爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

夫婦別姓最高裁判断へ

夫婦同姓、および女性のみ離婚後再婚可能までの期間半年が定められている民法について憲法判断を最高裁で行うことになったということです。

夫婦別姓を認めるべきかどうかという点については長く争われてきたことですが、良く言われることに「ほとんどが男性の姓になることは男女不平等であり、封建的」という批判があります。
しかし、「男女不平等」であることは全く間違いのないことですが、「封建的」というのは当たらない批判でしょう。

なぜなら、江戸時代までの封建社会(という言い方も不正確ですが)で、人を呼ぶのに「家」の名で呼ぶことは限られた範囲であったと思われるからです。
まあこの辺の根拠はそれほど学術的なものではなく、時代劇ドラマからの印象くらいのものなので誤りもあるかもしれませんが、仮に「徳川家」という武士の家があったとき、「徳川殿」と呼ばれたのは家長だけであったと思います。
息子であっても家督を継ぐまでは「徳川」とは呼ばれず、ましてや奥方や娘を「徳川さん」と呼ぶ人はいなかったでしょう。

それが普通に家の名で呼びかけることが行われるようになったのは、明治以降特に学校にすべての子供が通うようになってからではないでしょうか。
それでも通常の授業の場などでは個人名が使われることもあったでしょうが、公式の場では家の名で個人に呼びかけることが多くなったのではないかと思います。
それがさらに学校卒業後もほとんどの人が社会に個人として関わるようになり、家名で呼ばれることが普通になりました。
会社などで女性社員に「徳川さん」と呼びかける方が普通となり、「篤姫さん」などと個人名を使う方がおかしいという感覚になってしまいました。

そこで、家名を結婚を機に夫のものに変えるということに対する違和感が強くなってきたのでしょう。ましてや結婚後も勤めるなどして社会との個人的な関わりを続ける女性が多くなった現在ではその不都合も大きなものになっています。

それは判るのですが、そもそも「家名」で人を呼ぶということ自体がおかしなことではないですか。

個人がばらばらに社会や学校と関わっている状況では、家族それぞれが「徳川さん」と呼びかけられてもそれほど不都合は目立ちませんが、例えば学校に親が行ったときには「徳川さんのお母さん」と呼ばれるでしょう。ここにもこの風習の弱点が見えています。その時だけなら我慢できてもこれが常態になったら面倒なことになります。

人の名前の付け方として、現代日本のように「家名+個人名」という方法が絶対ではありません。国や時代によっては異なる付け方をされている例がいくらでもあります。いつまでも女性の実家の家名にこだわって夫婦別姓に固執する方がかえって「封建的」なのかもしれません。

江戸時代の博徒のように、「緋牡丹お龍」というのも悪くないかもしれません。「あだ名+個人名」です。「カールスモーキー石井」や「サンプラザ中野」はちょっと意味が違っていますが。カールスモーキー竜也ならOKかも。