爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

人類史とエネルギー 持論

エネルギー問題というのは、人類の文明というものにとってこれ以上ないほどに重要なものであると思いますが、どうもその認識が行き渡っていないように思えてしまいます。

中東の地政学の問題にされてみたり、アメリカの戦略の問題と考えられたり。

 

どんなに重要なのかということを改めて整理してみたいと思います。

 

動物としての人間が生きて動き回るだけでもエネルギーが必要です。

食物として摂取したものからエネルギーを得て生命活動を続けるのですが、そこに「食物取得」という行動が出てきます。

 

これが無い動物は家畜でしょう。家畜は動いて餌を探さなくても目の前に置かれます。

 

野生の動物、人間もその初めは野生でしたから、餌の確保のための活動を行いました。

動き回り、場合によっては獲物と格闘しますので、かなりのエネルギーを必要とします。

その分、摂取すべきエネルギーは増えたわけです。

 

さらに、人類は火の利用を始めました。

火はもちろんエネルギーの現れです。

これで、生のままでは食べることができなかった食料を利用することができるようになり、食料確保がはるかに容易になりました。

 

しかし、火を利用するということは、その燃料も確保しなければならなくなったということです。

最初のうちは、周囲にある植物などを手当たり次第に燃やしていったのでしょう。

人間の数が少ないうちは何の問題にもなりません。

が、人口が増えていくにしたがって燃やす燃料も増加し、環境によっては周囲の可燃物がどんどんと枯渇していきました。

ガンジス文明などは、その影響で衰退したのではないかと思います。

 

人類が文明化するにつれ、家畜の利用ということが広がります。その力の利用、すなわち耕作の畜力、馬車や牛車として輸送力、そして食料としてなど、多くの産業が発展します。

家畜も育てて動かすためにはその食料を通してのエネルギー供給が必要となります。

多くの家畜は草食性で、人間の利用しにくいものを利用してくれますが、それでもエネルギー源としての植物が必要であることには変わりません。

 

実は、この状態がごく最近、産業革命の前まで続いていました。

そのために、燃料としての植物、特に木材が枯渇してきました。

そこで使い始めたのが、古くから存在だけは知られていた石炭・石油などの化石燃料です。

かつては「燃える石、燃える水」として見られていたものの、燃やした時の臭気がひどく、煤などで汚れるために使われていなかったのですが、背に腹は変えられず使い始めました。

 

 しかし、その熱量の大きさは薪などとは比べ物にもならないほどでした。

やがて、その大きな熱量を活かす使い方が模索されるようになります。

最初は、お湯を沸かしその蒸気を使うということだったのでしょう。

それはすぐに、蒸気機関というものの発達につながります。

水が沸騰したときに発生する蒸気というものは、非常に大きな力を持ちます。

蒸気機関という優れた力の発生装置はやがて大きな力学的革命を起こします。

 

有名なのは、布を織る織機や蒸気機関車でしょうか。それにとどまらず様々な機械の利用という方向へ進んでいきます。

 

さらに、同じ化石燃料でも単なる熱量発生には使いにくかった石油も、内燃機関というものの発明により、より大きな文明の転換を成し遂げました。

すなわち、自動車の発明です。

 

自動車を受け入れた人間の社会は、その移動距離と移動の容易さというところから、それまでの社会とはその規模を大きく変えてしまいました。

それまでの、徒歩やせいぜい馬車でいける範囲しか同一の社会とはなれなかったものが、一挙に数十倍の広さに拡大してしまいました。

 

その挙げ句にできあがったのが、現代の車社会の状況です。

車でなければ行けない程度の距離に、生活に必須の設備、郵便局、銀行、ショッピングセンター、警察、消防署等々、集約されてしまい、それまで徒歩やせいぜい自転車で行けた範囲の設備はすべて廃棄されざるを得なくなりました。

 

 このように、石炭や石油といった化石燃料を使い始めたということは、人類の文明において大きな意味を持っています。

生活の質が一変してしまったということです。

まあ、一般的に言って「向上した」と言って良いでしょう。

食糧は豊富に、しかもバラエティに富み、安く供給されるようになりました。

衣食住と言いますが、その全てについて質の向上は大きなものです。

かつての王侯貴族の生活が、庶民でもできるようになりました。

昔の王侯であれば、数多くの奴隷や使用人を抱えてやらせたことを、エネルギーを用いる機械がやってくれるようになりました。

つまり、現代ではエネルギーというものをかつての奴隷のように皆が使っているわけです。

 

エネルギーの中でも、「化石燃料」というものの優秀さは他に比べるものもないほどです。

燃やせば簡単に高カロリーの熱量が得られ、しかも石油は内燃機関燃料とできるという抜群の性質を持っています。

さらに、供給に大したエネルギーを必要とせず、その効率は非常に優れたものでした。(徐々に過去形になっています)

しかも、石油はプラスチックなどの原料としても使われ、現代文明を完全に支えていると言えるものです。

 

これと比べると他のエネルギーは見るも無残な低品質のものです。

原子力は結局人間のコントロールが効くようなものではなかったといえるでしょう。

風力、太陽光なども装置の規模に比べて得られるエネルギーの貧弱なこと。

水力もわずかなエネルギーしか得られず、柱にはなれません。

 

このような貴重な化石燃料エネルギーが、やがては枯渇していく。これは紛れもない事実です。

それが、ここ数年、数十年ではないかもしれませんが、千年先には無くなっているかもということを否定できる人は少ないでしょう。

今のうちに人類文明自体をなんとか方向転換しなければ、数十年は大丈夫でも数百年の間には破綻します。

エネルギーと人類文明との関係、これを「いつか、誰かが発明してくれる」などという能天気な先延ばしとせずに、真剣に考えるべきでしょう。