爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「醜い日本の私」中島義道著

哲学者の中島さんの非常に刺激的な内容の本です。
題名は「醜い日本」なのか「醜い私」なのか、どちらにも取れる表現ですが、「両方掛けている」と書いてあります。

日本といえば美意識が強く「美しい日本」というイメージであると言われていますが、実際は「醜悪」な面も非常に多いという、具体的で写真まで交えた表現から本書は始まっています。
古い庭園や社寺のようなものは「美しい」ということですが、同時に新宿歌舞伎町や秋葉原のような町も存在しており、それを著者は「醜い」と断罪しています。そしてそのような町並みというものは東京の中心だけでなく全国各地に見られます。商店街のけばけばしい装飾や看板、至るところに張り巡らされた電線や電柱など、著者の美意識から見ると非常に「醜い」しかし、どうも多くの日本人はそのようなものを見てもまったく「醜い」とは感じていないようです。
日本のサービスというものも諸外国のものと比べれば非常に丁寧であるということになっていますが、著者は実はそれは「奴隷的サービス」であり、その基底には「かえって客を人間としてきちんと対応するのではなく、我慢していれば金を落としてくれるもの」として扱うという心理が隠れており、決して客を尊重するということではなく、それも「醜い」と感じています。
また、町や駅などで不要な事柄を大音量で流し続けていることも「醜い」と感じています。

著者はそれらを「醜い」と感じるだけでは済まず、それを当事者に「文句をつけて」います。本当かどうかは知りませんが、もし実際にやっているとすると相当「空気の読めない変人」と周囲からは思われているのは間違いありません。
実はこの本の主題はそこにあります。もちろん、ゴミ箱のような町の風景や、くだらないことを延々とがなり立てる構内放送や、極端に卑屈な店員の態度など、それぞれに問題ではありますが、この本はそれを言いたいのではありません。そんな単純なものではないのです。哲学者の書く本というのはそんなに素直なものではありません。
実は、不快に感じるか、それを醜いと感じるか、それが悪と感じるかということは、人それぞれであるのが当然なのですが、それを主張してよいかどうかというとそう簡単ではありません。しかし、日本では多数派の良しとするものは単純に主張して良しとなっているようで、逆に少数派がそれを主張するととたんに非難されたり、阻害されたりという幼稚な反応をされるのではないかということです。

著者のように、ごった煮のような町の商店街の風景を醜いと感じるのは実は日本人では少数派ですが、それにクレームをつけることはあまりありません。しかし、多数派が醜いと感じるものには皆が文句を言っても良いと考えるようです。そこには問題があるというのが主張です(たぶん)

この本の後半はそういう内容になってしまいましたが、前半の醜い日本実例集というのも非常に面白いもので、そちらに最初は引き込まれてしまいます。
路上観察学会」というものがあるということは私も聞いたことがありますが、著者はそれにもケチをつけています。あんなに汚いものには全く注意を払わずに細かい点を喜んで見る気が知れないそうです。
著者は調布市電通大に勤務しているのですが、その周辺の商店・飲食店などに片っ端からケチをつけて回っているそうです。(本当かいな)そこで問題視しているのは、かなりエキセントリックな申し入れ(ということは自分でも自覚しているそうです)に対し、はじめから受け入れないということはほとんど無いそうです。一応、ご意見承りましたと言っておいてそれで何の対応も取らないということに怒り狂います。そこでまた怒鳴り込むということで、実際に証拠写真もありましたから、やはり事実なんでしょうか。著者と喧嘩した店は潰れることが多いということでした。

実は「乱雑で汚い商店街」「奴隷的サービスの店員」といったものは、私自身も不快に感じることがありますのでこの本を選んで読んだのですが、主題はそこから少し外れるところでした。最近のニュースでは店員が土下座をさせられる映像が投稿されることが多いというのもあり、なんでそのような対応をするのだろうと不思議に思っていましたので、その点を深く論じているのかと思いましたが、それはさらっとした記述でした。
個々の感じ方というものと、他者を尊重するということ、その辺りのことを考えると、日本という社会はあまり成熟したとは言えないもので、多数横暴というのがまかり通るものでしょう。嫌な世の中です。