熊本県の八代市千丁町というところはかつては独立した自治体でした。
その千丁村が編集し発行した村史です。
一般に発売された本ではありませんので、発行、印刷等の記録を転載しておきます。
千丁村史
昭和43年11月10日発行
発行者 千丁村長 松岡保
編集者 千丁村教育長 萩本敬三
印刷者 合資会社 下田印刷
執筆者は二重の構造となっています。
古代から江戸時代までを江上敏勝、明治以降を永松豊三という、八代地方の郷土史家が執筆しているのですが、その他に特に千丁地域の細かい歴史を執筆した「千丁村郷土史」という出版されなかった資料を取り込んで挟み込んでします。
この千丁村郷土史という資料は、当地の光誓寺という寺の住職であった、橘顕瑞氏(明治35年生昭和41年死去)という在郷の史家が詳しく調査し執筆したもので、本書発行時にはすでに死去されていた方の書いた資料です。
各地に残された細かい歴史的資料や、人々の風習などに至るまで詳細に記されています。
千丁村というところは、現在では合併し八代市に含まれていますが、それ以前は旧八代市の北側に隣接し、江戸時代以前はほとんどが海域の湿地帯だったものがそれ以降の干拓で陸地とされたところです。
東部のやや高まったところは古代からの海岸で南北を結ぶ交通路もあったのですが、その頃の遺跡というものもほとんど残っていません。
旧八代市域には多くの古墳や遺跡が残っていますが、そこから少し離れた場所でかつては居住には不向きだったのかもしれません。
しかし、戦乱の時代が終わって加藤氏、細川氏の肥後藩の支配下に入ると干拓事業で耕地を増やそうという動きが強まり、相次いで大規模な干拓が行われます。
新地や開といった地名がそれを表しています。
事業も藩営のものもあり、民営のものもあるようです。
また、干拓でできた地域への入植者も肥後藩内の各地からやってきたようで、その出身地にちなんだ地名が付けられたところも見られます。
かつてはそういった地名が字名として残っていたのですが、すでに多くが失われています。
小代村(玉名郡)、高瀬村(菊池河口)、嶋村(玉名郡)といった地名がその起源を示しています。
橘顕瑞氏の執筆部分には、昭和初期以前の人々の暮らしの様子も細かく記載されています。
婚礼の風習という項目では、媒酌人を立ててからの「袖だる」(婚礼の交渉がまとまった時の最初の挨拶)、「本だる」(婚礼の日取りが決まっての披露)、「道具送り」(婚礼と同時、または少し遅れて嫁入り道具を運ぶ)、「婿入り」(嫁入り前に男が女の家に通う)、「嫁入り」(道具が婿方に行ってから出たちにかかる)などなど、かつての婚礼の行事が詳述されています。
この本は、私の家内の実家に置いてあったものです。
おそらく、村役場から出版の案内があり、義父が購入したものでしょう。
読んだ形跡はありませんが、参考になると思って買ったのでしょうか。
村自体、すでに合併して無くなってしまいましたが、貴重な記録と言えるでしょう。