爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「SF エネルギーの近未来」その2

戦争にはならずに人類社会が続いたとして、その先です。

 

3、とはいえ戦争エンドでは話にならないので奇跡的に運よく戦争は回避された場合

 

人類が奇跡的に終末戦争を回避できた場合の将来像。

 

この場合も決して幸せな未来となるわけではない。

化石燃料の中でもっとも早く供給減少するのは天然ガスと考えられるが、現在は天然ガスは火力発電燃料に多く使われているので、それは石炭でも石油でも代替できる。

しかしその結果、結局は石油の供給減少が早まるだけになる。

天然ガスと比べて石油は現代社会の隅々に至るまで重要なエネルギー源であり、さらにプラスチック原料としての重要性も極めて大きい。

発電燃料としても石油が頻用されればそれだけ供給源の減耗につながる。

 

そうなればもちろん価格の上昇が際限なく続くこととなる。

現在、ウクライナ紛争のあおりで原油価格上昇となりそれが世界的な物価上昇の大きな要因となっているが、それどころでない物価上昇となる。

しかも、金さえ出せば買えるということではなく、金があっても買えなくなるということになる。

経済的に弱いところから原油調達が不可能となっていき、石油依存の経済は存立すら危うくなる。

アフリカや南米、それと日本?などでは極めて危うい状況となりかねない。

 

その時までに電気自動車化が進んでいれば交通は確保できるなどということはあり得ない。

実は、エネルギー問題以前に電気自動車にはレアメタル供給の問題があり、そこに至るまでに開発熱は冷めてしまうだろう。

さらに電力供給を確保することも難しくなり、とても自動車用に配分するだけの電力供給の余裕はない。

つまり石油供給が減少する事態にあっても、運輸交通の主力はガソリン自動車であるはずであり、その燃料が得られなくなるということになる。

 

現代文明はエネルギー依存が激しく危ういものだということが言われているが、それ以上に危険なのが実は自動車依存の社会構造であった。

そのため、爽風上々のブログでは繰り返し自動車社会からの理性的な脱却を提言していたが、誰も耳を貸そうとはしなかった。

そのツケが一気に噴出し、急激な石油価格上昇で自動車が使えなくなった社会はその欠陥が露呈しマヒ状態となってしまう。

 

原油の購入すらままならなくなった社会では、原油からの成分を利用する各種化学産業も壊滅する。

もっとも影響が大きいのはプラスチック業界であった。

燃料源としての石油の役割以上に現代社会を支えていたのがプラスチックの存在だったということは、それが無くなって初めて痛切に理解できるものであった。

とにかく、商品包装というものが何もできない。

商品の製造ができたとしてもそれを流通させることができない。

かくして、食べるものも着るものも、住むための各種物品もすべて無くなってしまった。

 

石油が高騰する状況ではエネルギー源として利用可能なのは石炭だけとなる。

各国では見捨てられていた炭鉱を再開し電力源として、そして熱源として広く利用することとなる。

もはや「二酸化炭素排出量が多い」などという世迷言を言う人間もいなくなる。

しかし、いくら資源の残存量が豊富だった石炭であっても、それだけで世界のエネルギー需要を満たしていればその減少も激しくなる。

数百年は持つと言われていた石炭も徐々に供給量が減少し、ここでも資源の取り合いが始まる。

 

結局はエネルギー資源の供給減少から価格高騰となり、使える国・人はまだこれまでのエネルギー依存生活を続けることができるが、それができないところでは「エネルギーが欠乏したエネルギー依存社会」という厳しい状況に陥る。

それがどのようなものか、想像するだけでも怖ろしいので想像を止める。

 

ここにいたり、さすがに何をされても物も言わなかった日本人も生存の危機にさらされて自分で考えて文句を言うようになるかもしれない。

しかしもう手遅れというべきだろう。

食べ物すら手に入れることが難しくなり、田畑で作りたくても太陽光発電の廃墟が邪魔をしてそれすらできない。

餓死者も出ることとなり、高価な玩具のようなアメリカ製ミサイルで守るべきものすら無くなって国はいったん破滅することとなる。

しかし全部が消え去るわけではなく、地方の忘れ去られたようなところから、本当の「持続可能社会」を作り上げ再生するだろうとは思う。

 

これがエネルギーに着目したSF的未来像だった。

信じるかどうかは読者次第。ただし、「夢の未来」を信じて何もしないよりは何かをしなければならないと思うだけでも良いのかも。