イワシとニシンは今ではかなり貴重な海産物として食べられていますが、江戸時代には食べるよりはるかに重要な役割がありました。
それは農業用の肥料として使われたというものです。
それ以前には田畑の肥料には周辺の森林や草地から採取した木の葉や草に人糞や家畜の厩肥を混ぜて熟成させた堆肥を用いていました。
しかし江戸時代の初期に全国どこでも水田の開拓を大規模に行い、耕地面積を増やしたのは良いのですが、それまでの草葉の採取地まで水田としてしまったために、堆肥を作るための植物質が取れなくなってしまい、肥料不足から作物の不作につながるという状況になってしまいます。
イワシを干して作った干し鰯で有名なのが房総半島の九十九里浜ですが、その当時は全国の沿岸部でイワシ漁とそこから作る干し鰯が盛んでした。
この本では富山湾の氷見周辺での状況を詳しく説明しています。
それを浜に直接バラまいて乾燥させ干鰯(ほしか)としたものが農業用の魚肥として販売されました。
ただし氷見・高岡は加賀藩の前田氏の領地であり、干鰯も前田藩以外への売却を禁止といった制限が付けられていました。
とはいえ、他藩でも喉から手が出るほどに欲しがっていた魚肥ですので、実際には売られていたようです。
当時の漁は漁網を使う各種の網漁だったのですが、その網はまだ稲わらで作られていたものでした。
そのため、小さい魚は捕捉できずまた耐久性も乏しいものでした。
乱獲とまでは行かなかったのですが、それでもこういった魚種の場合は漁獲量が大きく変動するという現象が見られます。
豊漁の時は良いのですが不漁になると干鰯の値段も高騰するということになります。
それでも魚肥を入れなければ農作物の収穫も激減するとあって、農民は無理して肥料を購入するという、市場経済の真っただ中に取り込まれることになります。
江戸時代も末期に近づくとイワシの不漁ということもあるのですが、当時ようやく松前藩の勢力が伸びた蝦夷地でのニシン漁が盛んになります。
これもその後は食用としての役割が大きくなるのですが、江戸時代はイワシと同様に干して魚肥として用いる方が普通でした。
この干し鰊の魚肥は北前船に載せて北陸や近畿に運ばれそこで主に木綿の栽培などの肥料として使われることになります。
ただし、魚肥というものは肥料としての効果には欠点があり、窒素は多いもののカリ・リンが少ないという問題がありました。
そのため、魚肥ばかりに頼ることには警鐘を鳴らす人も居たのですが、人糞や厩肥を集め草葉と混ぜて熟成させて堆肥とするなどと言う手間は一度逃れるともうやりたくないというのが人情らしく、どうしても金で買ってきてすぐに撒ける魚肥に頼るようになったそうです。
明治時代になってもしばらくは魚肥の時代が続いたのですが、ようやく化学肥料が普及することでそちらに移行しました。
今では人が食べるにもかなりの価格となったイワシやニシンですが、それを大量に肥料としていたというのは想像しにくくなっています。