爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ふつうの人の個人史の書き方・残し方」大江晴月著

「自分史」というものを書くことが流行っていて、その書き方などを教える本や教室もあるといったことも聞いてはいました。

しかし、著者の大江さんによれば現在言われている「自分史」というものはこの本で示している「個人史」とは違うということです。

 

その違いがどこにあるかというと、

(あくまでも大江さんの捉えた”自分史の書き方”では)

活字にして人に読ませることを前提とし、価値のない文章は書いてはならず、自分の過去を記録にとどめるものではない

というものであり、それに対して大江さんの主張する「個人史」というものは

「ふつうの人が自分の生きた証としてその足跡を記録に残す」ことであり、”自分史の書き方”ではそれは自分史にはならないと否定されているということです。

 

 どうも「自分史」というものについての知識がまったく無いために、大江さんの主張が妥当かどうかを判断することはできませんが、まあそういうこととしてこの本の紹介をしておきます。

 

ほとんどの人がおそらく自分の曽祖父母がどのような人生を送ったかということを知らないでしょう。もしかしたら父母の人生すら怪しいかもしれません。

ここで何もしないまま死んでしまったら自分自身も孫や曾孫からそう思われることでしょう。

 

歴史に名を残すのは特別な人間だけですが、誰でも生きてきた以上はその歴史があるはずです。

世界全体、日本全体の歴史には残さなくても、小さな個人の歴史を記録に残しておくことは意味があることです。

忘れない内に、自分が生きた証を記録として残しておこうという主張です。

 

その記録の様式、形態等々様々なものがありますが、一番大切なのは「後世に残す」ということです。それさえ満たせばどのような形でも構わないそうです。

こういったことを言うと「子供でもそんなものは読まない」と言われそうですが、子供はそうであっても、曾孫や玄孫の中に興味を持つ人が出るかもしれません。

それを気にして記録すらしなければ、誰も読むこともできません。

とにかく、すぐに記録を始めるべきです。

 

記録の方法としては、

まず「年譜」を作る。覚えていること、履歴を片っ端からメモする

次に「年表」をつくる。社会の動きと重ねる。父母の代まで広げてみる。

できるだけ写真なども入れる。

集めた資料をまとめていく(編集する)方法はいろいろとあるので好きな方法を選ぶ。

なお、父母や先祖のこともできるだけ調べて記録したほうが良いが、役所の戸籍は廃棄される年数があるので、急いで入手したほうが良い。

そして、できれば「本」の形にする。

個人的な「タイムカプセル」を作って収める。

といったことが推奨されています。

 

何か、やってみようかなと思わせるものでした。

 

ふつうの人の個人史の書き方・残し方 (楽書ブックス)

ふつうの人の個人史の書き方・残し方 (楽書ブックス)

 

 

「ペストの歴史」宮崎揚広著

人類の歴史には疫病による大きな災害が何度も起きていますが、中でもペストによるものはその死亡率の高さでも、中世ヨーロッパの社会に与えた影響でも、最も厳しいものだったと言えるでしょう。

 

この本は近世フランス史がご専門の歴史学者の宮崎さんが、主にヨーロッパでのペスト流行を詳しく記述されたものです。

 

ペストは幸いにも日本では大流行というものは発生していませんが、ヨーロッパから西アジアでは歴史上3回の大流行がありました。

最初は西暦541年にエチオピアアラビア半島に発し、地中海沿岸地域からヨーロッパ内部まで流行し、767年まで断続的に続きました。

2回目は1340年代から1840年代まで実に500年にわたって流行が繰り返されたもので、特にその始めの頃のヨーロッパにおける流行では人口の数割が死亡しました。(数値については地域と報告により大差あり)

3回目は1860年代から1950年代まで、中国南部に発してインドからアフリカ、オーストラリアなどに広がりアメリカ西海岸にまでたどり着きました。

 

これに見られるように、現代でもまだ完全にペストの危険性が去ったとは言えない状況です。

抗生物質を適切に投与すれば広がることを抑えることはできますが、根絶するには程遠いようです。

 

本書では冒頭にローマ帝国時代の流行も描かれているものの、最も力点を置かれているのは1347年から始まった「黒死病」のヨーロッパにおける流行です。

ペストの流行は何度も起きているものの、それを「黒死病」と呼ぶのはこの時期のものだけということです。

この時期にはすでに様々な文書記録が残されており、疫病の流行とその症状の記述もかなり克明になされているために、その疫病がペストであることは容易に判定できます。

 

中央アジアで流行が始まったと見られるこの大流行は、ヨーロッパには1347年6月に侵入しました。コンスタンチノープルで爆発的流行が始まりました。

そしてそれは交易船の移動に乗り、ヨーロッパ全土に広がっていくことになります。

最初に大流行となったイタリアでは、各地で死者の割合が半数以上となるような地域が多く、全滅に近い場所もあったようです。

一方、ほとんど流行しなかった地域もあり、ポーランドや東ヨーロッパ、スコットランド北部、スカンジナビアには届かなかったようです。

ベストの犠牲者割合は正確にはつかむことはできませんが、ヨーロッパ全体としては3割程度の人が死亡したようです。

 

多い地域では半数以上の人が亡くなるという事態ですので、社会そのものが崩壊してしまったところもありました。

そこまでは行かなくとも、中世の社会というものを大きく揺り動かしたのがこのペスト大流行でした。

人々は中世の長い間に培ってきた生活習慣を失い、社会のつながりというものも無くしました。

家族の絆や社会的結合、対人関係というものも大きな影響を受けました。

それまでは厳粛に行ってきた葬送儀礼も放棄され、葬式すら行われずに死者を穴に放り込むということになり、人々の宗教観、道徳観も大きく変化することになりました。

流行地からの逃亡ということも多くなり、そこの社会は死亡者が少なくても崩壊しました。

 

さらに、その原因が分からなかったためにユダヤ人などの迫害ということも起きています。

黒死病発生の地でユダヤ人虐殺ということが多数発生しました。

 

また、このような疫病は神の怒りであるとして、自らを鞭打って回る「鞭打ち苦行」ということを集団で行うことも広がります。

 

このような急激な人口減少はそれまでの経済体制というものも激変させました。

農村は放棄され、逃走した農民たちは都市部に流れ込みます。そういった人々の住むスラムは再び疫病の流行の舞台にもなります。

 

それでも、ペストの病原菌発見というのは近世に入ってからではあるものの、様々な経験から不衛生な環境というものが流行の原因であるということは判明し、都市の環境衛生というものを考えるようになってきます。

イタリアでは各都市に衛生担当者が置かれるようになり、日頃からの衛生状況の向上、また疫病発生時の患者隔離や移動制限、病気発生箇所の燻蒸殺菌などといった対策が実施されるようになります。

検疫という制度ができたのもこのためでした。入港する船舶は一定期間留置し大丈夫と分かってから上陸させるものです。

 

その点、イギリスやフランスの対応は遅れていたようで、17世紀になってもロンドンやトールーズなどで大流行というものが起きています。

 

ペストという病気がこの先も大流行するということはもう無いかもしれませんが、他の感染症が同じような流行を起こすことは無いとは言えません。

人口の3割以上が死亡するというような事態がどのようなものか、想像するだけでも恐ろしいことですが、現在の検疫制度というものもかつての大災害の記憶からできています。

万全の対策をしたいものです。

 

ペストの歴史

ペストの歴史

 

 

「古代遺跡を楽しむ本」吉村作治著

著名な考古学者の吉村さんが、世界各国の古代遺跡を紹介するという本で、一箇所ごとにその場所の思い出と行き方、注意などがガイドブック風に付けられているものです。

 

まあこういった旅行ガイドに一々文句を言っていてもしょうがないのですが、ちょっと気になるところも数々あります。

2000年出版という本でありながら1997年に起きたルクソール事件(イスラム過激派が観光客を襲った事件で日本人も多数が死傷)について何も触れられていないのは何事でしょうか。

 

一応、本の中には旅行の危険性も書かれていますが、それも通り一遍の「強盗、置き引きに注意」と言った程度のものです。

「観光客を狙ったテロ」というものも現在の世界では非常に重要な問題ですので、知識の不足した人々に夢を与えるだけでは危険極まりないと言うべきでしょう。

 

また、トロイの遺跡については、最近その専門家の著書を読み、シュリーマンの発掘姿勢やその結論などについて批判的な意見も目にしました。

sohujojo.hatenablog.com一言で言って、シュリーマンがこの遺跡をトロイアと考えた根拠も薄弱であり、発掘技法も拙劣であったというものだったのですが、吉村先生も考古学専門であるならこういった情報についてまったく知らないはずもないのに、通俗的な「夢を叶えたシュリーマン」という紹介に終わっています。

 

その他の遺跡についてはそれ以上の情報もなく、判断できるものはありませんが、どうも書いてある全てを信じるべきかどうか、迷ってしまうようなものでした。

 

 

「”アレ”はなぜ合法なのか?」間川清著

社会の隅々まで法律で決まっていることが多いのですが、意外に一般の人々はそういった法律について知らないことが多いようです。

弁護士の間川さんが、様々な事例について法律の本当のところはどうなのか、分かりやすく解説をした本です。

 

法律に関する「都市伝説」とでも呼べるような話が流布しています。

たとえば、「飲酒運転をしていても、捕まったその場で酒を飲めば許される」なんていう話がまことしやかに語られます。

実は、このようなことをしても意味が無いどころか、非常に心証を悪くするのです。

飲酒運転をしたかどうかはその場のアルコール濃度だけで決まるわけではなく、その場での警察官による判断や、直前の行動の取り調べなどで総合的に判断されます。

当然のことながら、「なぜその場で酒を飲んだか」ということも判断の根拠にされるので、全く逆効果になります。

 

芸能人やスポーツ選手の結婚、離婚、不倫などの話題が溢れていますが、離婚したあとの子供の養育費や慰謝料などは非常に高額になる場合があるようです。

これも法律で決まっているわけではないのですが、裁判や調停などでは収入に応じた金額が決まることになるので、高額所得者の場合はとんでもない金額になることもあるようです。

 

少し前に、ある男性アイドルが夜中の公園で全裸になったという事件がありました。

誰も見ていないような真夜中の公園で裸になっても「公然わいせつ罪」になるのかという疑問がわきますが、「不特定多数が認識しうる状態」ならば成立するそうです。

逆に、限られた人が出席する宴会の席で裸踊りをしても「不特定多数」ではなく「特定少数」なので実際に裸になって踊っても「公然わいせつ」ではないということになります。

 

合法ドラッグ」なるものが売られているがこれは犯罪ではないのかという問題になりますが、あくまでも法律で禁止されている薬物でなければ現状では「合法」と言わざるを得ません。

法律には書いていないけれど、麻薬と同じような作用をするから取り締まれということはできません。

それは、日本が「罪刑法定主義」を取っているからです。

したがって、取り締まれない物質が出回ればすぐに法律を改正する必要があるのですが、なかなか追いつかないのが実状です。

 

法律というのは確かに社会の基本と言えるのですが、詳しくは知らないというのが普通かもしれません。やはり知っておく方が良いのでしょう。

 

「アレ」はなぜ合法なのか?

「アレ」はなぜ合法なのか?

 
「アレ」はなぜ合法なのか? (経済界新書)

「アレ」はなぜ合法なのか? (経済界新書)

 

 

「おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?」吉野椰枝子著

書名からはどのような内容なのか分かりにくいのですが、副題の「ホームステイ外国人のニッポンびっくり体験」を見ればすぐに分かります。

 

著者の吉野さんは、豊富な英語体験を活かし、日本語教師としての資格も持ちながら、家庭でホームステイの外国人を受け入れ、さらにその人達に日本語を教えるということもされているということです。

そのような生徒さん(ほとんどは若者のようです)の日本生活でのエピソードをあれこれと書き連ねています。

 

日本語を覚えたいと少し長めのホームステイ(だいたい2-3週間というのが多いそうです)をしに来るという人たちは、日本のアニメやマンガに興味を覚えてということが多いようです。

まあきっかけはともあれ、日本の生活や社会に触れてもらえるのは有益なことでしょう。

 

吉野さんもホームステイではできるだけ普通の日本の生活というものを経験させようとしているようです。

そのため、食事もあまり構えたものではなく現代の普通の食生活を体験させようとしていますが、やはりヨーロッパの人たちには魚中心の食事や馴染みのないもののようで、手を付けない料理というものも結構ありそうで、中には出された食事ではあまり満足できずに近くの店でパンを買ってきてジャムを付けて食べていた跡が残っていた人もいたとか。

 

ほとんどが初めての訪日という若者たちで、日本社会というものも初めてのことばかりですが、書名にもなっている「おにぎりはどこの角から食べるのか」というのも彼らの発した質問です。

他にも「ポッキーはどうやって食べるのがマナーか」とか、「自転車に乗っている人が多いのに驚き、止める時に簡単なロックしかしないのにも驚く」といったところに発見をしているようです。

 

外国人が日本語を覚えようとする時に難しいのは「カタカナ語」のようです。

外来語を表すのにカタカナ表記ということが多いのですが、その発音が原語とははるかに離れているために、上級者でも難しいとか。

外国人が??と思うベスト4は、1.ガール、2.ユーモア、3.チーム、4.プリンだそうです。

 

数多くの若者たちを見てきた著者が、日本語上達の進度が速い人に共通の性格として、「日本食を食べようと努力する人は日本語上達も速い」と言えるそうです。

やはりなんでもチャレンジしてみようとする人はその能力も高いようです。

 

なお、ちょっと笑えないエピソードとしては、フランス人の若者が家の中で話をしていた時に、隣の家で「布団たたき」を始めたのですが、急に顔色を変えて逃げ出そうとしたそうです。

実は「テロかと思った」のだそうです。そこまで状況が悪化しているのかと感じました。

 

こういった交流が深まるほど良いのでしょう。

 

おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?―ホームステイ外国人のニッポンびっくり体験

おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?―ホームステイ外国人のニッポンびっくり体験

 

 

「日本 喪失と再起の物語」デイビッド・ピリング著

著者のピリングさんはフィナンシャル・タイムズ紙のアジア編集長ということで、2001年から2008年まで東京支局長を務めました。

また、東日本大震災の直後には被災地に入り、取材を続けたそうです。

 

非常に数多くの人々に話を聞き、また様々な資料を調べ、日本および日本人についての本を書くこととなりました。

大震災とそこからの復興というのも一つのテーマですが、それだけでなく幕末明治の開国と富国強兵、太平洋戦争敗戦とそこからの戦後復興、高度経済成長とバブル崩壊後のデフレなどについても記されています。

 

やはりこの本は欧米読者向けであろうと思いますが、彼らの日本および日本人観の誤りというものの指摘もあり、また日本人が持ちやすい誤解についても記されています。

 

非常に多くのテーマを扱っていますが、どれも間違いのない記述であろうと思います。ただし、あくまでも正統派、多数派の解釈によるもののようです。

 

したがって、私のようなひねくれ者から見るとちょっと物足りない記述に終始しているようにも見えます。

 

いくつか気の利いた記述を書き留めておきます。

 

日本は「脱亜」には成功したものの、「入欧」すなわち植民地主義国家として成功することには無残なまでに失敗した。この国がいまだに外の世界とうまく関係を結べないのはこの歴史的経緯と深い関係がある。

「西欧クラブ」の一員になろうとして失敗したために日本は外交的に宙ぶらりんの状態に置かれ、しかもかつて征服しようと試みた反日感情の強い隣国に囲まれている。

だからアメリカの属国としての立場しかないのでしょうか。

 

日本経済に新たな活力を吹き込むには他にも様々な方策が考えられたはずだが、既得権を守るためにことごとく退けられた。

日本に必要なのは市場開放と規制緩和であり、電力、看護、保育、農業、漁業、林業などの分野に必要だがまったく手を付けられていない。

この部分は重要な問題ですが、市場開放と規制緩和も方向違いになれば害毒だけでしょう。

 

この本は上下2巻のうちの上巻ですが、下巻は読む気が起きませんでし

  

 

日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11 (下) (ハヤカワ文庫NF)

日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11 (下) (ハヤカワ文庫NF)

 
日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11 (上) (ハヤカワ文庫NF)

日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11 (上) (ハヤカワ文庫NF)

 

 

 

 

 

「アーリア人」青木健著

アーリア人」と聞くとどうしてもナチス・ドイツが利用した人種論を思い出してしまいますが、実際にアーリア人と言うべき人々はイランからインドにかけて住んでいた牧畜民で、その後は様々な方面に散っていきました。

他の民族と同化したものもあります。

 

本書はナチスの言ったような北方系のアーリア人なるものはごく簡単に触れるのみで、正統派というべき中央アジアからイランにかけての人々について詳細に語ったものです。

 

しかし、やはりドイツなどのアーリア人概念がどうして生じたかについてから紹介しておきましょう。

インドヨーロッパ語族と言われる、共通の祖語から生じた言葉を話す人々は主にイランを中心とした地域から各地に移動していきました。

実は見た目も相当違うヨーロッパ人とイラン人、インド人が共通の祖先を持っているということは、ようやく18世紀になって知られるようになりました。

インドがイギリスの支配下におかれ、イギリス人が多数インドに入り込むようになると、言語学者もインドに赴きました。そこで彼らがふれたサンスクリット語は驚くほどヨーロッパ言語と共通でした。

そこから、人種的にも共通祖先を持っているという認識になっていきます。

 

そして、それは常にヨーロッパより先行していたセム系民族に対するコンプレックスをひっくり返そうとする意識にも影響されました。

ユダヤ教キリスト教も、セム民族が生み出しました。

それに対するにアーリア人種であるという自意識が必要だったようです。

実際はイランから発した一部の人々がヨーロッパに達し、北方民族と混血して生まれたもののようです。

 

本書の中心はウクライナから中央アジアにかけての草原に栄えた騎馬遊牧民であるキンメリア人、スキタイ人、サカ人、パルティア人、

そしてインドに進出したインドサカ人、インドパルティア人、

さらにイランの地で世界帝国を樹立した、メディア人、ペルシア人、等々です。

イランにイスラームが入って後は、イラン系アーリア人の生き残りのパシュトゥン人やペルシア人イスラム化して現代まで続いています。

 

イラン系アーリア人の宗教としてはゾロアスター教が有名ですが、その形態も各時代、各地方で違いはあるようです。

しかし、どれもイスラム化の後には消え去ってしまいました。

 

なお、この地域の文化研究はかつてはギリシア語文献によるものがほとんどであり、使われる用語もギリシア語からのものでした。

本書ではできるだけイラン系アーリア語で表記をしたということで、あまり聞き慣れないものもありました。

たとえば、「ハカーマニシュ王朝」とは何かと思えば、「アケメネス朝」のことで、かつて慣れ親しんだ「アケメネス朝ペルシャ」のことでした。

また、「ザラシュストラ」も「ゾロアスター」のことでした。

 

歴史もどの方向から眺めるかによってその見え方が大きく異なってくるようです。

 

 

アーリア人 (講談社選書メチエ)

アーリア人 (講談社選書メチエ)