきます。
スウェーデンの有名な缶詰「シュールストレミング」もこの方法から生まれました。
保存中に発酵するために、強烈な臭気が発生し、開けた時の臭いのすごさで有名です。
ニシンの保存では燻製も重要なものです。
燻製すると身が赤くなるために、レッドへリングと呼ばれます。
この味が好まれ、製造国ばかりでなくアフリカやカリブ地域にまで輸出されその地域での伝統料理となっています。
あまりにも大きな存在であったためか、「レッドへリング」という言葉は色々な意味を持つようになり、英語では「人の気をそらす誤った情報」や「煙幕」といった意味も持っています。
本書では日本におけるニシン漁についても記述があります。
17世紀にはニシン漁が行われていたようですが、最盛期は19世紀からのわずかな間だけでした。
ニシン御殿と言う豪勢な屋敷も紹介されていますが、あまりにも大量に漁獲してしまったために資源枯渇に陥り、1958年には日本のニシン漁は崩壊してしまいました。
しかし、その間に全国に普及した卵巣の食用化(数の子)は止められず、世界から集めるようになってしまい、世界的なニシン資源の減少を招いてしまいました。
1980年代以降は世界的にニシンの資源保護が進められ、徐々に回復していますがまだ楽観はできないようです。
しかし、ニシン料理というものが各国に数多く残っていることからも、その価値は高いものであり、上手な資源活用が必要なのでしょう。