爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「”歴史認識”とは何か」大沼保昭著 江川紹子聞き手 その1

大沼さんの本は以前に「慰安婦問題とな何だったのか」というものを読んだことがあります。

sohujojo.hatenablog.comその書評にも書いたように、国際法学者でありながらサハリン残留韓国人の帰国問題に取り組んだり、慰安婦に対するアジア女性基金の設立に参加したりと実際の活動をも行なっていらっしゃる方です。

その大沼さんが江川紹子さんとの対話で「歴史認識」というものをこの時点でまとめ直すということをされています。

 

序文に書かれているように、「紫式部がどのような時代背景で源氏物語を書いたのか」とか、「ナポレオンがなぜロシアに攻め込んで墓穴をほったのか」という問題をあげるのも確かに「歴史認識」なのですが、1990年代以降の日本では「歴史認識」というとある特定の歴史に関わる言葉としてのみ使われているようです。

 

それは1931年~45年までに日本が戦った戦争と、1910年~45年までの朝鮮植民地支配に関わることのみと言えるものです。

したがって、そこでの話題も「慰安婦問題」「南京事件」「靖国参拝」などに限られることになります。

 

これをめぐって、特に韓国・中国と日本の間で論争が激しくなっており、それはこの近年にさらに激化しているようです。

しかし、その双方ともに論争の基本があやふやで論拠が間違っていることも多く、単なる罵り合いに堕している場合もあるようです。

 

本書の目的として大沼さんが挙げているのは、1問題に関する基本的な歴史の事実をしってもらいたい。2事実の認識と解釈に日本国内でも日本と外国の間でも、外国の国内でも大きな違いがあることも知ってもらいたい。3そのような違いが出てくる背景や思考の仕組みを考え、なぜこのように認識の違いが生まれるかを同意できないまでも理解できる材料を提供したい。

というものです。

 

歴史認識」問題が現在さらに加熱しているのは、1戦争・植民地支配・人権というものの考え方自体が20世紀後半から大きく変化した。 2その結果、第2次大戦と植民地支配について、サンフランシスコ平和条約や日韓・日中国交正常化で1970年代までに法的に解決したと思っていた問題が1980年代以降見直しを求められるようになった。3日本国民の間には戦争と植民地支配について反省をしつつも東京裁判反対といった意見のように諸外国(特に大国)の不公平さへの反感が一貫して存在していた。4中国や韓国の被害者意識は非常に深く噴出しやすい。

といった要因にあるようです。

 

第1章 東京裁判について

 第二次大戦後、東京とニュルンベルグで国際軍事裁判が行われ日本とドイツの戦争指導者が裁かれました。

これについては、「勝者の裁き」に過ぎないという点が批判され、さらに「アジアの被害者の視点」が無いという問題もあります。

また、特に戦争指導者を扱った東京裁判については日本国民の間にも自分たちを戦争でひどい目に合わせた指導者に対しては冷ややかな目で見ていた感情があったようです。

そのために、日本軍がアジアで犯した殺人などを考える余裕は出ませんでした。

 

東京裁判では7名が死刑になったということで、「過酷で報復的」という批判がされることがありますが、実は一般の「戦争法違反」で裁かれたBC級戦犯は1000人以上が死刑になっています。東京裁判は実は寛大すぎるとも言えるものでした。

 

なお、インドのバル判事が日本無罪論を唱えたと言われていますが、実はバルは日本の侵略戦争自体は認めており、それを日本の指導者個人の罪状とみなすのは問題だと言っているに過ぎません。これも混同しているひとが多いようです。

一方、オランダのレーリック判事という人はあまり知られていませんが、「平和に対する罪」は裁かざるを得ないが、事後法の禁止という近代法の大原則は曲げてはいけないと主張し、平和に対する罪として死刑を課すことに反対しています。

こちらの方が正論と言えるという著者の見方です。

 

東京裁判は無かったほうが良かったのかと考えると、それも不可能でした。戦勝国側も数千万人に及ぶ犠牲を出しており、その国民感情は極めて厳しいものがありました。

その状態で何の責任追及もしないわけには行かなかった事情がありました。

戦勝国側としては、敗戦国の指導者層をすべて即刻処刑してしまうという選択肢もありました。現に、それまでの戦争処理ではそのような事例が無数に見られたわけです。

しかし、公平公正という面では極めて問題があっても一応法的な手続きを経て結果を出すという裁判がなされたということは得るところがあったというものでしょう。

何よりも、東京・ニュルンベルグの裁判が無ければ南京虐殺ホロコーストの事実がまったく埋もれたままになってしまったかもしれないという可能性もありました。

 

第2章 サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の国交正常化

サンフランシスコ平和条約はその性質上ほとんどアメリカ主導で行われました。ソ連は日本参戦もわずか1週間であり、中国も内戦のために講和会議参加はできませんでした。韓国も北朝鮮も参加できませんでした。

 

連合国側の要求は公平に見れば「非常に寛大であった」といえると思います。

この賠償額を「非常に過酷だった」と語っている自民党議員も居るようですが、まったく通常ならあり得ない主張です。

もちろん、フィリピンやオーストラリアなどは多くの賠償を求めたのですが、ちょうど冷戦激化の様相を見せ始めた情勢の中で日本を反共の砦としたいアメリカが寛大講和条件を強く主張したためにその路線でまとめることとなりました。

 

終戦後の日本は疲弊しきっており、自国民の食料すら供給できずにアメリカの援助を頼むほどでしたので、賠償を払う能力も少なく極めて少額でまとまることになってしまいました。

 

韓国との間の国交正常化にはかなり長期間がかかりました。これは韓国側の情勢の問題もあったためですが、賠償の金額交渉も長引いた要因です。韓国とは直接戦争をしたわけではありませんので、それをどう見積もるかで紛糾しました。

当時はまだ「植民地支配」自体を非とする世論は世界的にも弱くその賠償という考え方も少なかったとも言えます。

賠償という形ではなく経済協力ということで収めるということになったのですが、そこで韓国側の個人の損害賠償請求も否定してしまいました。当時の法体系ではそういうことになりますが、これがその後も紛糾の種になります。

1990年以降特に人権についての見直しが強く、国際的に見ても欧州人権裁判所中南米の米州人権裁判所で過去の条約や法令で決まったことでも人権侵害は救済すべきという判例が出るようになりました。韓国や中国の動きもこれと連動します。

 

1972年には中国との国交正常化が成りますが、この時に中国側は戦時賠償は放棄するという立場を明らかにします。

もしも請求すれば天文学的数字にも成りかねないと危惧されたのですが、当時の毛沢東周恩来という指導者のカリスマ性は圧倒的なものであり、彼らが決めた方針には誰も逆らえませんでした。

彼らの国民に対する説明も、「日本の人民も中国人民も日本の軍国主義者の被害者であり、賠償責任を現在の日本人民に負わせることはできない」というものでした。

だからこそ、その後A級戦犯を合祀した靖国神社を日本の首相などの政治家が参拝するということはこの際の信義を破棄するものだということで中国側が厳しい見方をするわけです。

 

第3章 戦争責任戦後責任

 敗戦当時の日本国民の意識としては、なぜこのような被害を受けなければいけなかったのかという被害者意識が圧倒的なものであり、海外での日本の行為に対する反省は少なかったものです。

当時の戦争責任を問う議論も「なぜ負けたのか」という敗戦責任論ばかりだったようです。

侵略戦争を戦ったのも国民であるという意識はあまり見られませんでした。

 

ようやくベトナム戦争に対する反戦運動や、中国国交回復からの中国での戦争中の被害状況などを通じて日本の戦争により被害を受けた人々のことを考えるということが現れてきました。

それは1970年代に入ってからのことです。

 

それが1980年代になると教科書問題や靖国神社参拝などの動きが出てきます。

靖国神社A級戦犯が秘密裏に合祀されたのは1978年です。それに85年に当時の中曽根首相が公式参拝をするということで、問題は一気に国際化されてしまいました。

なお、天皇もそれまでは勅使を遣わした代拝をしていたのですが、78年以降は取り止めました。

 

その後、自民党支配が揺らいで他党の首相が出るようになり、細川首相の「侵略戦争」発言や村山首相の「歴史認識」を語る村山談話が出されます。それ以降の自公政権の首相も一応それらを踏襲するという姿勢には変わりありません。

 

一方、戦後の在留外国人に関する状況は決して良いものではなく、植民地支配の中で流入してきた韓国人に対しての処遇はひどいものでした。これらは「戦後責任」とでも言うべきものです。これも一つ一つ徐々に対処されていますが、なかなか解決には向かいません。

 

この本の内容は非常に濃密なものであり、書評も長大になってしまいそうです。

改めて第4章以降は「その2」として書きます。