八代市の西南戦争に関連する場所のうち、八代神社周辺を回ってみました。
この近辺が関わる事件の日付を簡単に再録します。
明治10年3月25日 別府晋介、辺見十郎太らが鹿児島で新たに1500名を集め熊本に。
4月17日までの間、この近辺で激戦が続く。
その中で、萩原堤の戦いでは協同隊の宮崎八郎が戦死、別府晋介も重傷を負う
4月17日 官軍が勝利し薩軍は敗走。
この時に薩軍が本陣を置いたのが宗覚寺ということです。水無川沿いに少し山あいに入ったところにあります。
もちろん、戦争時にはすべて焼失していますので、再建されたものになるようです。
さらに、激戦地となった八代神社(妙見宮)です。
大きなクスノキには銃弾が残っているという話ですが、それがこのクスノキかどうかは分かりません。
激戦地となった春光寺です。
今ではまったく戦争のことなど信じられないような山麓の静かな寺です。
まあ、この時はちょうど右側の坂道で女子高生が陸上競技の練習をしていて賑わっていましたが。
春光寺からすぐのところには球磨川が流れており、長く堤防が続いています。
加藤家の重臣、加藤正方が八代城築城と同時に築いた堤です。
この付近でも西南戦争で激戦が戦われました。
付近にある宮崎八郎戦没の碑です。
八郎は肥後玉名の出身で自由民権運動の活動家ですが、西南戦争時には薩軍に味方しました。弟に宮崎滔天がいます。
この碑の題字は司馬遼太郎の筆によるものです。
140年前には戦いがあったとは思えないようなうららかなところです。