爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇」保立道久著

最近も日本列島では各地で地震が相次ぎ、また火山噴火も起きていますが、歴史の中では今よりもさらに地震や火山噴火が連続して、しかも大規模に起きていた時代がありました。

奈良時代から平安時代にかけての頃ですが、ちょうどその当時は天皇家藤原氏をはじめとする豪族の勢力争いが激しく、冤罪で滅ぼされた人々も多かったのです。

 

さらに、その時代には温暖化が進んだために干魃が起きたり、感染症が流行したりということも多く、さらに気候が激しくなり落雷の被害も頻発するということになりました。

 

そのため、こういった人災・天災は冤罪で殺された人々が怨霊となって祟っているという思いが広がり、それを鎮めようとする神社が建てられるということになります。

 

また、このような災害は治世の乱れによるという中国伝来の思想もあり、天皇が自らの責任を強く意識すると言うことにもなり、その重圧は大きいものでした。

 

著者の保立さんは、地震学者ではなく東大史料編纂所の教授でしたが、詳細に歴史資料に当たり災害の被害とそれに対する天皇や政府の姿勢を明らかにしています。

 

 

地震頻発の時代の始まりは、白村江の戦いの翌年、664年の新羅の王都慶州を襲ったM6.3の地震であったようです。

日本ばかりでなく、朝鮮半島や中国大陸にも広がる、地震と火山爆発頻発の時代が続きます。

また、この時期は中世温暖期の始まりと重なっており、東アジア全体に気候変動の影響として、干魃の発生、豪雨水害、害虫被害の発生、疫病の発生が増加していきます。

 

日本でも詳しい記録はないものの、阿蘇山の噴火、筑紫地震、南海地震(M8.2)、伊豆神津島の噴火が続発します。

さらに、8世紀に入っても丹後地震三河地震が起きています。

 

しかし、実は朝廷にとってはそのような天災よりも大変だったのが、天皇家の相続争いでした。

壬申の乱ののち、天武天皇の子孫に握られた政権ですが、天智天皇系の血筋もまだまだ強く、その軋轢の中で長屋王が殺される事態になります。

 

そのすぐ後に河内で大きな地震が起き、(M7.5)多くの死者が出る被害となりました。

聖武天皇はこれにも自らの責任を感じ、大仏建立を決め造立の詔を発します。

しかし、その後も肥後地震(M7.0)、美濃地震(M7.9)と大規模な内陸地震が相次ぎます。

この点について、従来の歴史学ではあまり意識されていないことですが、これらの災害の政治的影響というものは非常に大きなものがあったということです。

政権をめぐっての争いは更に続き、淳仁天皇藤原仲麻呂の乱舎人親王の孫の和気王の謀反疑いでの処断と相次ぎます。

 

781年に桓武天皇が即位します。その皇太子となったのが同母弟の早良親王でした。

しかし、785年には天皇早良親王を排除します。親王は自ら絶食し自殺してしまいますが、それが怨霊化したということになります。

すると、788年に霧島山の大噴火が起きます。

また、天皇の夫人、母親、皇后、息子の平城天皇の妃が相次いで死去し、これらも廃太子早良の怨霊の祟りとみなされます。

 

800年には富士山の大噴火が起きます。

少し後の864年に起きた、富士五湖を作った噴火は溶岩型でしたが、この時に噴火は火砕流・噴石型でした。

 

842年には、仁明天皇の父嵯峨上皇が死去、皇太子の恒貞は嵯峨が後ろ盾であったために位置が脆弱なものとなり、一気に側近が失脚させられ皇太子も廃されます。

これを「承和の変」と呼び、教科書では藤原北家良房が橘氏・伴氏を排斥するために起こしたとされていますが、それよちも天皇家内部の闘争の意味が強いのではとしています。

 

しかし、この直後にも大きな天災が連続します。

出羽庄内地震(M7.0)、京都での群発地震が続き、それで大仏の仏頭が落下すると言う大事件まで起きてしまいます。

 

858年には清和天皇が9歳で即位します。

その当時は飢餓・疫病が頻発し、各地で怨霊を鎮めるための御霊会が開かれることになります。

しかし、その願いもむなしく、さらに地震と噴火が続きます。

863年に越中越後の地震(M7.0)、そして864年の富士山大噴火です。

ちょうどその頃、866年に都で応天門の炎上という事件が起きます。

原因が分からなかったのですが、大納言の伴善男を犯人として罪を科します。

伴善男も怨霊と化してすぐ、豊後鶴見岳の噴火、そして阿蘇山の噴火が連続します。

そしてさらに続いたのが、いわゆる「貞観地震津波」でした。

 

ただし、この「貞観」と言う年号は中国の唐の最盛期、太宗李世民の時代に「貞観の治」で有名な時代の年号であり、それにあやかって日本でも付けられたものです。

唐では627年から649年を示すものであり、日本の貞観もそれと混同されてしまう怖れが強いということで、著者はこの地震を「貞観地震」ではなく「9世紀陸奥海溝地震」と呼ぶことを推奨しています。

 

この前の東日本大震災の時にも何度も語られましたが、貞観地震はそれに匹敵するほどの大地震と大津波であったようです。

Mは8.3、津波も正確な記録はないものの数十里も登ったとされています。

なお、その当時はこの地域には蝦夷も数多く住んでいた頃であり、犠牲者の多くは蝦夷であったかもしれません。

朝廷からの文書にも「民夷を論ぜず平等に恩恵を施し」とあり、「夷」が相当数含まれることを示しているようです。

 

最近また地震頻発期などと言われていますが、奈良平安の頃の大地震の連続を見るとまだまだと思えます。

当時はさらに火山の大噴火も起きており、人々の不安は大きなものだったのでしょう。

 

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

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