爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「〈歳出の無駄〉の研究」井堀利宏著

国の財政は危険な状態であるという認識は誰にでもあるのでしょうが、それを何とかしようとして増税を持ち出すと必ず「その前に国の歳出の無駄をはぶけ」という主張が出てきます。

確かに、国の支出について毎年調査を続けている会計検査院の発表でも数十億といった無駄の指摘が毎回出されていて、無駄の存在と言うのは明らかなのですが、ではそれを無くしていけば財政は持ち直すのでしょうか。

 

そんなことは無いというのが、経済学者で公共経済学がご専門という著者の意見です。

無駄は確かにあちこちに存在し、それは無くさなければならないのは当然ですが、どうやらその絶対額は大したものではないようです。

また、無駄と言っても国の財政支出には「相対的無駄」とも言うべき、そこに依存している人間が少なからず存在するものも多いようです。それを減らすならそういった人々は収入を失うことにもなります。それをどの程度進めていくか、話はそう簡単なものではありません。

 

無駄を無くすことが至上命題という考えもあります。

しかし、「まず無駄をなくせ」というのは一見もっともらしく見えるのですが、無駄と言っても結果としてやむを得ず生ずるものもあり、削減すると国民の一部に痛みを与えるものもあります。

国民の大多数が一致して無駄であると思えるものは意外に少ないものです。

結果として無駄になる歳出であっても、災害対策や軍備などもしもの場合には必要なものもありますが、何もなければそれらは無駄と言えます。それを削減することは危険です。しかし際限のないような支出もできません。

 

無駄を気にしすぎるのも相当な弊害がありそうです。

たとえば民間で賞味期限が厳しすぎると無駄が出るといってもそれを避けるために期限偽装などは許されません。

また、賞味期限を守りながら無駄を最少にするというシステム構築に多額の費用をかけるというのも逆に無駄です。

 

ただし、民間と比べて政府歳出に無駄が多いというのは間違いないようです。

それは、政府予算が硬直化しており、予算処理も予算の消費だけが目的となるようなおかしな例が頻発します。

また民間では予算処理を削減してコストを下げて利益が出れば担当者の評価が上がるということがありますが、政府行政機関では利益創出を業績とは認めず仕事の遂行だけが業績であるということがあります。

 

政府歳出の無駄にも2種類あり、それは「絶対的無駄」と「相対的無駄」としています。

絶対的無駄とは、「公共サービスの質を劣化させずに削減できる歳出」と、「歳出それ自体の便益がマイナスであるもの」です。

最初の定義に当てはまるものは、過剰な公務員の福利厚生費用や民間給与を越える公務員給与上乗せ、公共事業談合による上乗せ費用があたります。

第二の定義に当てはまるのは、それ自体が地域住民にマイナスをもたらすような公共事業(宍道湖諫早湾干拓など)です。

会計検査院予算執行調査は基本的にはこのような絶対的な無駄のごく一部のチェックをしています。

 

相対的な無駄とは、便益とコストの比較で初めて分かるようなものであり、分かりにくいものです。

例えば、多額の建設費用の割にあまり便益を生まない公共事業(青函トンネル整備新幹線など)、医療における過剰な検査、裕福な高齢者への公的年金給付、豊かな地域への補助金などです。

これらは当事者や一部の地域にとってはそれなりのメリットがあるために実施されます。しかし、公平にコストと便益の大きさを評価すると成り立っていません。

 

本書では以下に各部門の無駄の実情を詳細に検討されています。

第2章 特別会計の無駄

第3章 人件費と政府消費の無駄

第4章 公共事業の無駄

第5章 補助金の無駄

その内容についてはここでは詳述は避けますが、誰もが考えるべきものが多いようです。

 

これらの無駄の総額というものを試算してますが、会計検査院の指摘の金額はせいぜい毎年数百億円であり、一般会計予算の0.1%以下です。ごく一部のみと言えるでしょう。

それでは、本当の無駄の金額はどの程度か。

あくまでも試算ですが、絶対的な無駄としては人件費で2-3兆円、公共事業費で1兆円、地方行政や独立行政法人まで含めて約6兆円、GDP比で1%程度です。

 

一方、相対的な無駄というものは人々それぞれの立場でまったく評価が違うので一律のの試算も不可能ですが、上記の絶対的無駄の金額よりははるかに大きいものになるでしょう。

大まかに言って、絶対的無駄の数倍、国レベルで5-10兆円、地方分も合わせると10-15兆円に上るものと推測できます。

 

こういった無駄の削減というものは財政再建のためにも不可避なのですが、利害関係者が多数居るためにどうしてもこの実施は先送りされがちです。

公営事業を民営化することで無駄を省き売却益も上げられると言われますが、これはその場限りの収益でしかありません。

預金封鎖という最後の手段も財政再建の方法として挙げられますが、とんでもない話です。現代では銀行預金は決済手段としても利用されており、いくら窓口での預金引き出しを制限しても事実上口座決済の形で流れ出します。

それも禁止するとなると経済活動は崩壊します。

 

本書の最後には、無駄をなくすための具体的な提案というものが書かれています。

意外にも思えるのが、「選挙制度の改革が必要」という指摘です。

歳出に無駄が多い原因は実は「選挙制度の欠陥」にあるということです。

この欠陥のために、地域の特定業種の利益を最大にするような政治家が予算獲得に活躍し、それを既得権益化することが歳出の無駄につながっているからだとしています。

 

選挙区の区割りを決めるのは、議員ではなく第3者機関に任せるという提案もされていますが、これも私の意見とまったく同じです。

(まあ小選挙区制にこだわるとどうせうまくいかないとは思いますが)

 

やはり根本から見直さなければいけないようです。

 

「歳出の無駄」の研究

「歳出の無駄」の研究

 

 

「古代国家はいつ成立したか」都出比呂志著

著者の都出さんは、考古学者で「前方後円墳体制論」という初期国家論を提唱されている方ということです。

どうも古墳の形式の伝播を見ていけば当時の体制が理解できるという主張のようですが、それを調べていると本書の記載について強烈に批判してあるサイトを見つけました。

そちらの方が面白いので引用しておきます。

toyourday.cocolog-nifty.com

書いた方は専門の研究者ではないかもしれませんが、古代史について相当興味を強くお持ちの方のようです。

それによれば、どうも本書の主張は著者の独りよがりの思い込みが強く、それに沿ったものを裏付けなしに並べてあるだけということです。

 

この書評を見たら、もうちょっと自分の感想を書く気もなくなってしまいますが、くじけずにちょっとだけでも書いておきましょうか。

 

国家というものがどういうものかという定義によって、日本でも古代国家がいつ始まったかという評価は変わってくるようです。

律令体制確立をもって国家成立と考えるならば710年の平城遷都であろうという説もあるわけですが、本書著者によればそれ以前に徐々に組織体制は整えられているので、別の時点を国家成立と見ることもできるとか。

そこで、最初にも記したように著者の提唱した「前方後円墳体制成立」時をもって初期国家成立とするという、学説が出てくるようです。

 

どうも、上述サイトの批判を見たらもうそれ以上言うこともなくなってきます。

以上

 

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

 

 

米朝交渉実現へ向かうのか 日本政府はどうも冷ややかな態度に見える

トランプがいきなり北朝鮮との直接交渉、首脳会談すら視野に入れるというニュースが入り、まあ驚くというほどのことはありませんが、少々意表を突かれた感じはします。

 

しかし、それにしては日本政府の反応はやや冷ややかなものに感じます。

まあおそらく北朝鮮の制裁逃れや時間稼ぎといった意味合いが強いのは確かでしょうし、これまでも何度も見せかけの態度にごまかされてきたというのはありますが、何と言っても戦争の危機が薄れることは北朝鮮周辺の日本や韓国にとっては良いニュースのはずなのですが。

 

どうも、「非核化」や「弾道ミサイル放棄」が目標と言うのがその根底にあるからではないでしょうか。

 

実は「非核化」も「弾道ミサイル開発停止」も日本にとっては二の次の問題です。

これが問題なのは特にアメリカであり、日本としては無いに越したことはないがそれよりもまず緊張緩和ということが必要なことであるからです。

 

もしも北朝鮮とアメリカが開戦ということになれば、たとえ核兵器弾道ミサイルが無かったとしても日本には相当な攻撃が加えられる可能性があります。

北朝鮮は次の瞬間に国全体が消されたとしても、最後の反撃で手の届く範囲の韓国や日本に攻撃するでしょう。その時には当たりどころによっては数十万、数百万の人が犠牲になるかもしれません。

 

ここで、「非核化がなければ駄目」とかいった言葉を出すのは、アメリカの立場と日本の立場をもはや別のものと考えられないという証拠です。

 

「日本政府」が実は「アメリカ政府代理人」であることの現れなのでしょう。

「世界はすでに破綻しているのか?」高城剛著

高城さんの本は前にも一度読んでみて、そのあまりにもアクが強いのにあてられてしまったのですが、懲りずにまた読んでみました。

「グレーな本」高城剛著 - 爽風上々のブログ

 

今回の本はデフォルトと言う国家財政破綻債務不履行)の状態に陥ったらどうなるか、ご自身の体験に基づき書いておられます。

その裏にある国際金融資本の暗躍や、世界銀行、EU、IMF等のやり口にも鋭く目を向けるという、前に読んだ本の印象とはまったく違ったものを感じました。

 

高城さんは国際的なクリエーターと言うことで、世界のあちこちに暮らして制作を続けてきたということですが、なぜか住んでいるところで国家財政破綻と言う状況になってしまったということがあり、そこでの社会の緊迫感、不安等住んでいる人の感想も直接聞いてその苦境を見てきたということです。

 

冒頭にあるのは、2008年ロンドンに居た頃の発砲事件。高級住宅街でそれまでは法廷弁護士であった男が自宅から無差別発砲を行ったという事件のすぐそばで銃声を聞いたということです。

弁護士業務の傍ら投資をしていたのが、リーマンショックで一瞬にして全財産を失って犯行に及んだというものでした。

 

その後、スペインに移り住んだのですが、そこに追いかけるようにリーマン・ショックの余波として”ユーロ危機”がやってきます。

その直前まで続いていたスペインの不動産バブルもあえなく崩壊。不動産は暴落し失業率は50%以上にまで達しました。

そのような状況でも人々はなんとか生きていたそうです。

 

デフォルト(債務不履行)なんていうことはそれほどは無いだろうと思うと間違いで、中南米やアフリカの国々ではしばしば、ヨーロッパでもポーランドルーマニア、ロシア等で起きています。

 

1997年に始まるアジア通貨危機では、一見好調に見えた国々の経済があっという間の破綻しました。

その寸前にはどこでも好景気で浮かれたように見えます。

しかし一度市場のリスクが表面化すると海外からの投資資本はあっという間に逃げ出してバブルは吹っ飛んでしまいます。

ところが、その恐慌を待ち望んでいるかのような人々がいます。

いわゆるヘッジファンドという投資組織で、このような状態になると空売り、売り浴びせといった手法を駆使し最後の儲けをつかもうとします。

それでさらに対象国の傷口が広がります。

 

ギリシア危機、スペイン危機がなんとか治まった2013年にはキプロス経済が突然のように危機に瀕します。

それはあまりにも急であったのでほとんどの国民が自分の銀行預金をおろすこともできず、そしてそのまま預金の大半を没収されるということになります。

2008年のユーロバブル真っ只中では、ヘッジファンドなどの投資マネーが行き場を探していたのですが、そこにキプロスがユーロ圏参入という、モンスターマネーの餌食となる状況がやってきました。

余剰マネーはキプロスで不動産を買いあさり、土地は高騰しました。

さらに、キプロスの低すぎる法人税を目当てに、タックスヘイブンとして金融センターとして発展することになります。

そこにさらにロシアマネーも流入し大変なことになります。

キプロスの金融機関も経験のない大量資金流入に我を忘れ、極めて近い関係であったギリシア国債をせっせと購入しました。国家資産のおよそ25%がギリシア国債となりました。

そこにギリシア危機がやってきてギリシア国債暴落となります。

キプロスの銀行も最大のものと二位のものが一気に破綻するという事態になりました。

銀行預金も1人10万ユーロ以上は引き出せない、事実上の没収となりました。

しかし、何らかの情報を得たものたちはそれ以前に退避させていました。結局力のない庶民が餌食となったのです。

 

このように、財政破綻というものは一般国民にとっては非常に厳しいものですが、これをチャンスとして待っているかのような連中もいるということです。

上述のヘッジファンドもそうですし、ベンチャーキャピタルも狙っています。

こういった混乱というものは強者にとってはチャンスなんでしょう。

 

日本がこのような財政破綻にならないかどうか。絶対大丈夫とは言えないように思います。

 

世界はすでに破綻しているのか?

世界はすでに破綻しているのか?

 

 

「ダ・ヴィンチ絵画の謎」斎藤泰弘著

ルネサンス絵画の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、その最高傑作のモナリザを始めとして多くの謎を秘めています。

それについて数多くの研究が為され、様々な学説も発表されています。

 

そういったことについて、ダ・ヴィンチ研究の専門家である著者が多くの彼の遺稿や他の関連文書の発見状況なども踏まえて解説していますが、その内容は非常に高度のものと感じますし、著者自らの大胆な仮説も含められています。

 

こういった執筆姿勢についてはあとがきにその理由も書かれています。

著者の恩師、京大イタリア文学科教授であった故清水純一氏は著者に3つの教えを残します。それについては略しますが実は「第4の教え」もあったそうです。

それは、「研究者は何よりもまず、しっかりとした研究書を書きなさい。その後で新書(!)のような一般向けの本を出せばいいのだから」ということだったそうですが、著者いわく「こればかりは時代錯誤の教えであってそれに倣って安心していたわたしが阿呆だった。現代では研究書など誰も読んでくれない。出版を引き受けてくれる出版社など自費出版でもなければ見いだせない」

だから、本書のように極めて高度な研究書も「新書」で出版しようと決めたそうです。

 

そんなわけで、本書の内容は学界トップレベルの最先端であるということでしょう。

 

まず、レオナルド・ダ・ヴィンチを本書中では「レオナルド」とのみ呼んでいますが、これは当時の人名の呼び方の習慣から来ます。

人名は「自分の名前+父親名+祖父名+曽祖父名+etc.+最後に家系や出身地名」であり、レオナルドの正式名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ディ・アントニオ・etc.・ダ・ヴィンチ」で最後のダ・ヴィンチは「ヴィンチ村出身の」という意味しか無いからだそうです。

したがって、本人がフィレンツェからミラノへ移った時には、「ダ・ヴィンチ」と呼ばれると「私はフィレンツェ出身です」と言い直したということです。

 

現代でもレオナルドの数々の絵画について、さまざまな手法で解析した結果を発表する人は多く、最近でもモナリザを画像処理したところこれはレオナルドの自画像だとした新説を発表した人がいたそうです。

これについても著者はレオナルドの残した多くの文章を解析し、肖像画はその制作者に似ないようにしなければならないという本人の文章を見出し、その注意をしたにも関わらずやはり似てしまったのではと結論づけています。

 

レオナルドは最初に生地近くのフィレンツェで活動を始めます。

若いうちから才能を表し、20歳でマエストロの資格を取りますが、絵画を描く活動にはあまり熱心ではなかったようで、頼まれた仕事を完成させないという悪癖があったようです。

一方、科学的な探究心は非常に盛んでその方面には執心していたようです。

そのためか、画家としての社会の評価は低くなりフィレンツェに居づらくなったのか、ミラノに移ります。

ミラノ公にあてた自薦状が残っていますが、最初に触れられているのは兵器の製造などについてのことであり、あとの方に「絵や彫刻も作れます」と付け足しで書かれているとか。

こうして「公国付きの技術者」となったレオナルドですが、それを良いことに自然科学の研究に力を入れることとなりました。

 

彼の描いた絵画はモナリザもそうですが、「聖アンナと聖母子」と言う絵でも見られるように、主題の人物の他に背景には様々な風景が描かれていたり、足元に意味不明な物体があったりと、謎を見つけるのが容易なほどです。

そこには数々の自然科学的な興味の対象、地形や化石なども描かれているようです。

「聖アンナ」の絵には後景、中景、前景のすべてに地球の過去と現在、未来の有様を彼の膨大な科学的研究の成果に基づいて描かれたものが含まれているということです。

 

後半部はモナリザの微笑について、様々な考証が為されています。

これについても、本人やその周辺の人々の文書、メモ、記録等が残っており、それを解析するというのが研究者の手法となっているようです。

そのために、新発見の文書などというものが出る度に定説が変化していくということにもなるようで、まだ確定的なものではないようです。

レオナルドは老年期には弟子とも召使ともつかないような同居者のサライという人物に弱みを握られていて、モナリザも奪い取られたとか、サライはそれをフランス王に売ったとか、色々と興味深い推測がなされていますが、まあそれは良いでしょう。

 

最後に著者のこの絵についての推理を書き写しておきます。

レオナルドが1500年頃にフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻の肖像を描いたのは間違いないことのようです。

しかし、その絵は今残っているものではありません。

1515年に、メディチ家の当主ジュリアーノ・デ・メディチから「空想の女性の肖像画」を依頼されました。

その女性とはジュリアーノが若い時に秘密に恋人として子供も産まれた人だったのですが若くして死んでしまいました。

それをレオナルドはかつて描いたジョコンダ夫人の肖像画の下絵を元にして描いたのではないかということです。

したがって、実在の人物に似た所はあっても、理想の女性像となったということです。

本当かなと思わせるところはありますが。面白い推論でしょう。

 

カラー版 - ダ・ヴィンチ絵画の謎 (中公新書)

カラー版 - ダ・ヴィンチ絵画の謎 (中公新書)

 

 

花粉の飛散が悲惨な状況

数日前から花粉症の症状が激しく表れ、目のかゆみ、鼻水に加え喉の刺激で発作的な咳などが続いています。

 

実は、花粉症は40代から50代くらいの年の頃にひどかったのですが、ここ数年それほどでもなくなり、もしかしたら老化のせいで免疫機能が低下して花粉症も緩和されたのかと思っていました。

 

しかし違った。どうやら単にここ数年花粉の飛散量が少なかっただけのようです。

 

またあの悲惨な花粉症が再開しました。頭も重くぼーっとしているし、目は開けているのも辛く物がよく見えません。

 

早く終わらないかな。

「生命とは何だろう?」長沼毅著

生命で溢れている地球ですが、これがどのように発生し進化してきたのか、まだまだ分からないところが多いようです。

 

生命の発生からその進化、そして最後の人類の誕生から未来まで、生命全体を綴った生物学者長沼さんの本ですが、間違いないところを扱った教科書のようなものではなく、かなり不確定部分も大胆に書いた随想のようなものです。

 

したがって、そこまで言って良いんかと思わせるところもあるとともに、著者の思いがより分かりやすく伝わってくるように感じられます。

 

生命の起源はどのようであったのかということは、重要な問題ですがもちろん、確定的なことは分かっていません。

原始の地球でアミノ酸ができたかどうかを実験したのはスタンリー・ミラーというアメリカの化学者で、メタン・水素・アンモニア・水蒸気を容器に詰め、電気放電を繰り返してアミノ酸が生成するのを確かめたというものですが、これは確かに起きうる現象だということは分かりますが、その先のアミノ酸がタンパク質になるかどうかは問題です。

生物反応では酵素がいとも簡単にアミノ酸をタンパク質に作り変えますが、無機反応でこれが起きるかどうか難しいものです。

火山の噴火口のような高熱環境で作られたという説もありますが、著者はこれには懐疑的です。できたとしてもその量はごく僅かで生命につながるのは難しいでしょう。

著者は、黄鉄鉱のような鉱物の表面で濃縮されてできたのではないかと説明しています。表面代謝説と名付けています。

活性炭のような構造ですので、必要な物質が接近して反応できるのではないかということです。

 

そのようにできたかもしれない「生命」ですが、では生命の定義とはなんでしょう。

それは、「代謝」「増殖」「細胞膜」「進化」だそうです。

これらすべてが揃わなければ生命でないとは言えないようですが、地球の生命はこれを満たします。

ただし、どのような生命でも少なくとも「代謝」はあるでしょう。

これが生命活動の本質と言えるようです。

 

誕生した生命は徐々に進化をしてきました。

初期に発生したシアノバクテリアという微生物は、光合成ということを始めて、当時は大量にあった二酸化炭素から酸素をどんどんと作り、地球上の酸素濃度を上げていきました。

これを「大酸化イベント」と呼びます。

ただし、その頃のシアノバクテリア二酸化炭素に水素を付ける反応を行うのに、硫化水素からの水素を使いました。

しかし、徐々に変異した生物の中に、クロロフィル葉緑素)を持つものが表れました。これは、硫化水素よりはるかに大量に存在する水(H2O)から水素を取り出しました。そのため爆発的に増殖し酸素の増え方も格段に上昇しました。

こういった酸素濃度の上昇は生物の進化にも大きな影響を与えました。

多細胞生物の誕生もこれが関わっていたようです。

 

生物は多細胞化し徐々に大型になりました。

そして、5億4200万年前からのカンブリア紀に様々な生物種が登場するカンブリア爆発が起きます。

その前のエディアカラ生物群は大量に発生したもののそこまで確固とした身体の構造が作られていなかったのですが、それがカンブリア紀になって全く異なる進化を始めました。

エディアカラ生物群の発生の前には地上の海全体が大量のプランクトンのような微生物で濁っていたと考えられるそうです。

それが、大型生物の大量発生でそのようなプランクトンを食べてしまうことによって、海がきれいになり太陽光が深いところまで届くようになりました。

そこで「目」が発生したということです。

目を持つ生物が出現すると、それは他の生物を襲って食べるようになりました。

相手も黙って食べられるだけではなく様々な進化をするようになります。

こうやって、生物種の多様化が一気に進んだと考えられるそうです。

 

デボン紀後期やペルム紀末には、海中の酸素濃度が一気に低下する酸欠状態が全地球的に起きたと考えられます。

そこで海中生物を中心に大絶滅が起きました。

これにはこの時期の大陸配置も関わっていました。

現在の大陸配置では、南極とグリーンランド付近で海水が冷やされて大量に酸素を含み深海に沈み込みます。

しかし、ペルム紀末の大陸配置はひとつの超大陸と超大洋があるだけだったのです。

すると赤道の付近で温まった海水は地球の自転で東西方向に流れますが、それが超大陸にあたって南極と北極の方に流れ込み地球全体が温暖化することになりました。

さらに、海洋中の植物プランクトンが増えすぎました。陸地から大量のミネラルが供給されたこともあり、超大陸付近の浅瀬では大量発生しました。

これが死ぬと浅瀬の中に大量のヘドロとなって溜まりました。

これが実は現在の石油の元となったものです。

したがって、当時の浅瀬であった現在の中東、インドネシアベネズエラなどに特に原油が存在する理由となっています。

 

現生人類の属するホモ属はおそらくアウストラロピテクス属から進化し、いまから260万年くらい前に分化しました。

様々な種が現れては消えていきましたが、20万年ほど前に現生人類のホモ・サピエンスが誕生しました。

その最初の15万年と最近の5万年では大きな違いがあり、それは知能だそうです。

7万年から5万年前のいずれかの時期にアフリカを出て全世界に広がりました。

それはせいぜい数百人の規模の集団から始まっていたようです。

彼らは他のグループと比べても特に知恵や技術力が高かったということです。

空間認識力も優れ、集団での狩りも得意でした。

さらに「好奇心」というものが強いのも確かです。

そうでなければ、そこまで世界各地に行く必要はなかったはずなのに、山を越え海を渡って行きました。

どうやら「遊び」や「探究心」というものが特に強かったようです。

 

これからの人類がどうなるか、進化するか滅亡するかでしょうが、ホモ・サピエンスには非常に強い好戦的性質があるのは確かです。

それとともに、それを制御する知性が備わっていると著者は希望を抱いています。

それは「協調性遺伝子」というものですが、他者と強調できるという性質が強い人が指導すれば世界人類が共存していけるということでしょう。

 

最後のあたり、ちょっと人間を買いかぶり過ぎではないかとも感じます。

また、「出アフリカ」した種族は「知恵や技術力、探究心が強い」というのもちょっと気になるところで、「ではアフリカに留まった人々はそうではないのか」と思わせるものがあります。

まあ、著者の随想と考えれば仕方のないところかもしれませんが。

 

生命とは何だろう? (知のトレッキング叢書)

生命とは何だろう? (知のトレッキング叢書)