民主制とは多数決や投票など、意思を決定する一つのシステムです。
それが政治の場合は民主政治となりますが、政治だけに限らず企業や地域などでも民主制という手続きが使われる場合もあります。
デモクラシーについて、政治学者が論じたものは数多くありますが、この本の著者の内野さんは法学者であり、法学の面から説いたものはほとんどないということです。
ただし、私のような素人から見ると政治学と法学の区別も分かりませんので、どこがどう違うのかもはっきりはしません。
そのあたりは今後さらに調べる必要がありそうです。
デモクラシーという言葉が歴史的に重要な場面で使われているのは、古代ギリシア、特にアテネの政治と、アメリカのリンカーン大統領の演説です。
古代ギリシアはデモクラシーの原型ができたところです。
この言葉はデモス(民衆)による支配という意味からできました。
このような古代の民衆の直接の政治参加によるものがデモクラシーであり、現代の代表民主制はその歪曲した形であるという説もあるようです。
アメリカの大統領リンカーンが南北戦争終結の直後にゲティスバーグで行った演説が誰でも知っているものです。
goverment of the people, by the people, for the people
ですが、これは一般的な和訳では「国民の、国民による、国民のための政治」とされています。
この意味もそう簡単なものではないということです。
「民主政治」というものは、その定義として「国民のための政治」とされるべきものではありません。
重要なポイントは「国民による政治」の方です。
「国民のための政治」は「特権者によって」でも実行可能です。
「特権者のための政治」は論外ですが、あくまでも「国民による」ものが民主政治です。
しかし、現実の政治はまだまだ「国民のための政治」とは言えないものです。
政治家が自分たちのための政治をやっているレベルのところも多いのですが、それを防ぐのも民主政治の最低条件です。
かと言って「国民のための政治」を「政治家が一般国民のためを思ってする政治」としてしまっては、それも違うということになります。
ここはやはり「国民のための政治」をより具体的な内容でとらえるべきです。
年金問題の解決や障害者の福祉実現といったテーマにして考えるということです。
順不同かもしれませんが、ここで「民主制」の定義というものが出てきます。
ただし、これも数多くの定義がありその一つ一つが相応の理屈があってのことなので、なかなか絞ることもできないようです。
そこで著者はその定義の中から2つに絞ります。最低条件のものと理想的なものです。
最低条件の定義としては、「国家その他の団体において」「情報の自由が保証される上で」「一般の人々が」「多数決や投票で意思決定ができる」というものです。
もちろん、現実の国家などでこの最低条件を満たしていないところはかなり存在します。
さらに、理想的な条件として次を挙げています。
できるだけ多くのものが棄権せずに投票や審議に参加すること。
各人が十分に関連情報を得た上で自分の頭で理性的に判断すること。
各人が討論の過程で自分の従来の意見を変更したり修正できること。
審議に参加する各人の発言力が名実ともに対等であること。
審議や投票の対象となるテーマの種類が多く、投票などの回数が多いこと。
ここまで行くと、このような理想的民主制はほとんどありえないということが分かります。
現在のほとんどの国での民主政治である、代表民主制(間接民主制)は多くの欠点を抱えています。
それは大衆主義(ポピュリズム)とエリート主義の間を行ったり来たりしています。
ただし、ポピュリズムといっても一つではなく多くの意味があります。
普通は、「大衆的人気に支えられて政治を行う」ことですが、著者は「大衆を政治制度上の本来の主役とする主義」としています。
民主制の重要な柱は多数決による決定ですが、これも多くの問題を含んでいます。
棄権や保留という意見が認められる場合、賛成が反対を上回ったからと言ってそれが全体の過半数ではない場合が非常に多くなるということです。
かと言って、全員一致を求めることは民主制ではありません。
全員一致でなければならないとすると、ただ一人の反対で決まらないということにもなり、少数者に拒否権が生じることになります。
また、憲法改正のように3分の2の賛成を求める「特別多数決制」もその存在理由は明白ですが、過半数主義とは相容れないものです。
さらに、すべての法律を現在その場で決め直さないのは、手間と時間を考えれば当然なのですが、これも審議し直さない法律がすべてそのまま施行されておりということであり、これは「死者の支配」とも言える状態です。それが妥当かどうかも考えるべき問題です。
政治的教養のないものにもすべて平等に1票が与えられる制度が本当に公平なのかというのも一つの意見です。
当然ながらこれは妥当だとは言えないというのが普通の考えですが、これも不合理な一面があるのは事実です。
しかし、全員平等の1人1票制というのは、そのような不合理を含んでいたとしてもそれを大幅に上回る合理性と長所を持っていると考えるべきです。
現実には子供には選挙権を与えないという、年令による線引きだけは行われていますが、その他の投票資格は認められていません。
少数者の意見を尊重するということに関連し、少数民族に特別な配慮をするという国もあります。
積極的差別是正処置(アファーマティブアクション)ですが、アメリカでは激しい人種差別の代償としてその政策が取られるようになりました。
逆に白人側から不公平という感覚を持たれますが、それだけの意味があるということでしょう。
それでは日本で例えばアイヌ民族優遇処置が必要かどうか、おそらく難しいでしょう。
これはあくまでも法律的な論議であり、それが望ましいかどうかとは別問題です。
さらに、国会議員の男女比を半々にすべきかどうかという議論ともつながってきます。
コスタリカでは女性議員40%以上、イラクでも25%以上と決められているそうです。
フランスでは数値は出さないものの、男女の均等なアクセスを可能とすると定められています。
国会という場については、本書では「国会はお芝居?」「議員は投票ロボット?」「議員の政治理解度は?」等々、現状の問題点を鋭く指摘することばが並んでいます。
また、首相公選制が議論されているということもありましたが、それに対し、著者はそれよりも住民投票、国民投票の制度の充実が必要であると主張しています。
小泉元首相が郵政選挙というものをやってしまいました。
これも国民投票で決めれば良いものを、衆議院の議席を賭けての争いにしてしまいました。
間接民主制の矛盾点を上手く利用したものだったのでしょう。
なかなか中味の濃い議論の詰まった本でした。